第1話
新章、始まります。
「……当分、起きそうにないな」
「……うん」
柔らかな寝台の中で、昏々と眠りについている黒髪の青年の寝顔を、カイルとメイメイの二人は、寝台に頬杖を突きつつ見守っていた。倒れるまで力を使い続けるというラグの悪癖を知ってしまったせいか、彼の彫像のように美しい寝顔は、なにかの拍子にパキンと壊れてしまう硝子細工みたいに脆く、儚いものを感じさせた。
光皇なんて、あの空に浮かぶ城と同じ、遠い遠い存在だと思っていた。でも、笑って、泣いて、怒って。目立ち過ぎる見た目と不思議な力がなければ、ラグはごくごく普通の男の子だ。
それも、たった一歳の。そんな幼い子どもが、何度も、何度も、倒れるまで力を使って、荒廃した世界を改善させようと努力していることを、誰も知らない。知ろうともしない。
「……なあ、さっきの話なんだけどさ」
躊躇いがちに話しかけてきたカイルに、鬱々とした思いに囚われていたメイメイは、はっと顔を上げた。
「え?ああ、さっきのディセルバの話?まあ、夢みたいな話だけど、悪くはないんじゃないかしら」
ただ、ラグが寂しく感じるような場所に、自分やカイルがいつまで退屈しないで居られるか、その辺りが問題のような気がするが。
「それじゃあ、だめなんだよ」
「え?」
メイメイはカイルの顔をまじまじと見つめる。でも、その言葉はどちらかと言うと彼女に、と言うより、彼自身に向けて言っているように聞こえた。
「それじゃあ、だめなんだよ。それだと、俺もラグも成長できねえ。……メイメイ、俺とラグは同じなんだ」
「同じ?」
うん、と頷いたカイルの目は、眠り続けるラグにずっと注がれていた。
「俺とラグは同じことで悩んでる。俺は早く兄貴みたいになりたくて。ラグは早く混乱する世界を救いたくて。早く、早く認められるようになんなきゃって、焦る気持ちばっかりが前に出ちまって、無理してる」
「……うん」
確かに、そういう点では二人は似ているかもしれない。二人とも一途で一生懸命で、それ以外のことが見えていない。
「だから、ノルティンハーンじゃ、だめなんだ。ただ守ってもらってるだけじゃ成長できねえ。俺たちは、もっといろんなことを経験して、いろんな人と会って、いろんなことを知らなきゃだめなんだ」
「だから、ラグを旅に誘ったの?」
「……うん、まあ、あの時は、面白がって言ったけどさ、旅でもなんでもいい、自分を成長させる場所に飛び込んで行かなきゃ、俺たちはいつまでもこの焦った嫌な気持ちを抱えたままだ。俺も、ラグも、もっともっと成長したいんだよ」
ちくり、と胸の奥が微かに疼くのをメイメイは感じた。今まで手を繋いでいた少年の手が、するりと外されたような気がした。
ラグという彼と同じ悩みを抱いて足掻いている少年に、カイルはおそらく初めて出会ったのだ。その証拠に、ラグに会ってからのカイルの行動や言動には、目を瞠るほどの成長がある。
もう、だめなのだろうか。この空高く飛ぶ雲雀のように、さらなる高みを目指そうとする少年について行くことは。
「だからさ、俺、これが片付いたら、兄貴に言うつもりなんだ。もう、ラグを甘やかすなって。旅でもなんでもいいから、俺たちに世界を見せてくれってさ」
「……そこに、あたしはいる?」
「あ?ああ、当たり前だろ!メイメイ抜きでなんか行くかよ。……って、おい、なんで、そんな顔すんだよ?」
感情の高まりが、思わず涙腺に出ていた。ずっ、と鼻を啜って滲みかけた涙を拭う。なんだか、きまりが悪くなって、困った顔をするカイルを置き去りに、窓際へと席を立った。
窓の外、暮れなずんでいく秋の空を眺める。うん。まだ、大丈夫。カイルは、まだ、あたしを必要としてくれてる。……あたしも、まだ、頑張れる。
将来なんてどうなるかわからないけど、今は、カイルに、ラグに、あたしは、きっと、ついて行こう。新たな決意に、よし、と両手を握りしめた彼女は、ふと、祭殿の庭が騒がしいことに気づいた。
「……カイル!」
メイメイの声に、すぐに危険を察知したカイルが、音もたてずに素早く窓辺へと身を寄せる。
「……ドルツじゃねえか」
外から見えぬように注意を払いながら、窓下の様子を確認すれば、それは、確かにラグの誘拐を企んだ、あの小悪党だった。しかも、質の悪いことに、今回は抜き身の剣を引っさげた物騒な連中と一緒である。彼らから発散される殺気立った気配からして、到底、友好関係は築けそうにない。
「ラグ、起きて!」
「おい、やばいぞ!起きろ、ラグ!」
寝台に取り付いて、ラグの頬をピタピタ叩いたり強く揺すっても、黒髪の青年は、魂が抜け落ちてしまったかのように目を覚まさない。彼は人間ではないのだ。この眠りも、カイルたちの考えが及ばないような深いものなのかもしれなかった。
「どうしよう、カイル。全然、起きそうにないよ」
「ちっ、参ったな。このままじゃ、見つかっちまう」
「……カイル!」
部屋の扉の取っ手が微かに動いていた。慌ててカイルは腰の剣を抜き放ち、メイメイは帯に挟んだ短剣の柄を握りしめた。
ピリピリとした緊張に支配される彼らの前に現れたのは、ドルツでも、兵士でもなく、亜麻色の髪の美女だった。
「王女様!」
味方の出現にほっとした彼らが駆け寄って来ようとするのを、彼女は手で制し、慎重に音を立てずに扉を閉める。
「……光皇陛下は?」
「眠ったまんまだよ。それより、下でドルツが凄い顔して……!」
一気に捲し立てるカイルに、エメイアは憂いをさらに深くする。
「ごめんなさい。ドルツ司祭と留守居の近衛兵を説得することができませんでした。彼らは今、陛下を捕らえようと躍起になっています。アルバート司祭にディセルバ様を迎えに行かせましたが、間に合うかどうか……」
「なんだって⁉」「ええっ⁉」
昏々と眠りについているラグを見やったエメイアは、カイルとメイメイの肩に手を置いた。置かれた手にくっ、と力が入る。
「二人とも、よく聞いて。この場は、私たちが時間を稼ぎます。その間に、あなたたちは、陛下を連れて逃げなさい。……いいですね?」
最悪の状況に慄いている暇などなかった。カイルは返答の代わりに、眠るラグの体を引き起こして、自らの背に背負い込み、メイメイが布を割いて作った帯で、カイルとラグの体をきっちりと結びつける。幸いなことに、カイルより背の高いラグは思いの外軽かった。
的確に状況を判断し、きびきびと行動する二人に、エメイアは強く頷くと、自らはそうっと扉を開いて辺りの様子を窺う。一通り見回して安全を確認した彼女は、二人を部屋の外へと送り出した。
全力で駆け出していく二人の背中に、エメイアは両手を組み合わせ、祈りを捧げた。