赤ちゃんの死
これは、とてもおそろしいはなしです。
こどものみなさんはきをつけておよみください。
一組のカップルの間に小さな命が生まれた。小さな顔に、小さな体、小さな手足。この赤子は生まれたときめいっぱい泣いた。のどをひきつらせて、よだれを垂らしながら小さな口に小さな赤い舌をのぞかせながら、めいっぱい泣いた。へその緒をちぎられ、お湯にちゃぽんと入れられたとき、赤子は泣きながらその温もりを愛しく思った。
「倖ちゃん、ママですよ」
タオルにくるまれて赤子は母の脇に抱かれた。母は嬉しそうに微笑み目尻に涙を浮かべていた。
「はじめまして。ママよ。倖ちゃん。ママ……」
赤子はその柔らかな声を聞くと不思議と泣きやんだ。大きな目を開けて、母の顔をじっとみつめた。母は赤子の頭をなでた。大きな手で頭を撫でられると赤子は気持ちが良かった。そして、だんだん眠くなった……。
赤子は二歳になった。頭には毛もふさふさとはえて、生意気そうに笑っていた。嫌々期で、なんでも嫌がり、とにかくうるさく泣き叫ぶ時期だった。母はそんな赤子に本気で怒っては、自分の子供臭さを呆れもし、後悔して情けなく思った。
おもちゃで遊んでいると、赤子はふいに癇癪を起こして、おもちゃを投げ飛ばし泣きわめいた。叫んでいると妙に安心した。
「なんでそんなことするの」母は涙声になって赤子をしかる。
「倖ちゃん!」
赤子は大きな声を出されると、ただ怖いばかりに泣いた。だが、赤子は母を愛していた。母が歩くところをついて回った。よたよたと小さなあんよで歩いて母の足下にしゃがんでおもちゃの車をぶーぶーと動かす。
母は赤子をだっこして、「なんて可愛いのかしら」とあらんかぎりの愛情を持って柔らかでまん丸い頬にキスする。
母は赤子を連れて出かけるのが好きだった。特に晴れた日に日差しを受けながら、赤子の小さな手を握り、建物の影の間をくぐり抜け、砂利を踏んで歩くのがなんだか心地よかった。
「倖ちゃん、走ってごらん」
母はわざと赤子を先に走らせてその姿を目で追って、哀愁に沈んだ。生まれたときは本当に小さかったのに、こんなにも一人で走れるほどに大きくなったのだと思うと、すばらしい心地がした。赤子がどんどん遠くに走っていって、小さくなっていくのを見て母ははっとした。
「倖ちゃん! あまり遠くに行かないで、止まって。そこで待って」
母は走って、電柱の影で立ち止まって待っていた赤子に追いつくと、その重くなった体を抱き上げて頬にキスする。赤子はにたにたと笑う。
「可愛いねえ。なんて可愛いんだろう」
母は赤子の小さな手をしっかりと握って歩道を歩いていく。自転車が横切っていくと、母は赤子を庇うように立った。ふいにやってくる風に母は極端に怯えていた。この小さくて可愛いこの命が奪われるんじゃないかと心配だった。
「ままぁ」
赤子はふとした拍子に母を呼んだ。歩きながら母の横顔を下から眺めているうちに母を呼んでこちらに目を合わせて欲しくなったのだ。母は振り向いて微笑を浮かべ、
「どうしたの」と言った。
赤子は大して用もなかったが、母にどうしたのかと問われ、なんでもないことだったが、必死に何かあることを探して、足の裏がちくちくすることに気づいて、
「あのね、歩くとね、足の裏にね、なんかあたるの。痛いの」
「靴に石が入ったのかね。どおれ、靴脱いでごらん」
母は屈んで赤子の小さな靴を脱がせる。靴下をはいたあんよ。靴を逆さにすると灰色の小石がころろと出てきた。二粒も。
「こんなに入っていた。痛かっただろうね」
赤子にまた靴を履かせて、母は赤子の手を取った。
「さ、歩こう。もう痛くないでしょ」
「もう痛くないよ」
赤子は薔薇色の頬にえくぼを浮かべて笑った。
