第1話
北上しているはずなのに、残暑の陽射しは相変わらずに苛烈である。むしろ、街道を吹き渡る乾いた風を巻き込んで、一層の暑苦しさで彼を苛んだ。
滴り落ちる汗を拭って、青年は軽くため息をつく。乗っている馬も強行軍で押してきたために、少々バテ気味だった。
「……少し、休むか」
ここまで来れば、あとわずか。目的地に着いたとしても、どっちにしろ、日暮れを待たなくてはならないから、これ以上急いでも、却って待ちぼうけを食うことになる。休める時に休んでおくべきだろうと判断した彼は、街道脇に植えられた大木の木陰に馬を繋ぐ。
馬が落ち着き、辺りの下草を食み始めたのを見て取ると、自らも実用重視の地味な旅用の外套を外して、体中に纏わりついた砂埃をバタバタと払い落とした。ようやくひと心地ついて木陰に腰を下ろし、水筒の水をぐいと飲んだ彼は、その青灰色の瞳で、忌々しくなおもじりじりと照りつける太陽を睨む。
しかし、そんなことで陽射しが和らぐはずもなく、逸る気持ちを抑えながら、仕方なく休むことに集中しようとした。
「一国の王太子が、供も付けずに一人旅なんて、不用心ねえ」
誰の気配も感じなかった大木の後ろから、女の含み笑う声が聞こえた。青年・ジャドレック王太子リュシオンの身体が、砂埃と草とを跳ね飛ばして、そこから瞬時に飛び退くと同時に剣帯から白刃を抜き放つ。
「誰だ!」
含み笑いの声は、ますます高くなって、大樹の後ろから一人の若い女が姿を現した。
「やあねえ。半年も会わないうちに、声まで忘れちゃったわけ?」
ややつり気味の大きな榛色の瞳。初めて出会った頃よりも幾分高くなった背丈。そして、何より、印象的なのは、最後に会った時以上に伸びた美しく靡く鳶色の髪だった。
生意気で心優しい娘は、しばらく会わないうちに、可愛いというよりも、美しいと表現しても差し支えない、少女から乙女へと変貌を遂げていた。
「……なんだ、お前か、シェリル」
口下手な彼は、こういった唐突な出会い方が一番苦手だ。何をどう返していいのか、対応に困る。今だって、綺麗になった彼女に上手い誉め言葉の一つも言えればいいものを、剣を抜き身で持ったまま、皮肉げな笑い浮かべるくらいしかできない。
「久しぶりね、シオン。元気にしてた?あら、また、背が伸びたんじゃない?」
姿は美しく変わっても、彼女の生意気で砕けた口調と気さくな性質は以前のままだ。そのことにシオンはなんだか、ほっと安堵を覚える。
「それを言うなら、お前もだろ。髪なんか伸ばしたから、どこの誰かと思ったぜ」
途端に、シェリルの眉間に皴が寄り、心なしかぷくっと頬が膨らんだ。あれ、俺なんかおかしなこと言ったか?そんなふうにありありと困惑の表情を浮かべるシオンに、シェリルの顔つきはますます不機嫌になっていく。
「……久しぶりの台詞がそれ?変わったのは髪の長さだけかしら?せめて、綺麗になったなとか、色っぽくなったなとかぐらいの社交辞令的なことが言えなきゃ、貴族のお姫様なんか絶対捕まえられないわよ」
「余計なお世話だ!……ったく、お前まで俺の結婚にとやかく言うんじゃねえよ!」
赤子の時に母を失い、幼少期から続いてきた継承問題のごたごた故に、フィルダート公爵をはじめとする屈強な男たちに守られ育てられてきた彼である。そんな環境と元来の口下手も相まって、彼の女性に対する対応の不器用さは、ジャドレックの社交界では有名過ぎるほどに有名であった。また、それを本人も十分自覚しているだけに、図星を指されたシオンの顔も渋くならざるを得ない。
「人のこと言えるか。お前だって姿は変わっても、中身はあの頃の生意気な女のままじゃねえか。きついことをポンポン言いやがって。……おい、それより、お前、なんだってこんなとこにいるんだよ?」
