倦怠期を乗り越えろ
【登場人物】
早川ハル:二十八歳、社会人。大学二年のときからスミレと付き合っている。現在はスミレと同棲中。
浦里スミレ:ハルと同い年。あまり感情が外に出ないタイプ。
勉強やスポーツ、趣味など、どんな物事にも言えることだけど、何をやるにしても最初のころは新鮮で楽しく夢中になるものだ。
恋愛も同じ。付き合い始めのころは常に相手のことを考えて周りの目も気にせずにラブラブしようとするけど、年月が経つごとに徐々にその熱意も薄れていく。
それはあたしたちも例外じゃない。
あたし、早川ハルには同棲している恋人がいる。
浦里スミレ。ショートカットの黒髪に切れ長の目が特徴的なクールビューティな女性だ。いつもは表情があまり変わらないけど、笑ったときに出来るえくぼが可愛らしい。大学二年のときからずっと付き合っているので交際期間はそろそろ十年になるだろうか。
これから先、どんなことがあっても別れたりしないと信じていたし、今だって信じているけど、流れる月日はスミレの心をそのままにしてはくれなかったみたいだ。
昨日の夜のこと。
最近仕事が忙しくてデートも全然できていないしで欲求不満が溜まっていたあたしは、ようやく仕事が一段落したからやったー自分へのご褒美に存分にいちゃついてやるぞーと先にベッドで休んでいたスミレにキスをして起こしたんだ。
「ねぇ、スミレ……」
スミレの寝間着の裾から手を入れながら甘い声を出す。気持ちは高まってたしすぐにでも服を剥ぎ取りたかったがそれでは情緒がない。じっくりゆっくり可愛がったあとにスミレにも同じことをしてもらわなきゃ。明日は休出もない完全休みの土曜日。いくらでも寝坊し放題だ。
ノリノリでスミレの肌に唇を這わせていたあたしはスミレから返ってきた言葉に耳を疑った。
「……あっちいって」
あろうことかスミレはあたしを鬱陶しげに腕で払いのけると背中を向けたのだ。
あたしは呆然とその背中を見つめた。確かにショックだったのだけどそれ以上に、ついにこのときがやって来てしまったのか、と戦慄した。
倦怠期――長年一緒にいる恋人や夫婦が相手に対する飽きや慣れなどで嫌に感じてしまう状態のこと。
正直いつかはこんな日がやってくると覚悟はしていた。
あたしとスミレの恋愛観に温度差があることは以前から気付いていたことだ。
誘うのは毎回あたしからだし、スミレは眠そうにしていることも多い。『好き』もあたしが言うと『私もだよ』と返すだけで自分から言ってくれないし、いってきますのキスもおかえりなさいのキスもおやすみのキスも全部あたしから。
今まではそれでも拒否するようなことは一回もなかったのに……。
人によって性格が違うように、感情の濃度にだって個人差がある。それは分かってる。相手に無理矢理自分と同じ熱を持てと強制するのはよくないし、そういうものだと割り切った方が気が楽だということも分かってる。
でも、やっぱりこのままは嫌だ。平均寿命を考えてもあと五十年以上もあるのにこんな早くに倦怠期になるなんて耐えられない。じゃあどうするか。
スミレにその気になってもらうしかない!
