第7話
「おい、ラグ。治してくれよ」
戦いの緊張から解き放たれると、脇腹をはじめとするあちこちの傷がずきずきと疼いて全身を苛む。あまりの痛みに耐えかねて、シオンにしては珍しく、ラグに頼る姿勢を見せた。
「……やだね」
そのまま、ふいっと拗ねたように横を向いたラグに、ディセルバがきっと眉の角度をつり上げる。光皇に即位する前の「雛」と呼ばれる存在だった頃から、シオンには散々どつかれ、鉄拳教育を受けてきた経験があるので、ラグがシオンにこういった拗ねた言動を取ることは、ままあるのだが、今は時が時だけに悪質だと感じた。
「こんな時にふざけてるんじゃねえよ!さっさと治してやれ!」
しかし、それでも、ラグは動かない。それどころか、却って、小馬鹿にした視線でディセルバを見やる。
「……ほんっとに、鈍感なんだから。こんな絶好の機会を逃したら、後何年待ったって、永遠に春なんか来やしないじゃないか」
「何、言って……?」
「いっっっっってぇえええええっっっ!?」
荒くれ者どもにも引けを取らない俊足で、シオンに駆け寄り、後ろから抱きついたシェリルに、シオンが盛大な悲鳴を上げた。
「……なるほど、春、か」
「うん。結構、季節外れだけど、ね」
「この二人には、ちょうどいいだろ」
「……やっと、気づいたくせに、そういうこと言う?」
やっと得心がいった様子のディセルバに、ラグが呆れ顔をしながら、その手のことに、かなり鈍感な己の騎士を見上げる。そんな二人と将兵らが見守る中で、シオンとシェリルは、周囲そっちのけで喧嘩を始めた。
「怪我ぁしてんのに、いきなり突っ込んでくるんじゃねえよ、この撥ねっ返り!」
「そんな情けない声出して、ひいひい言うなら、最初っから、こんなバカなことするんじゃないわよっ!」
「誰がバカだっ!」
「あなたに決まってるでしょ!本当に、あなたといたら、いくつ心臓があっても足りないわ……」
怒鳴り声が急に途切れたと思ったら、シェリルの大きな焦げ茶の瞳から、ボロボロと涙が零れ落ちた。彼女の涙を見た途端、シオンは傷の痛みを忘れるほどに仰天した。彼女がラグのこと以外で泣くのを見たのは初めてである。しかも、その原因が自分ときている。おろおろと外聞なく狼狽えた彼は、あっさりと白旗を上げた。
「わ、わ、悪かった。頼むから、泣くなよ、シェリル……」
完全に途方に暮れているシオンに、シェリルは涙の濡れ光った目で睨みつける。
「本当にそう思ってるんでしょうね!?」
「…………もう、勘弁してくれ」
三国の連合軍にも、ラドリアス王にも怯まなかった王太子がやり込められる様子に、一同は小さく苦笑する。恥をかかせぬようにと、細心の注意を払う周囲に、遅まきながらやっと気づいたシェリルは、熟れたリンゴのように顔を赤くした。そうして、まだまだ言いたいことがあったものの、とりあえずはそれを飲み込んで、シオンの治療に専念し始めた。
「……殿下」
治癒の技を受けているシオンに、ベセルドが声をかける。見上げると、ラドリアスの使者として、老境に差し掛かった将軍を筆頭に、数名が彼に向かって深く首を垂れた。
「此度の戦、我が国の負けにございます。……厚かましい願いではございますが、我が王の遺体を引き取らせてはいただけませんでしょうか」
シオンは、それに応えて重々しく頷く。
「一国の王に相応しい立派な最期であった。丁重に葬って下さるよう、お願い申し上げる」
主君の意を汲んで、集っていたジャドレックの騎兵たちが、その身を退かせ彼らに道を開く。微かな微笑を残した年若い王の死に顔に、老将は跪くと瞑目し、深く首を垂れた。それに合わせて、ジャドレックの騎兵たちも、死した王に敬意を表して右手を胸に置き、黙祷を捧げる。
