第6話
長年、グレイスタの精霊祭殿に仕えてきた高位の司祭であるアルバートは、不意に祭殿内に異様な精霊力の揺らぎを感じ取った。こんなことは初めてである。
「アルバート司祭。精霊が異様に騒いでおりますが、これは、いったい……?」
同じく祭殿に仕える上級術士ストラも、彼と同じように首を傾げた。
「お前も感じ取ったか。大方、見習いの卵どもあたりが、術の失敗でもしたんじゃないか?」
ルオンノータルにおいて、術士となるのに不可欠な精霊と「語る」素養を持つ者は、希少である。そのため、素養を持つ「語る者」は小さいうちから、半ば強制的に親から引き離され、各国の祭殿などで養育される。彼らのいう見習いの卵というのは、まだ、術士とは呼べぬ幼い語る者たちのことだった。
「でも、それにしては、大きすぎやしませんか?」
「うむ……」
二人はますます首を傾げる。確かに見習いの失敗にしては、蠢く精霊力が大きすぎた。祭殿の大広間に立ち尽くし考え込む二人に、突然の衝撃が襲う。
ドォォォン。
地鳴りを思わせる音と振動とともに、猛烈な強風が大広間で荒れ狂う。凄まじい風の奔流に晒され、絵画や燭台といったものが吹き飛ばされる。術力で身を守る暇もなく、二人は頭を抱えて床に身を伏せた。
「な、な、なんなんだ、いったい⁉」
「私だって、わかりませんよ!」
アルバートとストラが混乱する中、風は唐突にピタリと止んだ。伏せていた二人が恐る恐る立ち上がった先には、何十人もの人々が忽然と姿を現していた。
アルバートとストラは、口をあんぐりと開け、次に、ごくり、と唾を飲み込んだ。とんでもない事態が起こっていることに驚愕し、そして、彼らは即座に理解したのだ。
空間転移術。
この異常な事象を起こしたのは、おそらく、この術だろう。しかし、空間転移術は、かなり高度で、使役するにあたってもいろいろと制限のある危険な術だ。ましてや、これほどの人数を伴って跳ぶことなど常識ではあり得ない。こんなことを成しえるには、いったい、何人の術士を必要とすることか。
「アルバート司祭」
現れた人々の中から、自分の名を呼ばう者を見出した彼は、目を丸くした。
「王女殿下⁉」
亜麻色の髪の美しい王女は、切迫した表情で彼に命ずる。
「この都の存亡にかかわる事態が起こりました。至急、残っているすべての術士をここに集めなさい!」
一瞬、何かの冗談だろうか。とアルバートは思った。しかし、王女はそんな冗談をいうような性格の持ち主ではない。最初の驚愕が冷め、冷静になってきたアルバートの表情が、にわかに険しくなる。
「冗談にしては度が過ぎるお言葉ですな。それに、後ろにいるのは、陛下によって投獄された者たちではございませんか。……ご説明次第では、警備の兵を呼ばねばなりませんよ」
アルバートの背後で、ストラが、じり、と扉の方へと後退去る。緊迫した空気が流れる中、凛として涼やかな第三者の声が響いた。
「時間がないのです。アルバート司祭、協力をお願いしたい」
後ろの人垣の中から現れた黒髪の青年に、アルバートはまたしてもポカンと口を開かざるを得なかった。
いったい、今日、俺は何度驚かされるんだろうか。呑気にも、そんなことを考える。彼は以前、光皇即位の祝辞を述べる使者の一人として、聖天の城に赴いたことがあったのだ。この神の現身のごとき青年の御姿を見間違えるわけはなかった。
「ラ、ラグナノール光皇陛下……⁉」
聖天の城の主に、慌てて伏礼しようとする彼を光皇は静かに制し、真摯な想いを翡翠の瞳に込めて語る。
「アルバート司祭、この地に魔獣の災厄が訪れました。これ以上の被害の拡大を防ぐために、私は火の浄化術を王都全体に施します。そのため、熱病のような症状を訴える病人が数多く出るでしょう。……特に症状の重い者は、身を灼かれるような苦痛を味わいます。彼らの苦痛を少しでも和らげるよう、術を施していただきたい」
美しい顔を憂いに染めて、これから起こる惨事を語る光皇に、アルバートは、再び、ごくりと息を飲んだ。頭が事態を受け止めるまでに、しばしの時間が必要だった。
