第2話
地下の空間に広がる都市遺跡のさらに奥、暗闇の最果てに、それは、静かに、ひっそりと、恐怖を伴って息づいていた。自らが吐き出した糸を幾重にも重ねて形作られた巨大な白い繭に包まれた何かは、まるで、巨大な蝶か、蛾の蛹を連想させる形をしていた。
繭自体はピクリとも身動ぎをしないが、胎内からは鼓動とも胎動ともつかぬ、ドクン、ドクン、と不気味で規則正しい音が、地下の静寂の中に伝わっていく。
真っ暗闇の中、ぼうっと闇に浮かび上がるようにして、やんわりと光る白い繭の周りでは、繭を形成するものと同じものが絡み合い、太さと強度を増した触手となって、その一つ一つが明確な意思を伴うかのように、不規則にざわざわと揺らめき、のたうち、蠢いていた。
巨大で不気味な異形を目の当たりにしたカイルとメイメイは、恐ろしさにがくがくと身を震わせ竦ませる。彼らは決して臆病ではない。が、人間という種に長き渡って血と身体に刻み込まれた、捕食者たる魔獣の恐怖に抗うことなどできはしなかった。
「カイル!メイメイ!伏せて!」
魔獣との戦闘は、ラグのこの叫びによって火蓋を切られた。恐怖に固まってしまった二人を、襲い来る触手の大群から庇い、ラグは彼らを地面へと咄嗟に押し倒す。そして、そのまま、間髪入れずに、触手に向かって伸ばした手を一閃させる。手前まで迫っていた触手の群れは、光皇の術力によってバラバラに両断され、地面に落ちる間もなく、光の粒子と化して消えていく。
「……凄え!」
これなら、絶対に勝てる。一瞬にして無数の触手の群れを消し去ったラグに、化け物の存在感に圧倒されていたカイルが、恐怖も忘れて、思わず叫んだ。小躍りせんばかりに喜色を浮かべるカイルに対し、しかし、ラグの翡翠の瞳からは、依然として険しいものが消えていなかった。
「まだ、これからだよ、カイル。もう次が来てる」
あれほどの触手を消し去った後だというのに、白い繭を中心に蠢く触手たちは、怒りに身悶えるように激しく身体を揺らめかせ、彼らの許へ、カサカサ、ガサガサと不気味な音を従えて迫る。ラグはそれを躊躇なく消し去るが、その度に、次々と新たな触手が現れる。まるで、あの巨大な繭の蛹が、無限に触手を生み出しているかのようだ。
「どうするの、ラグ!このままじゃ、キリがないよ!」
幾度となく繰り返されるラグと触手の攻防に、メイメイが悲鳴めいた声を上げた。いくら光皇だと言っても、こんな細身の青年が、いつまでもこんな攻防を続けられる体力があるわけがない。
それを証明するかのように、ラグの呼吸は明らかに荒くなり、額からは大粒の汗が浮き、一筋、二筋と汗が伝っていく。
ここまで、力を溜め込んでいたとは。ラグ自身も己の誤算に気づき、魔獣の意外な強さに驚きと焦りを覚えた。だが、今、ここで、奴を倒さねば、もっと、犠牲が出る。人々の悲しみが、地に満ちる。
そんなの、嫌だ。そんなの、絶対に……。ぎゅ、と我知らず握られた手を、カイルがぐっとつかむ。
「無茶すんな!俺たちも手伝うって言ったろ!」
「そ、そうよ、ラグ。まだ、あの繭に一歩も近づけてないのよ!無茶しちゃだめ!」
「……でも」
ラグは逡巡する。二人の厚意を嬉しく思う気持ちと、危険なことに巻き込みたくないという気持ちの狭間で。
「でも、じゃねえよ!俺たち、仲間だろ!」
「…………仲間?」
「そうだよ!一緒に、魔獣を倒すって約束したじゃんか!」
嘘だ。僕の手をつかむ震えるその手が言っている。魔獣が怖いと叫んでる。……けど。仲間。僕を仲間と言った気持ちは本当。人間ではないと気付いてもなお、僕を仲間と呼ぶ気持ちは、本物……。