交差点をわたって、駅前のデパートについた。母と赤子はその大きな建物に入っていった。自動ドアをくぐり、店舗のパン屋のパンの匂いを嗅ぎながら、エスカレーターに乗った。赤子は動く階段が止まるんじゃないかと思って、しゃがんで脚を踏ん張ってみた。けれど、階段は上へ上っていく。母が赤子の手を引き上げて、エスカレーターの終いの方を通らせた。
「ほうら、もう少しで楽しいとこだよ」母ははしゃいだように言った。
三階の玩具屋の隣に、子供の無料のアスレチック広場があった。小さな子供たちが滑り台に乗って遊んでいる。脇に網の囲いの中に拳大のボールがたくさんプールのようにある。そこで泳いでいる子供たちが二三いた。その子たちの親は傍らのベンチに座っておしゃべりをしていたり、だまって子供が遊ぶのを見守っていた。
「あ、滑り台」
赤子は興奮して広場の象の滑り台を指さした。
「行っといで」
母に促され、赤子は広場の子供たちの群に混じった。そして滑り台の階段を上って、滑り台をすべりおりた。そして、小さなボールの海の中に落ち込んだ。
赤子は無邪気にはしゃいで笑っていた。
一人の男がいた。歳は十四歳だ。彼は今朝、親にテストのことで怒られた。あまり良い点数をとれなかったことを母は執拗に責め立てたのだ。もともと母に見せようとはしていなかった。怒られるとわかっていたから、ゴミ箱にくしゃくしゃにして捨てたのだ。だが、母はそれを拾ってくしゃくしゃの紙を引き延ばして、なんだか読んだのだ。母は顔を赤くしてかっとなった。
「拓也!」
男の名前は拓也といった。
「どうして、こんな大事な物をくしゃくしゃにして捨てたの? ママが見つけなかったらどうしたんだろう。この不良息子。大事な物なんだからどうしてママにみせないんだろう。それもそのはずね。まあなんて点数でしょう。ああ、はずかし。ママは顔が火照りますよ。なんですか。どうしたらこんな恥ずかしい点数がとれるんですか。何をやっていたの。あなたは。勉強していたらこんな点数なんてとれないわよ。あなた。まあ、ほんとうにどうしたの。勉強していなかったんじゃないの。ママはあれほど言っていたでしょう。勉強をしなさいって。恥を掻かないために」
拓也は母に小言を言われると頭ががんがん痛んだ。むしゃくしゃして腹が悪くなった。
「うるせえ! ババア!」
「まっ、なんですって」
拓也は鞄を背負って学校に行くために家を出た。家を出たいためにがっっこうへ行くことを思いついて実行したとも言える。
「拓也! あなたご飯も食べないで」
「いらねえやい!」
もともと細くきつい目を更にきつくして、拓也は自転車にまたがって自転車をこいだ。風を浴びると気持ちが良かった。母の声から逃れられることを拓也はありがたく思った。拓也はちりんりんりんと自転車のベルを何の気なしに鳴らし続けながら自転車を走らせる。拓也が走った後にはベルの音が鳴り響く。中学校の駐輪所に拓也は自転車を止める。そして、背中を丸めて人々を睨みつけながら校舎に入っていく。拓也には友達が一人も居なかった。それは拓也の気性が関係していた。拓也は気に入らないとすぐ癇癪を起こすのだった。人と目が合うと拓也は舌打ちした。
おはようと挨拶がかわされるなか、拓也は誰とも挨拶をしない。いじけたように自分の席に着き、本を開いて読んだ。読む本は犯罪小説だった。特に好きなのは人が殺されるシーンだ。そのシーンをみると、爽快とした気分になった。拓也は息を殺して、本に没頭する。一限目は国語だった。授業が始まるとみんな鉛筆をにぎって、ノートに黒板に教師が書いた文句を書き写す。拓也は、はあとため息を吐いた。彼は朝は母に怒られたことをまだ引きずっていた。勉強なんて俺はもうやらない。やる気がしない。だって、あんなに怒るんだもの。だったらやってやんない。拓也は教科書をたてて、それに隠すように本を出して読み出した。
