第4話
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クォォォォォオオン。
不気味な咆哮は、宿坊内で光皇探索の指揮を取っていたドルツの耳にも届いた。背筋をぞくりとさせる咆哮に、彼はジワリと焦りを覚える。
「まだ見つからないのか!」
未だに光皇を見つけられず苛立つ彼らの耳に、今度は、凄絶な絶叫が飛び込んできた。命の灯を踏みにじられ、暴力的にかき消されたかのような絶叫は、屈強な近衛兵すら顔を青褪めさせるに十分過ぎる響きを持っていた。さらに恐ろしいことに、絶叫は一つに留まらなかった。一つ、そして、二つ、と、確実に命を奪われる者の苦痛と恐怖の絶叫が、足元の階下で何度も何度も響き渡る。
「……何が、起きている?」
止まず、なおも、断続的に続く絶叫の合間に、びしゃり、ぐしゃり、と柔らかく、濡れた何かが壁や床に叩きつけられるような、何やらおぞましくも感じる音すら聞こえてくることに、誰もが背筋を這い上る恐怖を覚え、ますます顔を白ませる。
もう、探索どころではない。未知なる恐怖を発し続ける階下へと、意を決した彼らは汗ばむ手で剣をしっかと握りしめ、階段を一段、一段とそろそろと慎重に降りていく。
階下へと降り立った彼らは、呆然として立ち尽くした。そして、彼らは深く後悔することになる。何故、ここに至るまでに、逃げることを選択しなかったのか、と。
それほどまでに、そこには彼らを絶望の淵に叩き落す光景が広がっていた。
それは、敢えて言うなら、真紅の地獄。
そうとしか呼べぬ、暴力的な赤が彼らの目に突き刺さる。元は白かった天井や壁は、今や鮮やかな真紅の色に染め変えられていた。まるで幼い子どもの落書きのようにベタベタと無秩序に塗りたくられた染料が、いったい、なんなのか。それは、彼らの嗅覚が教えてくれる。
不気味に広がる光景に目を奪われる彼らの鼻を、つんとした生臭い匂いが刺激する。むわっとした濃厚な臭いに、何人かが口を押えてしゃがみ込み、それでも耐え切れずに吐く者が続出する。
ルオンノータルに住まう者たちは、魔獣の発生地とされる黒き月を忌まわしき地獄として忌む。が、今、彼らの眼前に広がる人間の大量の血糊で作り上げられた真紅の地獄は、その想像上の地獄すら上回る、もはや、地獄と呼ぶことすら生温いものであった。
びっしょりと血で真っ赤に染め上げられた天井から、ポタリ、ポタリと赤い雫が滴り落ちる音だけが虚しく響く。
先ほどまで、言葉を交わしていたはずの同僚らは、死体というよりも、物体、と呼ぶ方が相応しい悲惨な形状と化して床に散乱していた。そんな真紅の地獄の中、ただ一人、二本の足ですっくと立つ者がいる。
血の海の中、それは憤怒の衣を纏っているかのような獰猛な気配を漂わせていた。尋常ではない返り血を浴び、全身を朱に染め上げた大男が、ゆっくりと面を上げる。
「……せ、聖天騎士⁉」
漂わせる雰囲気の全く異なる聖天騎士の姿に、ドルツは掠れた声を発した。その声に、それは、ぎこちなくゆっくりと辺りに視線を彷徨わせる。
「ひ…………っ!」
爬虫類、いや、竜種特有の縦割れの瞳孔を持つ朱金色にギラつく瞳が、ドルツを視界に捉えた途端、ニタリ、と心を凍りつかせる笑みを形作った。人の顔のはずだというのに、全く人の顔に見えぬものに変貌を遂げたそれは、怯える下等生物どもを心底見下すかのような嘲笑を浮かべ、凶悪な笑みの口の端からは、鋭く研ぎ澄まされた牙が垣間見える。