しばしの沈黙が周囲を支配する中、傍らに静かに歩み来た人の気配に、老将はゆるりと面を上げた。そこには端正に過ぎる容貌を持つ光皇たる青年が、王の遺体を痛ましげに見つめていた。
「……王の魂が、白き月に至らんことを」
白き月。人間を見捨てた非情なる神々が逃げ帰ったとされる遥かなる地。人を見捨てた神を人々は恨む。しかし、それでも、人は死後かの地に、神々の御許に至って安らぎたいと願って止まない。あれほどに怒らせた光皇より弔辞を贈られるとは思ってもいなかった老将は、感謝の意を込めて光皇に深々と頭を下げた。
王の遺骸が担架に乗せられ、布で姿を覆い隠された頃、新たな使者の到来を、シオンは告げられた。
「殿下、エイルリーフとワイメルの使者が、お目通り願いたいと」
「……会おう、通せ」
その報に、ベセルドが苦い顔を露わにした。程なくして、二国の使者が訪れ、シオンの姿を見止めて片膝を折り、恭順の意を示す。
「我ら、エイルリーフ王国とワイメル公国は、貴国、ジャドレック王国との停戦と和解を申し入れたい」
三国同盟の発足を持ち掛け、切り札となる魔獣の手綱を握っていた首魁のシグムントが死んだ時点で、この戦は負けである。切り札もなく、残り二国で大国ジャドレックを相手取るほど、流石に彼らも無謀ではない。勝ち目のない戦を早々に終わらせたいと考えるのは当然であった。
そして、戦を早々に切り上げた二国は、休む間もなく、その牙を、魔獣の仔によってボロボロにされたラドリアス王都グレイスタ攻略に向けるのだ。
老将の険しい顔つきに、ベセルドは他国とはいえ、同じ将として、臣下として、同情のため息を心中で漏らした。どう転んでも、この先、ラドリアスには厳しい道程しかないのだ。
喰う者と喰らわれる者とが同席した、緊迫した空気の中、ようやくシオンが口を開いた。
「承知した、と言いたいところだが、生憎、先客を待たせていてな。少々お待ちいただけないだろうか」
先客?そんなものが、どこに……。誰もが首を捻る中、シオンは会見の邪魔にならぬように端に退いていたラドリアスの老将に手招きをする。
「老公、ラドリアスとまだ正式な停戦協定を結んでいない。さっさと決めてしまおうではないか」
二国より先に、滅ぼされる寸前のラドリアスと約定を結ぼうとする王太子の奇妙な行動に、ベセルドをはじめとする自国の兵までもが首を傾げた。
「……ありがたき申し出、感謝いたします。我が名は、フィリウス。王より大将軍の任を賜っておりました者にございます。……して、我らにどのような約定を飲め、と?」
丁重な言葉とは裏腹に、老将の眼は険しく光る。負けたとはいえ、屈辱的な条件を飲むわけにはいかぬと、その瞳は強く語っていた。老いたる者独特の貫禄に、自身の頑固な守役の顔を思い出して、シオンは思わずにやりと笑った。
「なに、そんな無理難題は出しやしませんよ。おい、書記官はいるか?」
本陣の幕下の端から慌てて飛び出してきたラドリアスの書記官を側に引き寄せて、シオンはすらすらと述べる。
「今から、俺の言うことを明文化しろよ?いいか?……我、ジャドレック王国国王代理にして、王太子リュシオン・エルクライツ・ヴァン・ジャドレックは、今日より向こう三年間、ラドリアス王国と和平協定を結び、ラドリアス、ジャドレック、双方の領内に戦火を持ち込む輩に対して、共に戦うことをここに宣誓するものなり、っと。……どうだ、書けたか?」
「か、か、書けました、が、これ、は…………」
