第9話
言葉も終わらぬうちに、すっと腰を落とした後のグラッドの動きは素早かった。その巨躯からは想像もできぬ速さでもって、ディセルバを急襲する。そうして、ただ一点。ディセルバの眉間目掛けて痛烈で鋭い突きを放った。
侮ったわけではなかったが、あまりの速さに対応の遅れたディセルバは、うお、と叫びつつ、皮一枚というところで、辛うじてその一撃を避けた。
「……ほう」
「……あんた、速いな」
感心と驚きと。二人が同時に口を開いた。侮り難い敵の実力を目の当たりにしたディセルバが、やや間合いを取るように、じり、と後退する。一方、グラッドは余裕の笑みを覗かせた。
「なるほど、聖天騎士というのは、伊達ではないらしい。今のを良く避けた。……だが、逃げるだけでは、勝てんぞ」
そう言うや否や、成り行きを固唾を飲んで見守る群衆らの目ではとても追えぬ速さで、グラッドは鋭い突きを次々と繰り出す。対するディセルバもまた、同等の素早さでもって攻撃を躱していく。
ガツガツと棒杖がぶつかり合う音のみが響き合う中、グラッドはさも楽しげに、かかっと口を大にして笑った。
一旦、間合いを取り体勢を整えたグラッドは、くるりと棒杖を頭上で回転させ、重さを全く感じさせずにぶわりと飛び上がると、跳躍に加速をかけて体ごと突っ込んで、ディセルバに向かって加速と重量とを加味した重すぎる衝撃を振り下ろした。確実に彼の頭を勝ち割らんとする凶撃に、そうはさせじと、ディセルバは棒杖を横に構えて、グラッドの渾身の一撃を食い止める。
ガツンッ。
凄まじい衝撃に、北国の硬い針葉樹の幹より削り出された棒杖はお互いに辛うじて耐えた。そして、それは、二人の男の顔と顔の間をギリギリと音を立てて交錯する。
上から巨体の重みごと圧力を加えてくるグラッドに比べ、なんとか押し戻そうとはしているものの、すでに片膝をついているディセルバとでは、明らかに体格に劣る彼の方が不利だった。
その場の誰もが、いや、ザイン以外の誰もが、聖天騎士を名乗った青年の敗北を思い描いた。
グラッドもまた、己の勝利を確信する。犬歯を剥き出しにして笑みを作るグラッドの喜色に満ちた顔に、ザインは、思わず、ふっと口の端に笑いを刻んだ。グラッドの奴、これから見る信じられないものに、どんな顔をするんだろうな。そんなことを考えながら。
ザインの予想通り、グラッドの片眉が怪訝そうにピクリと動く。もう少しで、生意気な若造の額を勝ち割ってやるはずの棒杖の動きがピタリと動かなくなった。おかしいと感じたグラッドは、足腰にさらにぐぐっと力を籠め、さらに加重を加える。が、彼の棒杖はそれ以上先には進まず、あろうことか、逆にじりじりと押し返され始めた。
「…………⁉」
勝利の確信から一転して驚愕に見開いたグラッドの目に、ディセルバの視線が突き刺さる。琥珀色に見えていた彼の瞳は、今や、黄金の色をしていた。その燦然とした輝きに、幾多の悪党を力でねじ伏せ、黙らせてきた歴戦の警備隊長は、うすら寒いものを嗅ぎ取って、ぞく、と身を震わせた。
それは、人間にはあり得ない獰猛な威圧感を漂わせる瞳だった。そう、正に、魔獣そのもののような。
「うぉおおおおっっ‼」
黄金の眼の男が、咆哮を上げる。グラッドが気圧され生まれた隙を、ディセルバは逃さなかった。咆哮とともに、一気に手にした棒杖を突き上げる。とんでもない剛力によって、彼の倍近くはあるグラッドの巨躯が、つかの間、宙を舞った。
驚愕に極限まで目を見開いた表情を張り付かせたまま、グラッドの身体は、鈍い地響きとともに、石畳に仰向けにひっくり返った。
抜かった!己の不覚に臍を噛む思いで、素早く身を起こした彼の鼻先に、ぴた、と棒杖が突き付けられ、もう、彼に反撃の機会などないことを悟らせた。
「俺の勝ちだな、おっさん」
にやりと笑う金髪の若造からは、もう先ほどの魔獣のような気配は消えていた。グラッドは憮然として、ふん、と鼻を鳴らすと、からりと棒杖を投げ捨てて、降参の意を示すように両手を上げた。
「参った、俺の負けだ。治安維持のため、存分に働いてやるとするさ。さて、聖天騎士殿、負けた者のささやかな頼みもひとつ聞いてくれやしないか」
「……なんだ?」
「……その、おっさんと呼ぶのは勘弁してもらいたい。俺はまだまだ若いつもりだ」
