第4話
灰色の重苦しい石壁に囲まれた殺風景な牢内は、そこに閉じ込められた人々の心を反映するかのように、石壁の色以上に陰鬱な暗さに満ちていた。
カツン、と軽い靴音がして、幾人かが顔を上げ、地下牢の入り口に目を向けた。
牢内の色彩とは対照的な、明るい色彩が目に眩しく映り、彼らは目を細める。牢の乏しい灯りの中でも映える滑らかな光沢を持った薄桃色のドレスから、さらさらと衣擦れの音がする。
「……ここまでで良い。下がりなさい」
「は、いえ、しかし……。……承知いたしました」
抗議する見張りの兵を、目線一つで押し黙らせた来訪者は、亜麻色の美しい巻き毛をふわりと揺らして、牢の方へと振り向いた。
亜麻色の髪と薄い水色の瞳の華麗な美女が、牢内の一人の人物にひたりと視線を据え、若く美しい顔を悲哀に満ちたものへと変えた。
「エメイア様……!」
ラドリアス王シグムントのたった一人の肉親である妹姫エメイアは、自分の名を呼んだフォレスを深い憂いを含んだ瞳で見据える。
「フォレス、兄上を裏切るなんて、どうしてそんな愚かなことをしたの?あなたとは意見の違いで良く衝突したけれど、兄上はあなたの忠義と才能を高く買っておられたのに……」
フォレスが口惜しげに唇を噛んで、顔を俯かせる。彼と彼女は長年に渡って密かに想いを温め合い、昨年、ようやく王に認められて婚約を交わしたばかりの仲であった。
その愛しい彼に、兄王だけでなく、王家の一員である自分もまた裏切られたと、身を切られるように切ない心情をありありと表情に露わにする王女に、フォレスは大きくため息を吐いた。
「エメイア、あなたを裏切ったのでは決してない。私は、民を犠牲にしても戦をしようとする王のお考えに、どうしても賛同出来なかったのだ」
「民を犠牲にする……?この戦争は、民に利益をもたらすはずではないの?」
王シグムント中心に回るラドリアスであれば、女のエメイアに知らされること、できることは限られている。もちろん、今回のことは、彼女は何も知らされてはいなかった。しかし、彼女は暗愚ではない。事の重大さを知った途端、顔を蒼白にして慄いた。
「なんて、恐ろしいことを……!兄上は戦に勝ちさえすれば、多少の犠牲など、民の心などどうにでもなると思ってらっしゃる。御自分の名声も、新しく豊かな領土も手に入り、民の心も掴めると。……でも、人の心はそんなに単純ではないわ。そうでしょう、フォレス?」
無言の肯定を返す男に、不安をますますかき立てられた王女は、牢の鉄柵に縋りついた。
「こんな時に、あなたは牢の中で身動きが取れないなんて。私はどうしたらいいの?兄上は怖い方。御自分を否定する者に、決して容赦はしない方。私では、到底、兄上を止めることなど出来ない……!」
柵越しに王女を強く抱きしめたフォレスの姿を眺めつつ、ディセルバは、やれやれとため息をついた。こっちは冷たい鎖の抱擁に甘んじてるってのになあ……。美女に寄り添うフォレスを少し妬ましく感じながら、辺りを伺う。見張りは少ない。今なら、やれるか?