「ねえ、本読んでるよ、いけないんだ」
後ろの席の女子がわめくと拓也はむっとした。
「本当だ。先生に言っちゃお」
「先生。授業に関係ない本を読んでいる人が居ます」
丸眼鏡の男教師は変な顔をした。
「誰だそいつは」
「一尾くんです」
一尾というのは拓也の名字だった。拓也は顔を赤くして、後ろの女子を恨めしく思った。なんだってほっておいてくれないんだろう。正義感のつもりだろうか。良い子ちゃんぶって、人のあらを探して、そいつを責め立てて自分の株をあげようってんだ。
「一尾! お前は授業中に遊びにきているのか!」
教師は拓也から本を取り上げた。
「こんな物を見て! しかも教科書でかくしてみるとは女々しい度胸のない卑怯な奴だな! お前はせこい! 生徒として失格だ!」
拓也はこうして怒られ恥を掻かされたことにかっとなった。顔が赤くなっていたたまれなかった。変な焦燥を感じて、だまっていられなかった。逃げ出したかった。拓也はバンと机を叩いて立ち上がるや、鞄を背負って、怒ったように教室を出ていった。
「待て、一尾! そうやって出て行ってかっこいいとか思っているのか?」
くだらねえ。どいつもこいつもきたねえ野郎どもだ。拓也は腹が立った。人が嫌いだった。憎しみが腹一杯にこみ上げていた。目が血走っていた。誰も彼もみんな死ねばいいと思った。
拓也はしんとした廊下を歩き、階段を下りて、下駄箱から靴をとって、履き替え、外に出た。自分意外誰も居なかった。しんとしていた。砂埃が舞う。拓也は、けっと思った。どいつもこいつも大嫌いだ。俺を馬鹿にしてやがる。第一俺に敬意を払わないでやがるんだ。拓也は盛りのついた犬のように人が集まるデパートに自転車で向かった。デパートにはいると、拓也は値踏みして歩いた。おもいっきり踏みにじれる相手を捜した。誰でも良かった。睨みつけたり、悪態を吐いて気分を悪くさせたかった。そこで、拓也は三階までやってきた。玩具屋の前に子供がいた。しかし、その子供の隣には守るように父親がついていた。けっ。拓也は玩具屋の中を歩き回った。それから、子供の無料広場の前を通りかかった。
ああ、可哀想に。倖の母は丁度別の母親に話しかけられていた。そして世間話に高じていた。一人で遊ぶ倖。ころころと転がったボールを追いかけて、しきりの端の方へ倖は駆けていった。この小さな赤子は何も知らず拓也の側に近づいた。拓也は小さな赤子を見てひらめいた。無上の喜びがふいに拓也の心にひらめいた。倖のあどけなく無垢で、出来の悪い子みたいな顔を見た瞬間、自分の物に出来ると思った。拓也はほくそ笑んだ。これからできる自分の仕事に興奮したのだ。拓也は倖に話しかけた。
「やあ、おいで、お菓子を食べたくないかい。甘いあめ玉」
「飴……」
倖はにっこりと笑って拓也の側へ走った。
「飴、ちょうだい」
「あげるとも、だけど君は、俺に着いてこないといけないよ」
そう言って、拓也は倖を抱き上げて柵からだしてやった。母は何も気づいていなかった。話に夢中で倖の方を見ていなかったのだ。拓也は子供を抱いたまま歩いた。そして、トイレに入った。個室に拓也は倖を連れ込んだ。拓也は便所の個室のドアの鍵をしめると、倖に向き直って、いきなり倖の頬を叩いた。ぱんぱんと左右の頬を一回ずつ打った。
倖は痛みに顔を歪めて泣いた。
「あはは」
拓也は倖の腹にパンチした。そして、その小さな脚を何度も固い靴でけ飛ばした。倖は体を縮こませ、痛いと言って叫んだ。拓也はその口を手でふさいだが、涙と涎でよごれるのを嫌がって、拓也は倖の頭を拳骨で殴った。倖は激しく泣いた。