なんとも言えぬ温かい感情が全身を駆け巡り、すべての感情を凌駕する。そして、彼は、決意した。
「カイル」
「お、おう!なんだ?」
「少しの間でいい。あいつの注意を惹きつけてくれる?メイメイは僕の側にいて、僕が術力を溜める間、あいつを近づけないようにして。……できる?」
カイルとメイメイは、ラグの言葉に力強く頷いた。が、その手の平にはじっとりと汗が滲む。それをラグに悟らせないようにして駆け出したカイルの背中を、メイメイの声が追いかける。
「カイル!へましたら承知しないからね!」
「わかってるって!メイメイこそ、ラグを頼んだぞ!」
「任せなさいよ!あんたより、うまくやるから!」
威勢よく飛び出す言葉とは裏腹に、彼女の声には心細さと恐怖が滲んでいた。
「……ごめんね、メイメイ」
力が足りないばかりに、彼らを窮地に追い込んでいるラグは、声を沈ませる。落ち込む彼に、メイメイは無理矢理、笑顔を作ると、腰の帯に手挟んであった短剣を取り出して、ラグを守るようにして構えを取る。
「悪いと思うんなら、さっさと力を溜めて、あいつを倒しちゃって!あたしたちには、まだ、王様を懲らしめるっていう大事な仕事も残ってるんだから!」
メイメイらしい精一杯の励ましを受けて、ラグは瞳を閉じ、両手を正面に掲げ、精霊への呼びかけを開始した。
一方、触手と対峙したカイルは、奴らの一歩手前で足を止める。そうして、腰を落として構えを取ると、ゆっくりと腰の鞘から剣を引き抜いた。
彼の手の震えを受けて、魔獣から発するぼんやりとした白い光に、刃の輝きがちらちらと光っては揺れる。まるで、俺の怯えてる心そのものだ。カイルは他人事のようにそう思った。自分から志願したこととはいえ、怖いものは怖い。なんせ、実戦なんて初めてだし、それが魔獣ならなおさらだ。
何度も光皇の攻撃に晒されてきた触手が、目の前に飛び出してきた少年にも警戒したものか、少年の頭上高くに伸びあがったものの、躊躇するかのように空中でうねうねと身をくねらせる。
それをじいっと見上げるカイルの脳裏に、ここ数日、心と体とに刻み込まれたディセルバの教えが浮かび上がる。
戦士の心構えを教えろって?そんな小難しいものはねえよ。本当に必要なのは……。
教えるのは面倒だ、と言いながら、その実、嬉々として彼の相手をしていたディセルバの顔が浮かぶ。次の瞬間、ぱっと目を見開いた彼は、襲い掛かってきた触手を、熟練の曲芸師のごとく、ひらりと躱すと、それに向かって痛烈な斬撃をお見舞いした。
痛手を与えられたかを確かめる間もなく、休息は終わったとばかりに、次々と攻撃を繰り出し始めた触手を、少年はひらりひらりと軽快な足運びで躱しては薙ぎ払う。
「……数多くの経験と、一握りの勇気、か」
流石、兄貴。かっこいいこと言うよなあ。ちょっと似合わねえけどさ。触手の波間を掻い潜り、カイルはニヤリと笑う。身体が軽い。思い通り以上に動く。かつて、触手に怯えて剣を捨て、地下水路を逃げ回った自分が遠い昔に感じられるほどに、今の彼の剣先には迷いがなかった。
まだ、俺には、見せかけだけの勇気しかねえ。だけど、こいつらなんかには絶対負けねえよ。剣先を触手に突き付け、紫の瞳をした少年剣士は、高らかに宣言する。
「かかってこいよ!俺が、いくらでも相手してやる‼」
ざわっ!ざわわわっ‼
怒り狂った触手が幾重にも重なり合って、少年へと一斉に襲い掛かった。