「力がなくたってやれることはありますよ。とりあえず、ここから解放してもらえると一番ありがたいんだが」
頑丈な鎖にぐるぐる巻きにされている大男に気づいたエメイアが、ぎょっとした顔をする。
「あ、あなたは?」
「光皇陛下の一の騎士、聖天騎士ディセルバ殿にございます。……王女、騎士殿の申す通りでございますぞ。我々の出来る限りのことをいたしましょう。魔獣を倒し、王が二度とこのような愚挙を行わぬよう諫めねばなりません。それこそがこの国の臣たる我らに科された最低限の義務でございましょう」
老大臣の言葉に、ディセルバがニヤリと笑う。嘆いてばかりの他力本願の連中の気持ちが変わり始めている。どうやら、風は吹き始めたようだ。
聖天騎士の満足そうな笑顔と、決意に満ちた婚約者の顔とを見つめていた王女もまた、決意に満ちた真っ直ぐな瞳を大臣に向けた。
「……わかりました。では、急がなくては。そろそろ見張りの兵が戻ってきて…………きゃっ!」
王女の言葉は最後まで続かなかった。地下牢ではあり得ない、猛烈な突風が突如として、ゴウッと音を立てて牢内に吹き荒れる。吹き飛ばされそうになる王女の細くたおやかな体を、フォレスが庇って、柵越しにしっかりと抱き込んだ。
「ラグ……⁉」
常人以上の鋭敏な感覚で、猛り狂う強風の中にラグの嗚咽を聞き取ったディセルバが声を上げた。と同時に、彼の身体を戒めていた重厚な鋼の枷や鎖が、鋭い音とともに不可視の力によって打ち砕かれた。
破壊現象はそれだけに留まらず、周りの牢の柵さえも、ガラガラと脆く崩れ落ちていく。落ちかかる破片に皆が恐れをなして悲鳴を上げ、身を伏せた。
「ラグ!落ち着け!力を抑えろ‼ここの連中に怪我をさせる気か!」
荒れ狂う超常現象の源であるはずの、未だ姿を現さない青年に向かって、ディセルバはやや本気の怒声を張り上げた。その声に、強風は現れた時と同様に、何の前触れもなく、ピタリと収まった。
そして、風が吹き過ぎた後、強烈な光を放つ紋章陣がディセルバの目前に姿を現すと、黒髪の青年と二人の少年少女が忽然と現れた。
「……え、え、どこだよ、ここ。あれっ?あ、兄貴⁉」
「……ここ、どこ?」
突然にラグの術に巻き込まれた二人は、何が自分の身に起きたのか、さっぱりわかっていなかった。その様子に、ディセルバの表情が一気に険しくなる。
高度な術を不安定な精神状態で使用すれば、暴走してとんでもない惨事を引き起こしかねない。下手したら、カイルとメイメイは、見知らぬ空間に放り出されて大怪我を負った可能性だってあるのだ。
「ラグ!お前、何を考えて……!」
「ディセルバぁ……っ!」
危険な真似をしたラグを叱ろうとしたディセルバに、ボロボロと涙を流すラグが飛び込み抱きついてきた。彼はそのままディセルバの広い胸に顔を埋めると、肩を震わせ、声を殺して泣き続ける。
「……カイル、何があった?」
感情の昂っているラグに事情を聞くのは困難と判断したディセルバは、傍らに来たカイルに問う。
「俺にもよくわかんねえんだよ。地下にいた魔獣をラグが倒したんだ。跡形もなく消し去って、それで終わりだと思ったのに、ラグが変なこと言いだして泣き出したんだよ」
「……変なこと?」
しがみつく青年の身体が、ビクリ、と怯えたように震えた。カイルもまた言いにくそうにメイメイと顔を見合わせる。魔獣を倒したと聞いて喜色を浮かべた人々は、その様子に不穏なものを感じて、彼らの次の言葉を息を潜めて待った。その視線をちらちらと気にしながら、メイメイが重い口を開いた。
「……このままじゃ、この都は滅びる。それを止めるために、ラグが大勢の人を殺さなくちゃならないって」
明るい蜜柑色の髪をした踊り子に全くそぐわない残酷な言葉に、ラドリアスの人々の表情が一斉に凍りついた。
「ラグ⁉どういうことだ、おい!」
ディセルバはしがみついていたラグを引きはがし問いただすが、彼は両手で顔を覆い泣きじゃくるばかりで、何も答えようとしない。
まるで小さな子どものように泣く光皇の姿を、焦燥に駆られるラドリアスの人々は、苦い思いで見つめる。脆弱。そう光皇を表現した王シグムントの言葉が脳裏をよぎる。
成人をとっくに越えた二十歳近い男が、なんとも女々しい姿を人前に晒すことか。これでは、脆弱と罵られようと、返す言葉もない。誰知らず、失望のため息が方々から漏れた。
「……子どもが、泣いているわ」
「エメイア様?」
彼女の呟きを不思議そうに聞き返す婚約者に、彼女はふふと笑って、身を守ってくれた彼の腕をそっと解くと、ゆっくりと立ち上がった。