その辺りだけは譲るわけにはいかんと、憮然とした表情のまま口をひん曲げる強面の警備隊長の様子に、ディセルバはザインと顔を見合わせた。一拍の後、彼らは、ぶは、と腹を抱えて笑い出し、その笑いは、周りで固唾を飲んで観戦していた人々にまで、伝染するように広がっていった。
彼らは笑う。笑うことで、突如として降りかかったこの困難をも吹き飛ばそうとするかのように。
王は俺たちを切り捨てた。でも、いいじゃないか。まだ、俺たちには、光皇様がいる。強い聖天騎士がいる。頼もしい知人が、友人がいる。魔獣の毒になんか負けるものか。
混乱し狼狽えていた人々の心が、希望を見出し始めた瞬間であった。
しかし、現実は非情であった。事態は、そんな人々のささやかな希望すら打ち砕こうと、密かに爪を研ぎ始めていた。笑いの余韻残る場に、突如として一陣の強風が発生し、強烈な光の紋章陣が浮かび上がった。
「聖天騎士殿……!」
悲鳴めいた声を上げて、術陣の中から飛び出してきたのは、司祭姿の男だった。
「アルバート司祭⁉」
光の高位精霊力を使役する空間転移術を使用した影響か、ゼイゼイと荒く息をし、肩を上下させていたアルバートは、ディセルバの姿を見つけるや、必死の形相で彼に迫った。
「……早く、城へ!ドルツ司祭が近衛兵らと結託して、陛下の身柄を拘束しようと血眼で探している。奴ら、病の発生で逆上しているから、下手をすれば、陛下の御命が危ない。……陛下が、光皇が、殺されてしまう‼」
ディセルバは慄然とした。力を使い切って眠りに落ちた、あの状態のラグを殺すのは、赤子を捻るよりも簡単だ。
ドクンッ。
心臓が大きく跳ねた。ぐう、と思わず唸ったディセルバは胸の辺りをぐっと押さえる。彼の奥で、もう一つの彼が、契約主の危機を知って目覚めようとしていた。彼に取って代わろうと、それは激しく要求する。俺を、出せ、と。
「……アルバート、俺を連れて、もう一度城まで跳べるか?」
「後一回くらいならば、なんとかやれる。……どうした、具合でも悪いのか?」
「……早くしろ!時間がない‼」
顔を押さえた指の隙間から、ぎろりと黄金に輝く瞳が睨む。まるで竜種の瞳孔のような縦割れの瞳孔をした瞳を垣間見た司祭は、思わず上げかけた小さな悲鳴の辛うじて飲み込んで、慌てて精霊を呼び集め、術力を紋章陣へと変換し始める。
早くしろ、アルバート!早く、早く……!苦痛に顔を顰めたディセルバは、ラグだけでなく、己自身にも時間がないことに焦る。
姿を成した空間転移術の紋章陣に飛び込んだ二人を見送る形となったザインは、石畳に唾を吐きかけた。
「ドルツ!あの権力欲の亡者め。こんな時まで、自分の身の保身に走るか!」
ドルツの愚行を罵るザインの横で、群衆の中から、一人、ふらりと歩を進め、ディセルバの投げ捨てていった棒杖を手に取った者がいる。見咎めたグラッドが声をかける。
「おい、お前。それで何をするつもりだ?」
光皇が殺されるかもしれない。その不安に、民衆は再び揺れを見せている。ほんの一手を間違えただけでも、暴動が起きかねない。棒杖を握るグラッドの手に、ジワリと汗が浮く。
しかし、棒杖を手にした商家の奉公人のような姿をした青年は、グラッドが予期したものとは違う、意外な言葉を紡いだ。
「俺、王城へ行きます。……光皇様を助けに。王はもう信じられない。けど、あそこから降りてきて下さった御方は、信じてみたいんです」
遠く遥か西の空に浮かぶ浮き島を目に留めた青年の声は微かに震えていた。しかし、その意思は少しも震えてはいなかった。
ザインとグラッドに、ぺこりと丁寧なお辞儀をした青年は棒杖を携えて王城へと駆けていく。たった一人の、ごく平凡な若者の言葉を受けて、今、何をすべきなのかを思い至った民衆は、一人、また、一人と王城へと向かいだした。それは続々と群れを成し、大勢の群衆が夕闇迫る王城に向かって、ぞろぞろと無言の行進を始めた。長蛇の列に、やがて、ぽつり、ぽつりと松明の灯が灯る。
「……なあ、ザイン」
「ああ」
「我が王は、帰るべき国を失ったな。……国が、民があるというのに、亡国の王と成り果てた」
グラッドの言葉に、ザインは答えない。黙々と王城へと向かう人の群れを彼はただ見つめ続けた。たとえ、戦に勝利し凱旋したとしても、もう、この王都に彼を歓呼して迎える民はいないだろう。
ザインは背後の大門を振り返った。その外の、さらなる先へ、戦地に向かう王へと問いかける。
王よ、あなたは、いったい、どこの、誰の、王なのか、と。