クォォォォォオオン。
体中の血をざあっと一気に降下させるような咆哮が、目の前のそれから発せられる。先ほどの咆哮はこれだったのかと、五体満足なうちに気づくことが出来た者は、果たして幾人いたことだろうか。
瞬時に、彼らとの間合いを詰めた聖天騎士の姿をした魔獣は、ドルツへの進路を塞ぐ形で立ち尽くしていた数人を次々と天井や壁へと叩きつけ、標的と定めたドルツの頭を引っつかむと、容赦なく床へと叩きつけた。
ごきゅり。鈍く、そして、硬い何かが折れ砕ける音が、辺りに重々しく響き、ぐぎゃ、と司祭の微かな悲鳴がそれに続く。主を害しようとする首魁を、ついに捕らえた喜びゆえか、騎士の口角が左右に引き上げられ、ますます人ならざる凄絶な笑みを、その顔に刻む。
「ひ、ひぃぃいいっっ‼」
ついに恐怖の限界を振り切ってしまった誰かの絶叫が、事態に凍りついていた近衛兵らの時間を解凍させ、彼らを一気に狂乱状態へと陥れた。この場にいた誰もかもが、とにかく、この恐るべき魔獣から逃れようと、涙を流し、涎を垂らし、恥も外聞もなく甲高い悲鳴を上げながら逃げ惑う。
あっという間もなく、赤の地獄には、ひくひくと壮絶な痛みに体を痙攣させるドルツと人の姿をした魔獣のみが取り残された。
「た、たすけ……」
たった一人取り残された司祭は、不幸にも意識を取り戻してしまった。もはや、身動きもままならない体をもぞもぞと蠢かせて、彼をなんの感慨も持たぬ眼で見下ろす男に、命乞いを試みた。が、慈悲の心など欠片も解さない魔獣に取って代わったディセルバの足は、容赦なくドルツを蹴り上げる。壁に勢いよく叩きつけられた体からは、ミシリ、と再び嫌な音が漏れた。
完全に意識を手放した司祭に、魔獣は止めを刺すべく拳を振り上げた。それを、よく通る女の声が制止する。
「光皇の危機は去ったわ。それ以上の殺戮は無用よ。ディセルバに体を譲りなさい」
凛として落ち着きを払った女の声に、凶悪な魔獣が顔を歪める。この程度では足りぬ、まだまだ満たされぬ。そう訴えるかのように、ぐぅるるる、と低く唸り、女を睨み付けるが、相手はそれに気押されるどころか、却って挑むかのように、手にしていた杖の先端を床にパシンと叩きつけた。
「……譲りなさい、と言ったわ」
杖の頭部についている鈴と大小いくつかの円環が、リィィィンと軽やかな音を立てる。毅然とした彼女の様子に、脅しは無駄だと悟った魔獣は、渋々とではあったが、もう一人の自分でもあるディセルバに表層意識を譲り渡した。
「しぇ……リ、ル……?」
泥沼から身を起こすかのような、ねっとりとした微睡の中から意識を目覚めさせたディセルバは、旧知の娘の存在に気づく。感覚は徐々に戻りつつあるが、まだ目は霞み、頭もぼんやりとしていた。
いつもの癖で、髪の毛を掻き上げようと持ち上げた手に、彼は目を見開く。人の血によって真っ赤に濡れそぼった両手から、ぽたりぽたりと血が滴り落ちる。
ああ、俺は、また…………!
完全に覚醒し、記憶をも取り戻したディセルバは、血に染まる手で己の顔を覆い隠した。むせ返るほどに濃厚な臭いに眩暈がする。意識を片割れである魔獣に譲り渡した時点でこうなるだろうとは覚悟していたが、現実の凄まじい惨状を前にして、己の忍耐力の無さを悔やんでも悔やみきれない。
「ごめんなさい。わたしが、もう少し早ければ……」
力なく肩を落とす彼女に、ディセルバは静かに首を横に振った。