第5話
迷わず本陣目指して乗り込んでくる魔竜に、ラドリアス首脳陣は蒼白になった。
「魔獣の準備を急げ!」
この魔竜の乱入には、さすがのシグムントも度を失った。魔獣を戦に使おうとする自分たちが、まさか、魔獣に襲われる羽目に陥るなど、一体、誰が想像するだろうか。彼は慌ててジャドレックに投入する予定だった魔獣の準備を急がせた。
矢継ぎ早に指示を飛ばす彼は、太陽の光を手のひらで避け、魔竜の動向を窺おうと空を見上げる。その時、彼は竜の背に人の姿を見た。
闇を刷り込んだかのような漆黒の髪、宝石のように鮮やかな翡翠の瞳。
「光皇……!」
竜の背に光皇ラグナノールの姿を見出したシグムントは、ギリギリと歯軋りした。王都で聖天騎士を使い反乱を目論んだばかりか、魔獣を使ってまでジャドレックの味方をしようとする光皇に、彼は目の眩むような怒りを覚えた。怒りに打ち震える彼の前に、光皇たる青年が魔竜から降り立つ。
「古の光皇アードルフィの掟を破り、あまつさえ我が軍の陣容を乱すとは、どういうおつもりかッ‼」
歴戦の猛者すらも縮み上がりそうなシグムントの怒声に、しかし、儚げにさえ見える美麗な青年は怯まなかった。むしろ、それを跳ね返して彼を射貫くような視線を送って来る。
「我が兄アードルフィの掟は、無効となった!あなたは人として、王として、してはならないことをした!」
「何だと……?」
「初代光皇たる我らが長兄ラグレインの御言葉は、いかなる掟よりも重い。人は魔獣と関わってはならない。ましてや、光皇が直接封じた愚かなる魔獣などとは‼」
怒れる翡翠の瞳が、強烈な磁力を放っているかのように、シグムントを捕らえて放さない。
「我が兄が封印した魔獣を復活させるという暴挙を、私は見逃すわけにはいかない。……この紋章に覚えがないとは言わさぬぞ!」
怒りに紅潮するその顔にかかった前髪がふわりと浮き上がり、白銀に煌々と輝く紋章を露わにする。精霊を表し讃える幾多ある紋章の中で、唯一、光皇のみがその額に戴くという聖光の紋章を目の当たりにして、シグムントは心の中で大きく舌打ちをした。
光皇の封印を破ったなどと知れれば、光皇信仰に厚い肝の小さい連中が騒ぎだすだろうことを予期して、あの遺跡にあるそれらしき紋章はすべて消し去ったと思っていたのに。
彼の予期した通り、光皇の言葉を聞いた一部の将官たちが青褪め、ガタガタと震えだしている。真相を知っていた者と、知らなかった者と。両者を眺める光皇の瞳が、悲哀の陰りを帯びる。
「あの地下都市を見つけた時、何故、気づけなかった。あんな大きな都市が何故滅んだのかを。……奴らが滅ぼしたんだよ、シグムント王。あなたが復活させたあの魔獣たちが!」
この時、ようやく、シグムントの目が驚きに見開かれた。
「……奴らは人間や獣を苗床にして子孫を増やす。王都グレイスタの惨状を見るがいい。たった数日で、七千もの民が死んだ。……軽々しく魔獣と関わった結果がこれだ。ラドリアス王シグムント、お前の犯した罪を、代わりに被って死んでいった民にどう詫びるつもりだ」
王と光皇の対峙を遠巻きにして見ていた首脳陣は、さわさわと落ち着きなく揺れ出した。もし、光皇の言っていることが事実だとしたら、戦どころではない。おろおろと彷徨う視線が、王都の方角へと向かう。
早く、帰りたい。
誰もがそう思いだした。家族が、知人が、その七千人の中にいないと、どうして言えるだろう。
「嘘だ!嘘に決まっている‼」
シグムントが剣先のごとき、鋭く甲高い叫びを上げた。
「お前は、リュシオンを、狂王子の窮地を救いたいがために嘘をついているのだ!」
もう、真実などどうでも良い。今、引き返すわけには断じていかないのだ。後少し、後少しで、あの男を倒せるというのに。
頑なに現実を拒絶するシグムントに、光皇は冷ややかな憐みの視線を投げた。
「自分の目で確かめるがいい。……魔獣は、倒させてもらおう」
ざざっと引き潮のように身を引いた将官たちの間を、光皇は魔獣に向かって歩き出す。シグムントが目を剥いた。あれは、ジャドレックを壊滅させるための、リュシオンの神剣に対抗するための唯一の手段。奪われるなど、させてはならない!
