あの子の鼻が変わった
あの子の鼻が変わった。
前よりも芯が入ったように真っ直ぐになったし、横顔にもメリハリがある。
幅も小さくなっちゃって、鼻の穴の存在感も薄い。
鼻筋がシュッとしているのも、きっとメイクが上手くなったせいじゃない。
わたしはずっと見てきたから分かる。
彼女はこの夏、鼻を整形した。
房延恵奈はわたしと同じクラスの女の子。
一年生だった去年も同じクラスで、一緒に図書委員をやったことで友だちになった。
わたしは読書とか、あんまり興味がなくて。だけど部活にすら入るつもりがなかったわたしを見かねた母に言われて、なんとなくで立候補した。
「あんた、せっかくの高校生活を何もせずに終わらせるつもり?」
余計なお世話。課外活動なんかしなくてもわたしは十分に高校生活を満喫してみせます。
心の中ではそう思った。けど、あまりにしつこいから一番楽そうな委員を選んだ。そうしたら同じ職に恵奈も手を挙げていた。ただそれだけのこと。
恵奈はわたしと違って読書が大好き。それにちょっとお節介。やる気底辺なわたしに対しておすすめの本を紹介したりしてくれた。恵奈はわたしが人見知りで緊張しているのだと勘違いしたみたい。本当は、委員会の集まりが眠たくて意識が飛びかけていただけなんだけど。
断る理由もないし、わたしは彼女に言われるがままおすすめの本を読み続けた。
いくら読んでも"本"ってものに興味が向かなかったのは、単純にわたしの想像力が乏しいだけなのかもしれない。
それでも彼女のおすすめを聞くのは楽しかった。
わたしはただそのためだけに、興味もない本の表紙を開きまくったのだ。
わたしが興味あるのは彼女だけ。
房延恵奈。
わたしはあなたのことが好き。
あなたには決して、伝わることのない気持ちだけれど。
*
夏休み前。蝉の声がうるさくなってきた頃。
汗で額に張り付いた前髪が気持ち悪くて頭を振った。
うだる暑さの中、渡り廊下を歩く真白の大群。空を見上げれば太陽が邪悪な笑みをこちらに向けている。今日の体育の授業が体育館で行われたことに救われた気分になる。
こんな中バスケをやらされていたら、きっとクラスメイトの半分以上が熱中症でダウンしていたことだろう。
ただでさえ汗っかきのわたしは、もしもの光景にゾッとする。
屋根の下を歩いているからか、体温を上回る気温の中にいるというのに心臓が少しひんやりとした。
少し前を見やれば、色素の薄い髪を一つに束ねた毛先がうなじの位置で揺れている。
彼女が右を向けば髪の束が弧を描くように横にスライドした。友だちと楽しそうに話す彼女の笑顔が半分だけ姿を現す。
優しい線でなぞられた彼女の緩やかな鼻。笑うたびに小さく震えているようにも見えた。なんだか懐かしく思えてしまうその横顔から、わたしは目が離せなくなってしまう。
学年が上がり、恵奈もわたしも図書委員を辞めた。
一年課外活動をすれば十分だろうというわたしの理由とは違って、恵奈の場合は部活動が忙しくなったからだ。
恵奈は一年の途中から別の友だちに誘われてダンス部に入部した。恵奈のことを誘ったのは、夏期講習で同じところに通っていたらしい違うクラスの女子だった。わたしもその子のことは知っていた。
わたしたちの学年で一番人気と権力のある、所謂カースト上位の女子生徒だからだ。
恵奈がダンス部に入ってその子たちとつるむようになってから、わたしと恵奈の距離が少しだけ開いてしまった。
図書委員の集まりではそれまでと同じように会話をしたし、おすすめの本をちゃんと教えてくれた。
だけど委員会以外の時間では、彼女と話すことが少なくなっていった。
もちろん話しかければ恵奈は笑顔で答えてくれるし、一緒に帰ることだってあった。
でも徐々に、ぽっかりと心に穴が開いていくような感覚を覚えていったんだ。
二組前を歩く恵奈の後ろ姿。
彼女はわたしとは違って、べったりと汗なんかかいていない。
その差が恥ずかしくて。情けなさが浮き彫りになるせいか、爽やかな彼女の姿は、わたしの胸をぎゅっと絞めてくる。
こんな風にこっそり見つめているなんて、なんだかとても、悪いことをしている気分だな。
更衣室で制服に着替えている途中、あまり意識したくなかった恵奈の声を耳が勝手に拾う。
彼女の新しい友だちが大きな声を出して、恵奈が負けじとその声を止めたからだ。
皆の視線が一瞬、彼女たちの方へと向けられる。
恵奈たち三人は慌てて「なんでもないよ。ごめんごめん」と頬を崩して恥ずかしそうに笑う。だから皆の視線はすぐに散らばっていった。
わたし、を除いては。
「恵奈、それ本当? 今日? 明日?」
「桃はせっかちだなぁ。金曜日だよ。それなら悪い結果でも週末に逃げられるもん」
恵奈をダンス部に誘った桃が、わざと黒く染めた髪の毛をとかしながら彼女をニヤニヤと見ていた。恵奈は顔を赤くして彼女の肩を小突く。
「そわそわする! ねぇねぇ。あたしたちも近くで見てていい?」
もう一人の友だち。確か名前は大橋、が、恵奈にぐっと顔を近づける。