ラドリアスの書記官は絶句し、その場にいたすべての者が大きくどよめいた。ラドリアスに敵が攻め込んで来たら、ジャドレックが兵を起こす。シオンは、確かにそう言ったのだ。
これは敗戦国としての扱いではない。この条約をラドリアスが飲めば、今、この場で、ジャドレック、ラドリアスという新たな同盟が生まれることになる。混乱を極めるラドリアスにとっては、喉から手が出るほどにありがたい、正に破格の取引であった。
「殿下!いったい、何をお考えなのですか!?」
「いいじゃないか、ベセルド。期間については、もう少し長くてもいいかと思ったんだが、流石にそこまですると、越権行為だ、ああだこうだって、せっかく静かになった国元のうるせえ爺ぃどもが、また、元気になっちまうからなあ」
約定のしたためられた紙を書記官から奪い取って、さらさらと己の名前の署名を済ませるシオンの惚けた物言いに、ベセルドは頭を抱えた。
「……いえ、そうではなくて…………」
「おのれ、狂王子!エイルリーフとワイメルを敵に回すつもりか‼」
ベセルドの杞憂通り、二国の使者が怒号を上げた。このまま、ジャドレックとラドリアスが同盟を組めば、左右の二国は分断され、ラドリアスの甘い汁を吸うどころか、己の国自体が危うくなる。そんな焦りも相まって激怒している使者たちを、シオンは冷ややかな視線を向けて嘲笑った。
「口を慎まれるが良かろう。ジャドレックに戦を仕掛けておいて、無傷で和平を結ぼうなどと虫のいいことを言っているのは、そちらなのだぞ。ラドリアスは王を失うという代償を支払った。そちらはどんなものを差し出すというのだ?生半可なものでは、このリュシオン、納得せぬから覚悟するがいい‼」
凄みを利かせたシオンの怒号に、二国の使者は揃って震え上がった。その効果の程を見計らって、シオンは表情を和らげる。
「……まあ、なんにせよ、そちらとしても停戦を希望しているのだろう?受けてやってもいいが、ラドリアスとジャドレックには手を出すな。それ以外の条件での停戦はあり得ない。各国の王にも、そう伝えよ」
シオンに振り回される格好となった使者たちは、歯軋りしながらも、その条件を飲んで停戦せざるを得ないことを悟った。彼らが立ち去った後、シオンはポカンとしているベセルドらを見回して、からからと笑う。
「お前ら、揃いも揃って、なんて顔してんだよ。……おい、ベセルド、これで北方はしばらく大人しくなるぞ。なんか文句あるか?」
「……いえ、ございません」
言葉少なにもそりと言うベセルドに、シオンはしてやったという風情で、ニンマリとした。
「王太子殿下」
悦に入っているシオンに、老将フィリウスが改めて頭を下げた。
「……重ね重ねのご厚情痛み入ります。ラドリアスの名に懸けて、この大恩の返礼は、いずれ必ずお返しいたしましょう」
「そんなものは、後々でいい。早く王都を復興なされよ。この度の王都の悲劇は、我々、ルオンノータルに住まう者たちにとって、他人事ではないからな」
律儀な老将は、再度深々と首を垂れると、王の遺体とともに自軍の中へと消えていった。王の遺体が運び込まれた周囲から、ラドリアス軍に哀悼の波が広がっていくのを、静かに見つめていたラグが、シオンとシェリルに振り返って、ふわりと微笑んだ。
「ありがとう、シオン、シェル。……後は任せて」
魔獣が眠る巨大な黒い木製の棺の許へと歩き始めた、ある意味、二人の息子ともいうべき存在の青年の姿を、シェリルとシオンは肩を寄せ合って見守り続けた。
後から出てきたシオンが、一番美味しいところを持っていく展開となりました。次回、本編の最終話となります。その後ももう1話ありますので、最後までお付き合いください。