「どうしたい、大丈夫か」
倖の鳴き声を聞いて知らない男が個室に声をかけた。
「大丈夫ですよ。うんちをしろっていっても嫌がって泣くんです。しつけがわるいんです。もう大丈夫です」
拓也はこの場所で倖をいじめることに危険を感じた。人気のあるところで犯行に及ぶとはずいぶんと杜撰なまねをできたものだ。俺はいったい警察につかまりたいのか。いや、捕まっても良いが、その前に、この赤子を殺そう。
「ごめんよ」拓也は倖を泣きやませるためにあやした。
「叩いたりして悪かった。許してよ。ごめんな。もうしない。ママのところにつれてってやるよ」
その話を聞いて、倖は少し泣きやんだ。
「まま……」
「よし、家に帰ろう。お前のママは家で待ってるからな」
「うん」
拓也は個室の鍵を開けてトイレをでた。しっかりと倖の手を握って、逃げ出さないようにした。
「外に出ようぜ、もうデパートには用はないだろう」
「ママ、家にいるの?」
「そうだ」
「おうち、帰ったら、ママに、叩かれたっていう」
「おう、言えばいいだろう」
「そしたら、ママに怒られるんだ……」恨みったらしく倖は言った。
「だれが、俺がか? まあ、怒られるだろうな。だが、俺は怖くないよ」
拓也は鼻をすった。鼻毛が鼻孔をくすぐって、かゆくなったのだ。
「ジュースでも飲まないか?」
道を歩いていると自動販売機があった。拓也は小銭を持っていた。ジュースを与えて、倖の機嫌を取り十分に手懐けたいと思った。倖は拓也に警戒心を抱いている。そして嫌っている。拓也の目的の場所に連れて行くまでの間、癇癪を起こし、自分を裏切った行動をとるともわからない。面倒くさいことになるのはいやだった。まだ何も始めていないうちにおこるそれが唯一恐ろしかった。物事はスムーズに運ばれるべきだ。静かに事がうまく運んでほしかった。拓也はこの子どもに目を落とした。まだ泣きやむ前で、ひっひっとしゃくりあげている。ぱーにした小さな手のひらで濡れた瞼から頬をぬたりとこすり、手の甲で鼻水をこすっていた。その動作が憎たらしくてむかむかした。
「おう、買ってやるよ。何が良い? コーラか、オロナミンcか?」拓也は無理に笑顔を作って言った。すると倖は目も合わせず、ぐずりながら
「いらない」低く掠れた声で言った。
期待していたのと違う言葉が吐き出されたので、拓也はがっくりした。そればかりか、反抗的な態度にまた苛々した。生意気だと思った。
「俺が買ってやるって言うのに。なんでそういうことを言うんだ。俺の親切をむげにして、腹立つなあ。お前俺が嫌いなのか」
「嫌い」小さな声で彼は言った。
急に頭に血が上った。拓也は倖の頭をぽかりと叩いた。
倖は急ききったように大口を開けてわんわん泣き出した。
「ママ――」
拓也は倖の柔らかな肉付きの良い二の腕を思いっきりつねった。
「静かにしろ! 静かにしねえともっと酷い目にあわせるぞ!」
それでも倖は泣きやまなかった。人目が気になって拓也は真っ赤になった。この小さな子供を拓也は腕にしっかりと抱き上げ、道を走った。人を避けるように路地に入って、わんわん泣く子供を担いで走った。汗が沢山流れた。ほとんど冷や汗だった。
「ほら、お前のママだ!」拓也は右側の四階建ての白い団地の上階を眺めて平気で嘘を言った。
「どこ? ママ」子供は涙を拭って大事な母親の姿を必死に探す。「いない。ママ、ママ」
「いるだろうよ。あそこだよ。あの窓のところだ。カーテンが少し開いている、ほら、お前に手を振っているよ」
子供は首を伸ばし必死に母の姿を探す。
橋が見えた。橋の下には川が流れている。風のない日だった。川は波も立てず、穏やかに流れ、鏡のように青い空と白い雲とを映し出していた。