あたしから迫るのではなくスミレからあたしを求めるようにさせれば万事解決だ。……解決、という言い方は正確じゃない。多分あたしは確かめたいんだ。本当にスミレは今もあたしに対して変わらない愛情を持ってくれているのかを。
さて、具体的にどうやってスミレをその気にさせようか。
まずはヤ○ー知恵袋で検索してみた。こういうとき他の人がどうやっているかはやっぱり気になる。
『倦怠期 解決』『倦怠期 どうすれば』……適当にキーワードを合わせて検索して類似の質問に目を通す。
どこでも言われているのがマンネリを解消する為に変化をつける、というものだった。たとえばいつも行かないような所に出掛けたり、会う頻度を減らしたり、少し態度を変えてみたり。
うちの場合で考えると、同棲してるから会う頻度を減らすのは無理。出掛ける所に関してはそもそもデートのときあたしが色んな場所に行きたいって言ってスミレを連れ回してるからすでに実践していることになる。
となればあとは態度を変えるくらいか。
押してだめなら引いてみろ。いつものあたしの態度はスミレへの愛情をまったく隠さずに、じゃれつく子犬のごとくスミレにスキンシップしている。それを冷たく素っ気ない態度にすることで『え、なにかあったのかな』と心配してもらおうという算段だ。ただしこれにはリスクもあって、『なんだこいつめんどくさ』と思われたら倦怠期に拍車がかかる可能性もある。脳内でシミュレーションしてみたけど、相手が冷たくなったからってあたしまで冷たくするのはなんか違う気がするので却下。
なかなか難しいもんだ。付き合う前はどうやって気持ちを引こうかと色んなことを試したというのに、恋人になってからは一緒にいることそのものが気持ちを通わせることだと思ってこれまで深く考えてこなかった。
あたしが本気でお願いすればスミレだってイヤとは言わないかもしれない。でもそれじゃあ意味がないのだ。あくまでスミレに自発的に行動してもらいたい。あたしのことを何よりも大事な、いとおしい存在だと再認識してもらいたいから。
倦怠期になる理由のひとつで、相手が空気のように側にいて当たり前の存在になってしまったから、というのがある。
簡単に言えば、ママにはなってもオカンにはなるな、ということ。
甘えさせる存在のママを演じるのはいい。でも勝手に世話を焼いて面倒をみるようなオカンになってはいけない。恋愛に大事なのは当たり前の日常よりも新鮮な気持ちだ。されて当然と思ってしまえばそこに感謝や好意は生まれなくなってしまう。
まぁこれは男女間に多く見られることであたしたちのような女性同士ではまた少し変わるかもしれない。というか家事をどっちか一方に負担させていないので当てはまらない気がする。
「チャーハン出来たよ」
スミレの呼びかけにスマホから顔を上げてテーブルへと移動する。今日の昼食はスミレが担当だ。
二人揃って食べ始めた。テレビを見ながらもついスミレの方を窺ってしまう。昨日あんなことがあったのにスミレの様子はいつもとまったく変わりがない。せめて『ゆうべはごめん』くらい言ってくれたならあたしだってここまで考えなくていいものを。
「そういえば昨日」
「!」
思考が読まれたかのようなタイミングに思わず身構える。
「夢に大きな犬が出てきてさ、耳が垂れてて黒くて、なんかおじいさんみたいな顔の犬なんだけど、なんて名前の犬か分かる?」
「……あたしが見てないのに分かるわけないでしょ」
「そうだよねぇ」
関係のない話題にひっそりと溜息を吐く。もしかしたら夢の話をすることで昨夜の出来事を誤魔化そうとしたのかもしれない。そう考えると尚更気分が沈んだ。
とにかく、こうなってしまったからには倦怠期対策に効果がありそうなことを片っ端からやっていくしかない。
あたしはスプーンを握る手に力を込めて、チャーハンを大きくすくい口へと運んだ。
今日色々調べて準備をしなければ。食べるのも行動を起こすのも早い方がいい。スミレの気持ちが冷え切ってしまう前に。
匂い、というのは相手を惹きつけるのに重要な要素だ。フェロモンと匂いが同一視されていることも多く、体臭の好みで人を好きになったりすることもある。
「あれ? ハルの香水変えた?」
「うん、シトラス系のやつ」
「いいんじゃない」
スミレの反応を見てよしよしと内心うなずく。
ネロリの香り。ダイダイの花から抽出されるこの香りは、柑橘系の爽やかさと甘さの中に少しの苦みをもつフローラルな香りでリラックス効果が高い。転じて、その気にさせる効果もあると言われている。加えて、いつも付けている香水と違うということで新鮮さも演出するわけだ。
そして極め付けは寝室の香り。
優雅で鮮烈なローズのアロマを焚いてみた。香水の女王としても名高いローズの香りは、ホルモンバランスを整えてくれたり幸福感を感じさせてくれたりもする。そう。これもその気にさせやすいのだ。
完璧だ。五感の一つである嗅覚を掌握すれば勝利も確実。あたしはひとりほくそ笑んでいた。
「寝る場所は無臭の方がいいかな」
目論みは完璧に打ち砕かれた。
まぁいい。次の手は考えてある。
嗅覚がダメなら視覚だ。これは単純、部屋着の露出をあげればいい。いっそ裸エプロンで出迎えてやろうかと思ったけど露骨すぎるのでやめにした。
上はキャミソール、下はショートパンツ。仕事から帰ってこんな無防備な姿のあたしを見たらさぞドキドキするだろう。この美麗なデコルテラインと白く眩しい太ももに見惚れるがいいわ。
「今日会ったお客さんがすっごいダジャレが好きで話し合いの最中でもダジャレ言ってたんだけど、途中から課長も参戦してきて如何にしてあたしを笑わせようかっていう不毛な戦いを繰り広げて――」
気にもしやがらない。というか何だその職場。楽しそうだな!