やがて、理性は事態を理解はしたものの、感情がついていかないアルバートは、光皇に反駁しようと、何度か口を開いては閉じを繰り返した。が、どれも、この恐るべき事態を払拭するに足るものではなかった。そうして、何度かの逡巡を繰り返した彼は、ついに、ため息を吐き出した。
「……承知いたしました。この祭殿を病人たちのために開放いたします。病人たちをお連れ下さい。出来る限りのことをいたしましょう」
打ちひしがれたように頭を下げる司祭の姿に、光皇の顔も切なく歪む。そんな辛い気持ちを断ち切らんとするかのように、彼は勢い良く天を仰ぎ、しなやかな両腕を高々と掲げた。
漆黒の艶ある髪がふわりと舞い、王冠のごとき聖光の紋章がキラキラと白銀の光を強める。それは実に幻想的で美しい光景だったが、この後に起こるであろう災厄を知る人々には、何の感銘も与えるものではなかった。
光皇の力に惹かれた火の精霊力が急速に集う。徐々に精霊の力が高まるにつれ、真夏でもひんやりしているはずの祭殿内の空気が一変する。まるで鍛冶場の溶鋼炉が口を開いたかのような、むっとした熱気が辺りに満ちる。
温度は留まるところを知らぬかのように上昇し、誰もがあまりの暑さに耐え難い思いをし出した頃、光皇の掲げた手の先に、真紅に輝く球体が姿を現した。
出現した球体は、辺りの熱気を勢いよく吸収してその身を増大させると、巨大な火の玉となって、くるくると光皇の頭上で渦を巻く。やがて、真紅からさらなる高温を示す真白の輝きへと変化した球体に、光皇が厳かに語りかけた。
「……行くがいい。貪欲なる魔獣の仔らをお前の力で浄化し、無に還せ」
その刹那、青白い球体は祭殿の遥か上層に飛び上がってぱちんと弾け飛び、光輝く破片となって四方八方へと飛び散った。破片は、その場にいた者たちの身体にも飛び込んできた。避けることもできずにそれを受け止めた人々は、一瞬、全身がカアッと熱く灼けるような、言いようのない感覚を味わった。
「術は完成しました。数刻もしないうちに、熱病の症状を訴える者が出始めます。祭殿の門を開放し、病人を祭殿に集めるよう、街に伝令を放って下さい。早く対処しないと、不安に駆られた人々が暴動を起こす恐れがあります。……アルバート司祭、城壁の大門に一番近い門は?」
「……み、南門、ですが……」
「そうですか。ディセルバ、南門を開放するのを手伝ってあげて。エメイア王女、あなたは王宮の人々の説得を……」
術を施した後は、無表情のまま、ラグは淡々と指示を出す。
ズキン。
突然、鋭い痛みが、ラグの額に走った。思わず額を押さえた彼を、カイルが覗き込む。
「どうした、ラグ?」
「……なんでも、ない。…………っ!」
言い終わらないうちに、さらに強い痛みが彼を襲う。限界だ。痛みの意味を、彼は理解していた。齢千年近くを数える大物の魔獣倒したうえに、王都全土を覆う高度な術を施行し、体を酷使し続けている。が、しかし。
ここからが、正念場だと言うのに……!
ラグはぎり、と奥歯を噛みしめた。何故、今なんだ!悲鳴を上げる己の身体を怒鳴りつけたい衝動に駆られる。が、体はすでに彼の制御を外れ、痛みと猛烈な眠気でもって、彼から身体の主導権を奪い取ろうと牙を剥く。
「兄貴!ラグの様子がおかしい!」
「カイル!」
言うな!そう言おうとした彼の足が、がくっと崩れ落ちた。しまったと思うも、受け身も取れずに床に倒れそうになった彼の身体は、いきなり、ふわっと宙に浮く。見れば、物凄い形相で睨みつけるディセルバが、彼を抱きかかえていた。
「また、無茶なことしやがったな、このバカ!」
「うるさい。下ろせ、ディセルバ。これからが大変なのに、このくらいのことで……」
「黙れ!……カイル、メイメイ、ついて来い!」
頭ごなしに己の主君を怒鳴りつける聖天騎士に、誰もが目を丸くする中、それらすべてを無視したディセルバは、カイルとメイメイの二人を伴って、大広間を後にした。