拓也は意地悪く笑った。駆けて、駆けて、橋に躍り出ると、そこは静かだった。邪魔する者は誰もいなかった。遠くにおばあさんが犬をつれて歩いていた。だが、ここまでにどれだけ距離があるだろう。どうだっていい。俺の人生は今日で最高を極め、今日で終わるのだ。拓也は倖を地面にたたきつけた。倖の頭ががんと地面のコンクリートにぶつかって跳ねた。あーん、と倖は泣いた。ぞくぞくした。その頭を拓也は靴を履いた足で蹴った。三度ほど蹴って、倖のぽっこり出た腹の上にジャンプして飛び乗った。腹を平たくつぶしてしまおうと、何度も足で力の限り踏みつぶした。倖は口から消化した食べ物を少量吐いた。拓也は笑い出したかった。拓也は倖の両足を持って、ぐるぐると回し、橋の鉄の錆びた手すりに倖の頭を思いっきりぶつけた。倖の額は割れ、血が吹き出た。倖はもう泣かなかった。気絶していた。拓也は倖を橋の下に投げ捨てた。どぼんと音がして、水面に弧が描かれた。すぐにぷかりと倖の黒い服の背中が浮かんだ。頭は水の中に沈んでいた。彼はゆっくりと前に流されていった。
犬をつれたおばあさんがじっと見ていた。犬がほえた。しきりに流れていく倖を追おうとする。おばあさんは犬に引っ張られながら橋の下の行けるところまで降りていって、倖を眺めた。彼女にはあれが何なのかわかっていないようだった。距離があきすぎていたのだ。
拓也はもう橋の上にはいなかった。彼は走っていた。街の中をひたすらに闇雲に走っていた。激しい興奮が彼の力となった。やっちまった! 彼は達成感に満ちあふれていた。赤ん坊は無言で水面に浮いていた。あれは死んだな。俺がやったんだ。あいつを痛めつけているときどんなに晴れ晴れとした気分だったか。柔らかくて弾力があるものを蹴飛ばしているとき、俺の中の全ての怒りが足に込められ、あの赤子の肉に埋められていくのを感じた。赤子は拓也の汚い物を全て吸収し、拓也のためにゴミとなってくれた。拓也は走っているうちに涙が出てきた。こんなにも怒りによって苦しめられていた自分が悲しかった。怒りを捨てたことでこんなにも身が軽くなることに驚いていた。そして、俺の怒りは赤子一人を犠牲にしなくては収まらなかったのかと、妙な感慨に耽った。
倖の母はいなくなった我が子を必死で探していた。
「倖ちゃん、倖ちゃん、どこにいるの。ママのところに戻っておいで」
母が我が子を見つけたのはその夜のこと。警察から電話があった。
「川で1、2才の子供の遺体が引き揚げられたのですが、もしかしたらお宅の息子さんでは?」
母は恐怖でがくがくと震えた。遺体ですって、川ですって、どうしてそんなところに。何が起こったのだろう。私が目を離したすきに倖ちゃんにどんな恐ろしいことが起こったのだろう。母は立っていられなかった。父は母を支えた。
「倖かどうか見に行かなくては」父は力強い声でそう言った。
母はほとんど聞こえていなかった。目はうつろだった。
二人は遺体安置所へ向かった。二人は生きた心地がしなかった。両足が震えていた。警察は二人にその子を見せた。
「確認してください。息子さんでしょうか」
布が取り外された。その下に彼は眠っていた。
母は悲鳴を上げた。父は声を上げて泣いた。
「はい、息子です、いかにも私どもの息子です」父は泣きながら言った。
「息子さんは殺されたのです。目撃者がいましてね。暴行を受けた後があります。死因解剖に同意してくれますか」
「殺された? 誰にですか?」
「未成年の少年です」
母はかっとなった。怒りでめらめらと頭が燃えていた。両目は瞳孔が開き黒々としていて、白目は血走っていた。殺された! 未成年に!