「光皇を捕らえよ!その者は、ジャドレックの、狂王子の下僕と成り果てた、もはや、光皇などとは呼べぬ代物だ‼」
ジャドレック。
その国名に、将官たちがびくりと反応し、ジャドレックに対する敵意を再燃させる。シグムントだけではない。永の繁栄を続ける大国ジャドレックは彼らにとってもまた、羨望と妬みの対象であった。
光皇への畏怖は嫉妬と憎悪にすり替わり、魔獣の棺へと開いていた人垣の道が急速に閉じられ、光皇を押し込め、捕らえようとする手が四方から伸びる。
「我に、触れるな‼」
怒髪を衝く叫びとともに、光皇の額の紋章が白金の輝きを放つ。彼を捕らえようとしていた将兵たちは、光皇を中心として突如発生した強風に吹き飛ばされ、人々は不可視の力によってバタバタと地に薙ぎ倒された。
意図して人を攻撃する。
人を守ることに固執してきたラグにとって、これは初めての経験だった。が、それを躊躇う余裕がないほどに、彼は何が何でも己が野望を優先させようとするシグムントに対して、猛烈な怒りを覚えていた。
王都の人々、カイル、そして、メイメイ。
あれほどの悲劇を生み出しておいて成し遂げる野望など、どれほどのものだ。人間の希望、明日への祈りから生まれた自分に、まったく正反対のどす黒い感情が芽生えていくのを、彼は他人事のように感じていた。
「……光皇とは呼べぬ代物、だと?」
身を焦がす灼熱のごとき屈辱的な言葉は、目の眩むほどに純粋で、己の制御を越えた激しい怒りとなって、ラグの心を支配した。
「おのれ、よくも、そんな暴言を……‼我は、十四の輝ける魂に認められたる者、十五代光皇、黄昏に立ち向かう者なるぞ!いかなる国の下僕にだとてなりはせぬ!貴様こそ、民の嘆きを、苦しみを、その身をもってを知るが良い、ラドリアス王シグムント‼」
たおやかで中性的にも見えた、優しげな風情の青年の気配が激変した途端、辺りの空気もまた一変し、従軍していた司祭長や術士たちが、畏れ慄いてへたり込んだ。精霊と語ることの出来る彼らは瞬時に理解したのだ。世界を敵に回した、と。
次から次へと溢れるように出現する膨大な数の精霊が、光皇の怒りに呼応して狂おしいほどの憤怒の唸りを上げる。人の身では到底抗い得ぬ圧倒的な力を前にして、彼らは、ただただ、許して、助けて、と悲鳴を上げるしかない。
そして、異変は語る力を持たぬシグムントにも平等に訪れていた。晴れていたはずの空は、光皇の怒りに怯えて泣き出さんばかりにかき曇り、濃い雲間からは時折、呪詛めいた雷鳴が鳴り響く。天ばかりではなく地もまた、光皇をこれほどまでに怒らせた憤りを抑えきれないかのように、ずずっ、ずずっと不気味な鳴動を軋らせ始めた。
「……だから、甘く見るなと言ったんだ」
凄まじい精霊力を放出させて天地を揺るがせる光皇に、底光りする目で睨みつけられたシグムントをはじめとする将兵らは、我知らず後退去った。その背後から降った声に、彼らはぎょっとした。なんと、光皇が乗りつけてきた、あの金色の魔獣が喋っている。
「その声……!貴様、聖天騎士か!?」
答える代わりに、竜は凶暴そうな顎を笑うかのように、ニイィと引き攣らせた。呆然とする彼らの耳に、鼓膜を劈くような馬蹄の音と兵士の悲鳴とが交錯した。
「き、狂王子に第三陣を突破されました!」
その報が終わらぬうちに、ジャドレックの騎兵が荒々しく兵や柵壕を薙ぎ倒して、続々と乱入してきた。その中でも一際派手な黄金色の鎧を身に着け、緋色の外套を靡かせる男が、重たげな黄金の兜をかなぐり捨てて、今なお、怒りに我を忘れ、力の放出を止めない光皇に向かって叫んだ。