こうなりゃ別のアプローチだ。濃いめのエッチなシーンがある映画を一緒に観て、視覚・聴覚の両方からスミレを揺さぶる。それ目的の映画ではない、というのがポイントで、手に汗握るSFアクションでいきなりそういうシーンになるとギャップと衝撃でより刺激的に感じる、らしい。確かに家族団欒の食卓のテレビに濡れ場が映るとそわそわとしてしまうものだ。いやそれはちょっと意味が違うか。
いきなり映画を観ようと誘うと狙いがバレるかもしれないので、お風呂に入った後リビングにノートパソコンを持ってきてネット配信の映画をレンタルしてひとりで観始める。間もなくスミレが近寄ってきた。
「なに観てるの?」
掛かった。心の中で釣竿を持ち上げる。
「映画。オススメされてたから」
「へぇ」
スミレがあたしの隣に座った。完璧な段取り。あとはそのシーンを観たスミレが情欲を抑え切れなくなり、映画そっちのけであたしを押し倒してしまうというわけだ。
…………。
映画が終わった。何もなかった。
「結構おもしろかったね」
「……うん」
むしろあたしが悶々としてしまって映画に集中できなかった。くそう、策士策に溺れるとはこのことか。
視覚、聴覚、嗅覚とくれば次は味覚。
調べたところ媚薬食品なるものがあるらしい。その食品を食べると性的興奮が高まりやすくなるというまさに媚薬。ただまぁ、結局のところプラシーボでしかなく、シチュエーションや想い出を踏まえた料理の方が効果が高いという。それもそうだ。まったく同じ材料の同じ料理でも仕事の昼休みにファミレスで食べるのと、夜景の見えるホテルのレストランで食べるのとでは大違いなのだから。
あとは葉酸やビタミンE、ビタミンB6を摂取した方がいいとか、ニンニクを食べればいい、セロリがいい、ザクロがいいなどなど色々あるようだけど、一番手っ取り早いのはアルコールを飲ませることだという結論に達した。
ほろ酔い気分で開放的になるもよし、泥酔したところを襲うもよし。いやよしじゃない。あたしが襲ってどうする、スミレに襲わせないと。じゃあ逆にあたしが泥酔する? ダメだ。多分普通に介抱されて終わるし二日酔いになりたくない。やはりここはお互いに軽く飲むのがいいだろう。
そして日を改めた晩ごはんの時間。テーブルに並べられた料理と飲み物を見てスミレがわずかに怪訝な顔をする。
「何かお祝い事?」
「別にそんなんじゃないよ。ただ食べたくなっただけ」
「ローストビーフを?」
そう。今日のメイン料理はローストビーフのバルサミコソース仕立て。飲み物は当然赤ワイン。というか赤ワインを飲ませたくてそれに合う料理を選んだんだけど。
「たまにはこういうのもいいでしょ? この赤ワイン安いけど美味しいんだって」
「珍しい。赤ワインなんて飲んでるとこほとんど見たことないのに」
「テレビでポリフェノールが健康にいいっていうのを見て衝動的に飲みたくなったの」
「そうやってすぐ情報に流される」
「情報に敏感だと言って」
実際はアルコール度数が高いかつ晩ごはんに一緒に飲んでもあまり違和感がないから赤ワインにした。健康の為という理由付けも不自然じゃないし。
あたしはワイングラスを持った。
「はいはい、それじゃ食べよ。乾杯ー」
「乾杯」
チン、とグラスが澄んだ音を響かせた。これが開戦を告げる鐘の音であることを知っているのはあたしだけ。
何も気付いていないスミレはローストビーフを口に運ぶとぽつりと呟いた。
「……美味しい」
「赤ワインは?」
「すごい合う」
「でしょー?」
得意満面にあたしは笑い、負けじとワイングラスを傾けた。我ながらうまく作れた。これにはワインも進む進む。あっと言う間に二人で一本空けていた。
今回こそはもらった。アルコールで気分もよくなったことだろう。あとはベッドで出迎えるあたしの胸にスミレが飛び込んでくるだけだ。
「……すぅ……すぅ」
そっこーで寝やがった。
いやそりゃお酒飲んで眠くなるとかはあるけどさ、もっとこう、あるでしょうが! あとお酒飲んですぐ寝ると眠りが浅くなるのでやめた方がいいとかなんとか。だからってスミレを起こしてまでその気にさせようとは思わないけど。
「はぁ……」
