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第2話

「逃げるって、どこに逃げるの⁉」

「とりあえずは、上しかねえだろ!」


 さっきの様子からして、建物の外、祭殿や王城を結ぶ回廊や内庭は、近衛兵らの目が光っていると見ていい。そして、いずれ、この宿坊にも探索の手が及ぶはずだ。不安がるメイメイの手を引いて、カイルはその足を上の階へと走らせた。

 階段を上り始めたカイルの負担を減らそうと、メイメイがカイルの後ろに回り、ラグの体を後ろから支える。二人は無言のうちに、励まし協力し合いながら、一歩一歩と最上階を目指した。

 背負われ散々揺らされているというのに、ラグは依然、睫毛一つすらもピクリとさせずに眠り続けている。背中から伝わる温かいぬくもりだけが、彼の存在を意識させた。額に汗を光らせて、カイルは小さく笑う。

 どうしようもなく泣き虫で、世間知らずで頼りないけど、すべての人間を幸せにしようと平気で命を削る、そんなとんでもないお人好し、こいつしかいない。光皇になんか、こいつしかなれない。だから、絶対に。


「……絶対、守ってやるからな。安心して、寝てていいぞ、ラグ」


 後ろで彼らを支えるメイメイも、彼の言葉に強く頷く。階段を何とか上り切った二人は、ついに、建物の最上階へと辿り着いた。

 最上階の部屋は、王族や高位貴族のためのものらしく、寝台や家具などの調度品は言うに及ばず、壁紙や天井の装飾などにも贅が凝らされていた。下の階の部屋に比べれば、各段に豪華で広々としていたが、いざ隠れるとなると、たいして広くもなく感じてしまう。ひとまず、ラグを豪華な寝台へと下ろしたカイルは、室内を丹念に探索する。


「くそっ、お偉い貴族様のための部屋なんだから、隠し部屋とか秘密の通路とかの一つも用意しとけってんだ!」


 せめて、抜け道でも、と縋る思いで探し回ったのに、期待を裏切られたカイルは苛々と壁を蹴って毒づいた。うろうろと室内を歩き回るカイルは、部屋の片隅にある大きな衣装箱に目を留めた。


「この箱なら、二人くらいは入れるだろ。メイメイとラグで使えよ」

「やっぱり、そこぐらいしかないかしら。カイルはどうするの?」

「俺?うーん、どうしようかなあ」


 頭を振りつつ、さらに室内をうろうろと歩き回る。棚の上の豪華な置物、暖炉の上の鏡、そんなものを眺めていたカイルは、いきなり自分の胴衣を脱ぎ始めた。


「メイメイ、ラグの胴衣を貸してくれ」

「……?どうするの?」

「いいから、早くしろって!」


 カイルに急き立てられ、メイメイは手早くラグから胴衣を脱がせて、カイルに渡した。代わりに渡されたカイルの芸人用に作られた派手な色合いの胴衣をラグに着せ終えたメイメイは、後ろを振り返って目を丸くする。

 振り向いたそこには、ラグの濃紺色に銀糸の縁取りの入った上等な胴衣を着こんだ黒髪のカイルが立っていた。黒髪のカイルは、驚くメイメイに、ニッと歯を見せて笑う。


「どうだ?遠目からなら、光皇様に見えないこともないだろ?」


 暖炉に残っていた灰や煤をかき集めて無理矢理に赤毛を黒く染めたため、その顔は少し煤けていた。それをそっと拭ってやりながら、メイメイは小さく笑う。


「どこの煙突から落ちてきた光皇様かしらね?」


 茶化す彼女の語尾は、必死で堪えようとする本人の意志を無視して震え、眦には涙が浮かぶ。カイルは囮になるつもりだ。しかし、それが彼らに出来得る最善の策だということも、彼女にはわかっていた。顔に煤がつくのも構わずに、メイメイはカイルの首に噛り付くようにして、思い切り抱きしめた。


「心配すんなって!無茶はしねえからさ。兄貴を呼んで来たら、すぐに戻って来る。それまでの間、ラグを頼むぞ」


 涙をゴシゴシと拭って、メイメイは力強く頷いた。そうして、彼に余計な心配をさせまいと、彼女は精一杯の笑顔を作る。


「任せといて。それよりも、絶対に、無茶はだめよ、カイル」

「わかってるって!」


 強気に答えて、カイルは部屋を飛び出した。一気に階段を駆け下り、宿坊二階のバルコニーから顔を出すと、辺りはもう夕闇が大分迫り、彼にとってはありがたい薄暗闇を作り出していた。

 まだ、この辺りに兵士たちの気配はない。今のうちに、できるだけ見当違いのところを走り回って、連中の目を混乱させれば、その間に、きっと、ディセルバが駆け付けて来てくれるに違いない。そう考えた彼は、バルコニー脇に植わっている木に、よっと掛け声をかけて飛び移り、身軽な猿のようにするすると素早く伝い降りる。

 地上に降り立つと同時に、辺りを鋭い目線で警戒しつつ、植え込み伝いに低姿勢で庭を走り抜ける。やがて、祭殿に近づくにつれ、大勢の人々の喧騒が否応にも耳につく。乾ききった唇をぺろりと舐め、彼はそろそろと植え込みからそちらを覗き込んだ。

 カイルの目は、一心にドルツを探す。忌々しいが、あの男なら、ラグがどんな服装をしていたか覚えているはずだ。それに、騒ぎの中心であるあの男を引っ張り出せば、時間はもっと稼げる。後は、暗闇を味方につければいい。


 いた!


