シーと神風特攻隊
《序章》
ひろがる白い雲の隙間から、陽光に眩く煌めくやさしい羊水のような大海原が見え隠れする。鳥の群れのように飛んでいるのは零戦だ。人間の尊厳を失わず均衡を保って飛行する彼らの姿は、なによりも尊く美しかった。大空を自由闊達に滑空しながら目指すのは、アメリカ軍の要塞のような空母だった。
零戦の編隊に、空母からの対空機関砲の砲撃がはじまる。それでも彼らはいささかも怯むことなく、体勢をかえながら鳥のように敵艦を目指す。背後からは、アメリカ軍の戦闘機が迫ってきた。
やがて1機の零戦の主翼が被弾すると、機体が一瞬跳ねあがりキリモミ回転しながら火玉となる。パイロットはまだ20歳をすぎたばかりの青年だった。炎に包まれながら、故郷の蔵王連峰や桃の果樹園、そして最愛の妻のまだ少女のような笑顔が浮かぶ。火玉となった機体は黒煙をあげながら急降下し、煌めく羊水のような海面へ白く大きな飛沫をあげて追突した。
次々と、零戦が撃墜されていく。しかしながら砲撃をかいくぐった1機の零戦が、ついに敵艦の空母の甲板に体当たりし大きな爆発がおこった。ひとりの青年の貴いいのちとひきかえに……
《第1章》
遠くの蔵王連峰が、夏空にひろがる白い綿雲とならんでいた。桃の果樹園を通りすぎると、大きな杉の木に囲まれた父方の祖父の家があった。広い敷地には、平屋建ての母屋を中心に別棟として便所と風呂場と大きな物置小屋があったが、まだ幼かったオレは、この祖父の家からなぜかしら畏怖を感じていた。
母屋は、茶の間以外の部屋は昼間でも薄暗く、──天井が低く窓からあまり光が入らないため── 仏間には漆黒の肖像額縁に兵隊姿の若い青年の写真が飾ってあった。11人兄弟のうち上から2番目の太平洋戦争で戦死した兄の写真だと、こともなげにいう父は写真を見ようともしなかった。そっと母は戦死した2番目のお兄さんは、《神風特攻隊》だったんだよ、と後ろからオレの両肩にその細い手を置いて物悲しそうに、しかししっかりとした口調で教えてくれた。
《カミカゼトッコウタイ》?
零戦でそのまま敵の空母に体当たりしたという
母はそれ以上くわしく話しをしてくれなかったが、オレは、豆電球の灯りにほのかに浮かぶ兵隊姿の青年の写真をしばらく見上げていた。11人兄弟のうちたったひとりだけ若くして死んでしまった清冽そうな青年の若々しい顔を……
庭に出ると風が杉の木を揺らしていた。《カミカゼ》とはいったいどんな風なのだろう?
繊細な色彩の夕焼け空を、西に向かって鳥の群れが飛んでいる。それらの姿に、編隊を組んで飛行する零戦のかいがいしい姿を重ね合わせて、《カミカゼトッコウタイ》とは、大自然の摂理によって導かれて舞う鳥たちのように、大日本帝国の威信たる《カミカゼ》によって導かれたものなのか……
《第2章》
その白い満月が寂光のようなむし暑い夏の晩、祖父の家に、戦死した二男をのぞく兄弟10人全員が集まった。 ──おそらくお盆だったのだろう、兄弟は女性の方が多いが── 祖父と祖母を真ん中にして酒盛りがはじまったが、それほど広くない茶の間に入り切れない兄弟やその配偶者や子どもたちは、天井電灯がやや薄暗い仏間などの別の部屋で、賑やかに宴をおこなった。オレは出前の握り寿司を頬張りながら、親戚の子どもたちとは遊ばずに持参した怪獣図鑑に夢中になっていた……
翌日の勤務のため、その日のうちに帰らなければならなかった父はすでに酒にかなり酔っていて、母が帰宅を促してもいっこうに帰る素振りをみせないばかりか激しく母を罵った。日頃はとても気丈な母ではあったがつい涙を溢すと、まわりの女兄弟たちが、タカちゃん大丈夫か、タカちゃんごめんな、 ──母の名前はタカコ── と母を気遣うように囲んで慰めていた。
家督の長男の伯父がそんな父を叱りつけ、ついには月明かりで妙に明るい庭で仁王立ちになると、父にかかってこいと気勢をあげたが、本来小心な父は小さくなってかしこまり、半袖の白い開襟シャツからのびた太い腕で目をこすりながらめそめそと泣きはじめてしまった。
するとやはり酒に酔っていた長男の伯父は仁王立ちのまま、開け放たれた縁側の奥の、仏間のやや薄暗い天井電灯に照らされた漆黒の肖像額縁の写真に向かって、兄弟たちも知らなかったであろう戦死した二男の遺書に書かれていた言葉を、舞台で口上するように涙ながらに叫んだ。 ー運命を呪いながら、おそらく暗記してしまうほど何度も何度も読み返したであろう弟の遺書をー 縁側で膝をついて見守っていた白い割烹着姿の二男の未亡人 ー婚姻後わずか半年で夫が出征したー や他の兄弟たちに、怒りをこえた祈りを込めて訴えかけるように……