「犯人は中学生です」
学生服の少年の姿が母の頭に描き出された。母は彼を絞め殺したかった。彼の細い首を、手ぬぐいできつく縛って両側から手ぬぐいの端を引っ張って、彼の顔が紫色になるまで、締めてやりたかった。
「倖ちゃん!」
呼んでも、もう笑顔でこっちを振り向いてくれない。ああああ、母の胸に苦しみが迫った。心臓は破れてしまったかのよう。動悸の度に痛みが走った。涙が止めどなく流れた。
「お願い、生き返って……」
母の願いはむなしく響いた。小さな我が子は氷のように冷たい。そして、死後硬直で体は固かった。人形のよう! もう生きていない。死んでいる!
「犯人を殺して! じゃなければ、私が死ぬわ……」
母は子供の体を掻き抱いて胸にその小さな頭を押しつけ、柔らかな子供の頭髪に自分の唇を押しつけて感触を味わった。
こんなに大事にしていた子と別れなくてはいけないなんて!
母は死んでしまいたかった。人生の楽しみを奪われた。沢山の愛情をつめこんで大きく大きく膨らませた綺麗な色の風船。彼は私の手を放れ、空へいってしまった。もう取り戻せない。私の頑張りとは何だったのだろう。母は犯人の少年の事を考えた。彼に何か言ってやらなくてはと思った。でも、なんて言えばいいだろう。母はペンと紙を取った。そして手紙を十枚も書いた。全て恨み言ばかり書き連ねた。それを何も考えず怒りに任せてポストに投函した。
その手紙は拓也の手に届いた。
「君が殺した子供のお母さんからだ。ありがたく読め」そう言われて渡された。
拓也は始め、手紙の封を開ける勇気がなかった。勇気と言うより、それをしようという気にならなかった。酷く憂鬱で面倒だった。だが、刑務官に「開けてごらん。それを見ることも罪の償いになる」と言われ、開ける気になった。罪の気持ち、そんなのさらさら無かったが。だが、やれと言われて、それをしないのも変な気持ちだった。彼は刑務官をおそれていた。
分厚い便せんの束には乱雑な字でこのようなことを書かれていた。
「人殺し、お前は何のために生まれてきたのだ。お前が存在している意味がわからない。死んでしまえ。苦しんで死ね。お前みたいな奴に生きていてほしくない。お前は一生幸せになるな。不幸のどん底に落ちろ。不幸のまま死んで行け……殺してやりたい、ずっと恨んでいる。世界中の人間の中でもっとも卑しくもっとも不要なクソガキめ……汚い。お前の顔も思考も何もかも汚い。死んでしまえ! 社会のゴミ!」
拓也は読んだことを後悔した。彼は怒りがむらむらと沸いた。クソ共! 人間共! 屑共!
彼はすぐに返信用に手紙を書いて刑務官に渡した。刑務官は其れを読んで怖い顔で拓也に突き返した。
「これはダメだ」
その手紙には一言
「殺して良かった」
と書いたのだ。拓也はしょげて机に戻り、また一つ手紙を書いて刑務官に渡した。
「よし」刑務官は言った。
彼はこう書いた。
「僕はあなたから手紙をもらって嬉しかったです」
彼は心底思ったのだ。俺は過去に子供を殺しておいて良かった。もしも何もしていないのにこんな言葉をはかれていたら、俺はたまったもんじゃない。俺は社会に対する憎しみの裁きを既に果たしていた。それが俺は誇らしい。俺の自慢は俺は言われているだけの人間じゃなかったってことだ。
すっきりしました。