自然と溜息がこぼれる。あたしは何をやってるんだろう。どれだけ頑張ったってスミレが嫌がってるなら無駄だ。短期間でどうこうするよりも時間は掛かってもいいから少しずつスミレの気持ちが戻ってきてくれるよう努力するしかないのかもしれない。
ただ今はそんなことよりも。
「……はぁ……っ、はぁ……」
溜息はいつの間にか艶を帯びた吐息に変わっていた。
そう。スミレには効かなかったアルコールだけど、あたしにはバッチリ効いていたのだ。これは赤ワインのせいだけじゃない。ここ数日のスミレをその気にさせる為に行った数々の行動がすべてあたしに跳ね返ってきている。
触りたい触られたいキスしたいキスされたい。欲望が頭の中で渦を巻き徐々に理性を剥ぎ取っていく。
キスはあれからも毎日してはいたが今日に限ってはスミレがベッドに入ってすぐに寝てしまったのでおやすみのキスが出来ていない。その一回が今のあたしにはとても大事なことだ。
……もうこのまま寝込みを襲ってやろっかな。
あたしの中の悪魔がやっちゃえよと囁く。当初の予定なんて知ったことか。構ってくれないスミレが悪いんだ。自分の欲求に忠実に生きて何が悪い。
……それでいよいよ嫌われたらどうするの。
あたしの中の天使が耐えなさいと告げる。これまで何のために努力をしてきたのですか。互いに想い合う気持ちがあるからこそ心と体は本当に繋がることが出来るのです。ぶっちゃけ嫌がられたらテンション下がるでしょう?
確かに。
天使の最後の一言でどうにか理性を保つと、改めてすやすやと眠りについているスミレを見た。
可愛い寝顔だ。キスしたくなる。
起こしたくはなかったので髪を撫で梳くに留めておく。
一応最後の手段は考えてたんだけどな。
残された五感のラスト――触覚。
それはあたしの胸や太ももを押し当てたり触ってもらったりするという単純な作戦。ほとんど誘ってるようなものだけど、それでスミレが何とも思わないようならもう終わりだとも考えていた。
まぁ今はいっかな。
あたしは布団に入りスミレの隣に横になる。寝息を感じられる距離はあたしにとって一番居心地のいい距離だ。安らかな寝顔はずっと眺めていても飽きることはない。安らか過ぎてちょっとムカつくけど。なんであたしがこんなに悩んでるのにこやつは云々。
それも全部、好きになってしまったからしょうがないの一言で片づけられてしまうのかもしれない。だったら今日は、手を握るくらいで勘弁してあげますか。
布団の中でスミレの手を探し当てて優しく握る。寝ているからか体温がいつもより高い。これから気温が寒くなっていったらちゃんとこの手であたしをあっためるんだぞ、と心の中で言い付けておく。いつまでそういう関係でいられるかは分からないけど。
不意にスミレが目を開けた。
「あ、ごめん、起こした?」
手を握ったせいで起こしてしまったのかと思い慌てて手を離そうとする。睡眠の邪魔をしたくなかったのもそうだけど、また払いのけられたくないという思いの方が強かった。
「え――」
手が離れた瞬間、あたしの体がスミレに抱き締められた。あたしの耳に小さな声が届く。
「……逃げないで」
スミレの体温が、匂いが、やわらかさがあたしの思考を停止させる。氷の塊が溶けるように、スミレのぬくもりに包まれてもやもやとした気持ちが徐々に消えていく。その感情を言葉で表すのなら『幸せ』以外にない。
なんて単純なんだろう。大好きな人にぎゅっと抱き締められるだけで他のことなんてどうでもよくなるんだから。
まぁでもそういうものかもしれない。愛する人と一緒に生きる理由なんて。
翌日、いつもより早く目が覚めたあたしはスミレの腕の中で幸せに包まれたまま寝顔を眺めていた。
「ん……」
スミレの目蓋が重そうに開く。ぼんやりとした瞳があたしを捉えたとき、あたいの方から先に口を開いた。
「おはよ」
少し気恥ずかしいのは、ここ最近こんな起床をしたことがなかったからだ。まるで付き合い始めの頃みたいで照れてしまうのも仕方がない。
「んー……おはよ」
あたしは次にスミレの口から出てくる言葉を待った。何を言うのか、先日のことは謝ってくれるのか、それともあたしの意図に気付いていたのか。
スミレがふっと微笑んだ。
「寂しくなって入りこんじゃった?」
「――は?」
今こやつは何と言った? あたしが、入り込んだ?