 口角に泡浮かばせ、大声で近衛兵を罵る中年の司祭は、すぐに見つかった。獲物を見つけた少年は、ニヤリと笑うと、ドルツとの距離を測りつつ、好機を待って茂みの中で息を潜めた。


「よし!」


 今が好機と睨んだカイルは、茂みから勢いよく飛び出すと、全速力で南門を目指す。いや、目指そうとしたのだ。彼の足が、不意になにかに躓いたりしなければ。


「おわっ⁉」


 茂みを出てすぐに躓いて転んだ彼の足先に、何かが触れる。


「……助けて」


 躓いた何かは、地面に蹲った少女だった。城の下働きらしい恰好をした少女は、高熱に浮かされて、とろんとした顔つきで、ブツブツと小さく呟きながら、彼の足に縋ってくる。ちきしょう、なんで、こんな時に……!あまりの間の悪さに、カイルは大きく舌打ちした。


「悪いっ、放せよ!今、それどころじゃ……」

「助けて……!」


「光皇だ!光皇がいたぞ‼」


 蔦のように絡んでくる少女の手を振り払おうと焦るカイルに、ドルツが気付いた。司祭の金切り声に、殺気立った近衛兵が四方から駆けつけてくる。


「ちッ!最悪じゃねえか!」


 少女を乱暴に振り払い、彼は一目散に、ディセルバが戻ってくるはずの南門を目指す。


「待て!」

「待てるかっての!」


 鎧を纏っている近衛兵に比べれば、身の軽いカイルの足の方が断然に速い。彼らの距離は、徐々に離れていく。よし、このままだったら、逃げ切れる……。解放された南門の先に広がる暗闇を前に、安堵の笑みがうっすらと少年の顔に浮かんだ。


 トッ、ト、トンッ!


 その音は、一つだったか、二つだったか。風を切る軽やかな音とともに、カイルは背中と右の肩口に熱い痛みを覚えた。痛みと同時にやってきた衝撃を受け止めきれずに、彼の身体は衝撃の勢いのまま、地面に真正面から弾むように叩きつけられた。


「痛……ってぇ……!」


 一旦は立ち上がろうとしたカイルだったが、腕に力を入れようとした途端に走る激痛に思わず蹲る。恐る恐る自分の背を振り返った彼は目を瞠った。なんと、彼の背中には二本の矢がピンと突き立っている。カイルは、心底ゾッとした。ドルツは、彼を光皇と言ったはずだ。それなのに。

 なんて奴らだ。こいつら、光皇に矢を射かけようが、殺しちまおうが、平気なんだ。光皇は、ラグは、六百年もの間、失皇期の只中にいた人間の希望のはずだろ?それを、殺す?


「捕らえたか?」

「痛……っ!」


 頭上からドルツの声が降ったかと思うと、髪の毛を乱暴に鷲づかみにされ、カイルは苦痛に顔を歪めた。その顔を見止めたドルツもまた、忌々しげに舌打ちをする。


「芸人風情が、また、邪魔をしおるか!囮なんぞと、小賢しい真似を……!」

「はは、残念だったな……、つぅっ!」


 言い終わらないうちに、ガツンと頬を殴られ、左右から兵らによって引きずり立たされる。


「光皇はどこだ、小僧!」


 身動きの取れなくなったカイルの胸倉を激しく揺さぶって、狂気の光を宿した司祭が声を荒げる。グラグラと揺さぶられるたびに、肩と背中の矢傷が、脳を焼くような灼熱の痛みを引き起こし、生温かい血が背中を伝う。


「……言うわけねえだろ!」


 ギシ、と奥歯を噛みしめて、少年は気丈に抵抗の意志を見せた。そんな彼をドルツはせせら笑い、その体を地面に再び叩きつけると、ガツン、と頭を踏みつけた。


「大方、この辺りの建物にでも潜んでいるのだろう。……まったく、何が光皇だ。狂王子に手懐けられたジャドレックの下僕めが、こんな病を起こしおって!何としても探し出せ!どんな手を使っても、この呪いを解かせてやる!」


 頭上で毒を振り撒くドルツに、カイルは声も出せずに、爪でがりがりと土を掻いた。なんで、こいつらはこんな悪意に満ちてるんだろう。どうして、自分たちの基準でしか物事を測れないんだろう。あのラグがそんなこと出来る奴じゃないって、どうしてわからないんだよ!

 与えられ続ける痛みで、意識が朦朧としてきていた。満足に手足も動かせない自分に激しい憤りを覚えつつ、彼は必死にメイメイに呼び掛けていた。


 ごめん、メイメイ。頼むから逃げてくれ。

 ラグを連れて、どこか、遠くへ……!


 もう、彼には祈ることしかできなかった。










 

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