「だーめ! 恥ずかしいもん!」
「えー。いいじゃんいいじゃん。影で応援してるからさ」
「だめったらだめ。すぐに結果は教えるからさ」
恵奈はネクタイを結びながらスンとした表情で大橋から顔を逸らす。
何の話をしているのか、わたしには分からなかった。
でも次の会話で、すぐに何のことか分かってしまう。神様が仲間外れのわたしを憐れんだのかもしれないけれど、多分、逆効果だった。
「ああー! ついに渉に告白かぁ!」
グギリ。
誰かに氷の釘を打ちつけられたようにわたしは固まった。僅かに意識が飛びかける。
「もー! やめてよ桃! 大きな声出さないで!」
三人がポップコーンの如く笑い声を跳ね上げる。
けれどわたしには、もうそんな声を聞いていられる余裕などない。
恵奈が渉に告白する。
それは、つまり、恵奈が渉と付き合うかもしれないってこと。
渉は学年でもトップファイブに入るくらいの人気者。
バスケ部のエースで、背も高くて、顔もそれなりにかっこいい。
確かに最近、渉は今は誰とも付き合っていないという噂を聞いたことがある。
去年、恵奈が課題図書を探しに図書室へ来た渉と話しているところを見た。
もしかしたらもうその時から。
恵奈は彼のことが好きだったのかも。
毎日結んでいるはずなのに、途端にネクタイの結び方がわからなくなってしまった。
わたしは一体、何を期待していたんだろう?
自分の想いの伝え方も分からないくせに。
いつから、彼女の視線を独り占めできると勘違いしていたのだろうか。
その週の金曜日を迎え、わたしは生きている心地がしなかった。
今日もまた嫌味なほどに太陽が燦々と地上を照らすのに。その光はわたしにまで届いていないような気がしていた。
放課後になり、わたしは席から立つこともできず真っ直ぐに黒板を見つめ続けている。もう誰も教室にはいない。容赦なく進んで行く時計の針だけが、わたしのことを気にかけてくれているような気分になった。
そろそろ帰らなくちゃ。
お尻は重いのに、足に力が入らないわたしは頭の中だけでそんなことを思う。
放課後を知らせるチャイムが鳴った後、桃たちに背中を押されて教室を出ていった恵奈の勇敢な表情が頭にこびりついている。
今頃、渉に想いを伝えているのかな。
たぶん、渉は承諾するだろう。
だって恵奈だもん。恵奈は可愛いだけじゃなくて、性格だって穏やかで和やか。人に気を配れる優しさがあって、誰にだって等しく接する。
探している物語があるっていう生徒のために、何時間だって必死になって調べるような責任感だってある。彼女の柔らかな指先がカサカサになるまで本を繰り返し貪った。むしろ心配になるくらい、彼女は素敵な人なのだ。
渉が断るはずがない。わたしにしてみれば、ただ運動が出来るだけの彼に恵奈は勿体ないくらい不釣り合いに見えるけれど。
わたしの意見など無関係。
二人はこのまま付き合って、高校生活をずっと恋人で過ごして、大学に入っても頼れる関係を築き上げて、社会人になって結婚するんだ。
二人の子どもはきっと可愛い。どんな悪さをしたって目を瞑ってしまうくらいに。
わたしにはない未来。
もしわたしが男の子だったら、わたしは恵奈に告白できていたのかな。
ううん。恐らく、まだしていない。
わたしには恵奈のような勇気、身体のどこを探しても出て来ないから。
積極的に気分が落ちていく中、誰かが教室に入ってくる音が聞こえてきた。
ハッとして顔を上げれば、扉の前には恵奈がいた。鞄を取りに来たのだろう。
一人残っているわたしを見つけて、恵奈は咄嗟に顔を俯けた。
「まだ帰ってなかったんだね」
「うん。恵奈もいたんだ」
「……うん。ちょっと、用事があって」
恵奈は顔を下に向けたまませかせかと自分の机に向かう。やっぱりよそよそしくて、わたしは余計に寂しくなる。
「用事? 部活のこと? 今日、休みだよね?」
「部活じゃないの。でももう終わったから、もう帰るよ」
恵奈は乱雑な手つきで机の横にかけていた鞄を掴む。
「どうかしたの? 大丈夫?」
わざとらしく訊いてみる。ゾクゾクと、首筋に痒みが走っていく。
背を向けた恵奈が、ピタリとその足を止めた。嘘をつけないのも恵奈の個性。変わらない彼女の性質に、わたしの心が意地悪く笑う。
「……ねぇ、私って、可愛くないのかな?」
「え? それって、どういうこと?」
こちらを振り返りかけた恵奈。でも、すぐに動きを止めてしまうから、わたしは彼女の顔を見ることが出来なかった。声はいつも通りに聞こえた。けれどどこかぼやけて聞こえたのは、気のせいだと信じたかっただけだ。
「ううん。なんでもないよ。じゃあ、私、帰るね」
「えっ? ま、待って! 恵奈!」
慌てて教室を出ようとする恵奈に向かって、わたしは勢いよく立ち上がり声を上げる。このまま帰すのが、少しだけ怖かったから。
「質問の意味はよく分からなかったけど、恵奈は普通よりずっと可愛いよ。すごく恵奈らしい」
この時わたしがもっと弁が立つ人間になれたのなら。
恵奈は、こっちを振り向いて、その顔を見せてくれたの?