「最近忙しかったから全然だったもんね」
「は?」
やっぱりおかしい。認識が180度違う。
「えぇっと、スミレがあたしを抱き締めたんだよね?」
「ハルからじゃないの?」
「違うから! スミレが急にあたしをぎゅっとしたんでしょうが!」
「……覚えがない」
「……じゃあ昨日のはいったい何だったの?」
「私が聞きたい」
会話の噛み合ってなさに眉をひそめていると、スミレが腕に力を入れて私を密着させた。
「まぁ細かいことはいいよ。ハルが来てくれなくて寂しかったのは私もだから」
「――――」
これはまさか、あたしの努力が結実していたというのか……! いや待て……ハルが来てくれなくて? じゃあこの前なんであたしを払いのけたんだ。
「……スミレ、先週の金曜の夜のこと覚えてる?」
「先週の金曜? なにかあったっけ?」
「ベッドでキスしたあたしをあっちいけとか言って振り払ったでしょ」
「? そんなことしてないけど」
「現にされたんですけど!」
「んー……多分寝ぼけてたんじゃないかな」
「寝ぼけ……? あれが?」
そんなまさかと思うけどスミレは夜眠そうにしていることが多いのでありえなくもないかもしれない。
さらにスミレが衝撃的なことを言う。
「昨日の夜は夢の中でハルが私から逃げようとしたから捕まえたんだよ」
それが昨夜あたしを無意識に抱き締めた理由……?
「そういえばちょっと前に大型犬にじゃれつかれてのしかかられたから押しのけた夢を見た気がする」
それがあのときあたしを拒否した理由……!? 確かに大きい犬がどうのこうの言ってた気がするけども。
「……あたしの頑張りはなんだったの……」
「何か頑張ってたっけ」
「すごい頑張ってた! スミレが倦怠期に入っちゃったって思ったから色々としてた!」
「あぁ、それで昨日の赤ワイン」
「それだけじゃないけど……もういいよ。勘違いだって分かったならそれで」
はぁ、と疲れのこもった息を吐く。ひとりでばたばたして損した。安堵もしたけどそれ以上にスミレを信じきれていなかった自分が情けない。
スミレが落ち込むあたしの頬に手を添えてキスをした。
「毎日キスしてるのに倦怠期なわけがない」
「……イヤイヤやってるのかと思ってた」
「イヤイヤでキスする倦怠期の恋人って」
スミレが笑う。うっさい、こっちは本当に真剣に悩んでたんだ。
むすっとふくれるあたしの首筋にスミレが口づけをした。囁き声があたしの耳をくすぐる。
「ごめん、ハル。私もハルの気持ちに気付いてあげられればよかった」
「……そーだよ。スミレの方からあたしのとこに来てくれればこんなことにならなかったのに」
「その辺はハルに甘えてたのもあるんだけど、ほら、私って朝型の人間だからさ」
「夜は眠いからヤダってこと?」
「イヤじゃないよ。でもこの前みたいなことが起きないとも限らないし」
「次同じことがあっても疑ったりしません」
「そういうことじゃなくて、朝だったら寝ぼけたりしないのにな、と」
スミレの頭が布団の中へ潜っていく。
「え、まっ――」
「まだ時間あるよね」
「いや時間がどうこうより仕事前にっていうのは――」
寝間着のズボンを脱がされながら口だけは抵抗する。口だけはっていうのはつまりそういうことなんだけど。
「仕事前に発散することで作業効率も上がるかもしれない」
「恥ずかしさで逆に下がりそう」
「私は上がるからプラマイゼロ」
「はいはい」
上の服を脱がされ始めてもあたしは拒否したりしなかった。
スミレもそれに気付いているはずなのに何も言わない。多分『スミレの方からあたしのとこに来てくれれば』というあたしの言葉のせいだろうか。スミレなりのお詫びなのかもしれない。
スミレが布団から顔を出した。
「ハル、なにか注文があるなら今のうちに聞いておくよ」
その質問の意図とは少し違うだろうけど、あたしは頭に浮かんだ注文を口にした。
「好きって、いっぱい言って……?」
スミレは幸せを噛み締めるようにえくぼを浮かばせて、その言葉を言うためにゆっくりと唇を開いた。
人間、たとえ想いが通じ合っていたとしてもすれ違ってしまうことはある。日々の挨拶を欠かさなくても、スキンシップを絶やさなくても、きちんと言葉で伝えなければ100%通じ合うことは難しい。だから何か思うところがあるのなら、勇気を出して相手に伝えるべきだと思う。
「……毎朝っていうのはあたしがキツいのでせめてローテーションさせてください……」
なにはともあれ、当分は倦怠期なんて気にしなくて済みそうだ。
終
相変わらずのタイトル詐欺。
深刻な倦怠期とか書けない。書きたくない。
みんな仲良くしましょう(願望)。