ここは、たまたま休憩するために足を止めたのであって、駆け抜けてしまう可能性だってあったのだ。それなのに、先回りしたかのように、何故、彼女は現れた?彼の疑問に、彼女はキリキリと眉を最大限につり上げることで答えと成した。
「なんでこんなとこにいるか、ですって⁉それは、こっちの台詞だわ!なんて呑気な人なの!あなたを探してくれって泣きつかれたからに決まってるでしょっっ!」
「うお……っ!」
ずかずかと彼に歩み寄り、胸倉を掴まんばかりの勢いで捲し立てるシェリルの剣幕に、たじたじとなったシオンは思わず後退去った。
「久しぶりに王宮に行ってみたら、フィルダートのおじ様が泣きついてこられるんですもの。北方がごたごたしてるから、大方この辺だろうって仰ってたけど、大当たりだったわね」
どうにもじっとしていられず、簡単な書き置きひとつで飛び出してきた彼としては、耳の痛い言葉である。フィルダート公爵をはじめとする、城で大騒ぎをしている面々を思い浮かべて、彼は深いため息をついた。確かに悪かったとは思うが、それにしたって、なにも、こいつを使いっ走りに使うこたあないだろうが……。
「……フィルダートの奴…………!」
いつまでも彼を子ども扱いする後見役に、少々、というか、かなりやる気を削がれた彼であったが、それでもなんとか気を取り直して、彼女に挑むような視線を向ける。
「面倒かけて悪かったが、俺はこのまま帰る気はねえ。フィルダートにはそう伝えてくれ」
「そんなこと、あたしもおじ様もよぉくわかってるわよ。あなたは、一度こうと決めたら絶対に曲げない人なんだから。そうじゃなくって、荷物を頼まれたのよ」
「荷物ぅ?」
彼以上に彼の性格を把握しているシェリルとフィルダートの絶妙な連携に、内心慄きつつ、彼は彼女が指し示す、木の根元に置かれた衣装箱に目を留めた。箱の中を探ると、彼の甲冑だの、王家の軍旗だのが、次々と現れる。
「いつまで一介の傭兵のつもりでいるんだ。いい加減、身一つで勝負するような真似はやめろって、怒ってらしたわよ。あんな良い方、あんまり心配させないで」
「……ああ、わかってる」
一番最後に現れた、国の至宝たる神剣ガンダルヴァを見つめるシオンは、それを強く握りしめた。彼の後見役、剣の師匠、そして、まだ見ぬ父の親友である男の深い愛情に、感謝を込めて。
そんなシオンの様子を羨ましそうに見つめていたシェリルの声が、ふと、悲哀を帯びる。
「……シオン。あたしもあなたにお願いがあるの」
「……ラグになんかあったのか?」
今にも泣き出しそうな彼女の顔。それだけで、シオンにはわかる。出会った時から、彼女は意志の強い娘だった。滅多なことでは決して泣かない。どんな絶望的な状況でも、絶対あきらめずに活路を見出す、そんな娘だ。一番長く旅をともにしてきた彼は、それを誰よりも知っている。
彼女が泣くのは、たったひとつのことだけ。
ルオンノータルの聖女たる彼女の最愛の養い子、光皇ラグナノールに関することだけに、彼女は涙を流す。
「まだ、よくはわからないのだけど、ラドリアスであの子が嘆くようなことが始まっているのは、確かだわ」
聞いた途端に、シオンが鋭く舌打ちをする。
「ちくしょう、また、ラドリアスか!シグムント王め、何を企んでやがる。……わかった。俺は何をすればいい?」
大木の木陰に佇む二人の男女は、真剣な眼差しで語り合う。やがて、彼に頼みごとを伝えた彼女は、ふわりと微笑んで礼を言うと、光の紋章陣を駆使して、空間転移の術を行使し、彼の知らぬどこか、虚空へと姿を消した。
術力の影響で、彼の周囲に寸時、荒々しい一陣の風が吹き抜ける。強い風に淡い金の髪を弄られながら、シオンは彼女が去っていった虚空の彼方を、しばしの間、見つめ続けた。