*
恵奈が鼻を整形したことには、クラス中の皆が気づいていた。
一週間が経つ頃には、学校中の皆が知っていたと思う。
彼女はいつも教室に入る前、つないだ手を離して彼に微笑みかける。
恵奈は新しい鼻だけでなく、彼氏をも手に入れたのだ。
渉は恵奈にデレデレで、彼のにやけた顔が目に入るたびにわたしは吐き気を催しかけるようになった。嫉妬してるとか、そういう単純な物ならよかった。
でもこれは多分違う。
一番苛ついているのは、わたし自身に対してだからだ。その怒りが、彼を見る度に蘇ってくるだけ。
ふわふわとした恵奈の顔を見たくなくて、わたしは最初の授業の教科書の整理を始める。大好きな彼女の顔もまた、自分に対する怒りを呼び起こしてしまうのだ。
「ねぇ、聞いた? 恵奈ちゃんさ、渉くんに言われて鼻を直したって」
隣の席の女子が、そのまた隣の生徒に向かって声を顰めているのが聞こえてきた。
「そりゃねぇだろ。俺が聞いた噂だと、告白を断られた恵奈ちゃんが渉を見返すために綺麗になったって話だぜ。あの家、金持ちだしな。整形もファストフード店行くみたいな感覚なんだろ」
「えー? 何それ高飛車ー」
「この調子じゃ、五年後に会った時には恵奈ちゃんの顔かなり変わってる可能性あるな」
「あり得るー。男子にふられるたびに改造してたんじゃもたないよね」
クスクスと笑い合うクラスメイトの会話を、わたしは他人事のように耳に流す。
視界の端に映った恵奈の姿。皆が彼女のことをチラチラと見ながら内緒話を始めていく。彼女に関する噂は、今この校内でいくつあるのだろう。
恵奈が噂を知らないわけがない。けれど彼女は堂々とした佇まいで高校生活を変わらず送っている。いずれ噂は消える。卒業してしまえば、それこそどうでもいい過去の戯言に変わる。恵奈はそのことを心得ているのだ。
それでも、時折見える彼女の横顔が、少し悲しそうに見えるのはわたしだけなのだろうか。
毎日毎日、彼女に注目し続けていたわたし。
これに気づかないふりをするのは、やっぱりちょっと難しい。
でももうわたしは、彼女の視界に入れない。
恵奈と渉が付き合い始めてから半年が経つ。
噂は相変わらず消えることはないけれど、少しずつ薄れていっているのも事実だ。
恵奈はわたしと知り合った頃とはだいぶ変わってしまった。
鼻が、じゃなくて、メイクもどんどん派手になっていくし、髪型だってころころ変わるようになった。
まるで本当の自分を曝け出すことを恐れるように。
彼女は自分自身を隠すことに一生懸命になり始めたのだ。
渉は彼女が自分を隠せば隠すほど彼女にべったりになる。
俺が愛しているのは世界でただ一人、恵奈だけだ、なんて皆に言いふらすくらいには、彼は恵奈が大好きみたいだ。
気づけば二人は校内のベストカップルに選ばれるようになっていた。皆が憧れる存在。大好きな人に愛されて、恵奈はさぞかし幸せなことだろう。
だけど二人を見ていても、わたしはちっとも憧れないし、幸せな気分になれない。
相変わらず嫉妬しているとか、自分を憐れんでいるとかではない。
わたしは自分の性的指向を受け入れているし、いずれ公表するつもりだ。
彼女を見ていたらそう決意することが出来た。
ありのままの自分を恥じて臆病になるよりも、自分を曝け出した方がよっぽどマシだと思えたから。
恵奈の表情は相変わらず憂いが滲んでいる。もうすっかり、表情に染みついちゃったのかもしれない。
学校一幸せなベストカップルなら、もっと幸せそうな顔をしていてほしいんだけどな。
そうは言っても、今は素の彼女が強力な武装の向こうに隠れちゃっているから、彼女の表情をちゃんと読み取れているか自信はない。
もしかしたら、本当に笑っているのかもしれない。
恵奈に対して抱いた淡い想いは、今も心のどこかを漂っている。
だけどいつか、わたしもこの想いを吹っ切るのだろう。
もしあの時、わたしが恵奈に想いを伝えていたら、何かが変わったのかな。
すべてを壊してもいいから、わたしも勇気を振り絞ればよかったんだ。
度胸のないわたし。
度胸と行動力のある恵奈に、こんなことを言うのはお門違いと叱られるかも。
でもね、胸底の地獄から声が這い上がるの。
わたしなら、素顔のあなたを愛せたのに。