天皇陛下とか大日本帝国のためとかで行くんじゃない。
最愛のKA ──海軍用語で妻のこと── のために行くんだ。
命令とあればやむを得ない。
ぼくは彼女をまもるために死ぬんだ。
最愛の者のために死ぬ。
どうだ素晴らしいだろう。
《第3章》
白い満月に照らされた庭で仁王立ちのまま、舞台口上のような長男の伯父の叫びが、あたりにまで風に震えながら響くと、縁側や仏間から固唾をのんで見守っていた兄弟たちからすすり泣きが聞こえてきた。
すると今まで縁側に膝をついて見守っていた二男の未亡人たるお嫁さんが、急に立ち上がるとなんと裸足のまま庭を横切るように走り出した。驚いたまわりの女兄弟たちが、やはり慌てて裸足のまま後を追ったのだが……
二男のお嫁さんは、甘美な果実の匂いが漂う桃の果樹園の真ん中あたりで、 ──豊かな実の神聖な1本の桃の樹に隠れて── 白い野うさぎのようにうずくまって泣きつづけていた。今度は母も、他の女兄弟と一緒に彼女を取り囲みともに肩を抱き合った。彼女らみなの月明かりに白く浮かぶ素足は、血が滲んで痛々しかった。
《第4章》
結局、その晩は帰ることができなかったため、翌朝早く帰ることになった。男兄弟たちはまだ酒を酌み交わしている。人数が多いので時間短縮のため、オレは母と二男のお嫁さんの3人で、母屋の玄関の向かいにある赤いトタン屋根の風呂場で入浴することになった。オレと母がお風呂に入る番になると、二男のお嫁さんの伯母さんはいつもの笑顔で、ワタシも一緒でいいかしら、と立ちあがったのだ。 ──オレは母とお風呂に入るのがもうあまり嬉しくなかったけれど、伯母さんも一緒だとやはり恥ずかしくて少し緊張した──
やはり風呂場も豆電球のため薄暗く、母と伯母さんの細身の裸体がほのかに褐色に色づいて見えた。もちろん伯母さんには子どもがいなかったため、以前からオレのことを自分の子どものように可愛がってくれていた。
母と伯母さんは、血が滲んだ足裏やかかとを確認しなが女学生のように無邪気に笑い合った。
──久しぶりに走りました。
しかも裸足でなんて自分でもびっくりです。
伯母さんは嗚咽したのがまるで嘘のように明るかった。それでも伯母さんの琥珀色に色づいた美しい横顔が、ときおり深淵な寂寥感を湛えるのが気になった。
──ユウちゃんは勉強がよくできると聞いています。大人になったら何になりたいの?
──うーん、まだわからないけど。
でも動物や鳥や昆虫たちと話しができるようになりたい。星たちとも話しがしてみたい。
なんで宇宙が生まれたのか聞いてみたいから。
すぐに母がオレの背中をゴシゴシ洗いながら、またこの子は変なことばかりいって、と首を横に軽く振りながら苦笑した。しかし伯母さんはいっさい笑うことなく思いつめたような真剣な表情で、オレの両肩にいくぶん濡れた細い手を置き、オレの目をそのやや切長の美しいひとみでじっと見つめながら、胸に秘めていたとても大切なことを話しはじめた。
──この世界は、くもりのないまなこで見なければなりません。
ユウちゃんなら必ずできるはずですから。
実はね、死んだあの人が残した詩集があるんです。
ユウちゃんにぜひ読んでほしいの。
お風呂からあがったらお渡ししますね。
《終章》
クリスマス・イブの明け方に少し雪が降り出した。まだ暗い暗灰色の空から、無垢な無数の雪片が地上に吸い込まれるように落ちてくる。 ──まるで天からの悲涙のように── 愛犬シーズーのシーが、大きく身震いをして顔の雪片をはらった。
いつもの、国道4号線の交差点かどにあるラーメンチェーン店の待機用ベンチに腰かけてひと休みをした。おねだりをはじめたシーにオヤツをやり、散歩用のスカイブルーのショルダーバックから、とても古びた薄い手書きのB5版の詩集を取り出した。子どもの頃からずっと大切に手元に置いてある無名の詩人の詩集。《カミカゼトッコウタイ》で、貴いいのちを捧げ星になった無名の詩人の詩集。
その詩集のタイトルは、『世界の中心の樹』だった。
オレはシーの頭を撫でながら、明け方の無垢な小雪が降る暗灰色の空を見上げ、いつものように口誦した。
世界の中心の樹
走れ、走れ、素足で走り出せ
朝陽の玲瓏な美しさを感じるため
走れ、走れ、素足で走り出せ
星たちの無限の煌めきを感じるため
走れ、走れ、素足で走り出せ
荒廃した大地の聖性恢復のため
走れ、走れ、素足で走り出せ
世界を清浄な空気で満たす
世界の中心の樹と出会うため