第1話
日もとっぷりと暮れ、空に浮かぶ二つの月の光すら押し包まんとする暗闇が辺りを支配し、冷たい風が吹き過ぎる頃、閑静な貴族の邸宅が立ち並ぶ一角で、子どもたちの嬌声が響き渡った。
この場所、この時間にあり得ぬ騒がしい喧騒を聞き咎めた門番が、裏門の覗き窓から顔を出し、通りを見回した。
「あっ、こら!お前ら、なんてことしやがる!」
綺麗に形を整えられた灰色の石が整然と並ぶ石畳の道に、赤、青、黄色とけばけばしい原色の染料が無秩序にぶちまけられ、あろうことか、邸宅の石塀や門扉にまでもその被害が及んでいた。
門番の怒声に、染料をぶち撒いていた子どもらは怯むでもなく、逆にケラケラと笑って、尻を叩いたり、手を打ったりして、却って門番を挑発するような仕草を見せる。
「貧民のクソガキどもが……!」
少々痛めつけて、この後始末をつけさせてやる!カッとなった男は、門を開け放って暗くなった通りに飛び出した。それを見た子どもらはさらに甲高い嬌声を上げて騒ぎ立てる。えい、この、と子どもらを追いかけるが、彼らは一様にすばしっこくなかなか捕まらない。
「くそっ、この……!あっ⁉」
子どもらに良い様に揶揄われて怒り心頭の門番の顔に、ビシャッと染料がかかる。それを皮切りに、子どもらは次々と門番に向かって染料をぶちまけ、空き樽を投げつけた。
「ガキどもが、なめやがって……!」
怒りが頂点に達した門番が腰に差した剣を抜き放ち、それを振り回して、ムキになって子どもらを追いかける。潮時だと判断したのか、子どもらはぱっと四散すると、暗闇の奥へと逃げ去っていった。
悪態を散々ついた門番が、衣服を着替えようと慌てて門扉を閉めたのを見計らって、子どもらがひっそりと物陰に隠れて指図していたジョエルの許へと集まってきた。
「お前ら、よくやった」
頭領からお褒めの言葉をもらい、彼らはにいっと笑って返答とした。それにジョエルも笑顔で応じると、門番の目を搔い潜り、首尾よく侵入を果たしたカイルたちが潜り込んだ邸宅の明かりを見つめた。
後は、お前ら次第だぜ。しっかりやるんだな。
声に出さずに声援を送り、アジトへと帰ろうとした彼は、ビクッと動きを止める。頭領に走る緊張に、子どもらもまた、彼に倣って再び暗がりに身を潜める。
彼らがちょうど帰ろうとしていた庶民の街区の方から、物凄い勢いで走って来る男がいる。警備隊の衣服を身に着けたその男は、ザインであった。
慣れ親しんできたその中年の顔に、ジョエルは、しかし、酷薄な笑みを浮かべた。
あのおっさんも、所詮は王の犬だったってことか。
過たずにラウルが囚われている邸宅へと駆け込んでいく姿に、ジョエルは失望するよりも、むしろ納得した気分になる。なるほど、ラウルが捕まったのは、ザインの密告に違いない。
大人ってのは、本当に信用ならねえなあ。姉を僅かな金と引き換えに、貴族の妾にと売り渡した親に失望して飛び出した経緯を持つ彼である。大人への不信感は半端なものではなかった。
そうして、もう一度、貴族の邸宅を振り返る。あのお人好しどももラウルを助けに行ったが、ラウルが本当に密偵でないという保証はないのだ。
「おい、帰るぞ」
まあ、どっちにしろ、俺たちもこれ以上の義理はねえしな。計算高い子どもスリ団の頭領は、ふん、と小馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、夜闇に紛れて子どもらとともに消えていった。
ジョエルたちの助けで、まんまと侵入に成功した一行は、庭園を抜けて屋敷へとひた走る。
「ねえ、カイル、おかしいと思わない?」
「何がだよ?」
「なんで、ラウルは、警備隊の牢とか、王城の牢とかじゃなく、こんな貴族の屋敷になんか連れてこられたんだろう。おかしいと思わない?」
ジョエルの情報を受けて、勢いのままに乗り込んできたが、改めてラグに指摘されると、確かに奇妙な気がした。
「……取り敢えず、兄貴を取り返せばわかるさ!」
もうここまで乗り込んで来ているのだ。ぐだぐだ考えている段階はとうに過ぎているし、考えることはカイルの得意とするところではない。当たって砕けろ、だ!後ろで、メイメイの大きなため息が聞こえたが、彼は聞こえないふりを決め込んだ。
やがて、ほのかな明かりが見えていた屋敷の目の前まで彼らは近づいた。警備の目を気にしつつ、壁にぴたりと身を寄せ、カイルは用意していた鉤付きの縄を、二階のバルコニーの手すりへと器用に絡ませた。
「……随分と、手慣れてるね。カイル」
手慣れたカイルの手つきに、ラグが目を瞬かせる様子に、カイルとメイメイは顔を見合わせて苦笑いした。
芸人をバカにして、約束を破る輩は多々いる。息子の結婚式に芸を披露した一座に金を払わずに済ませようとしたケチな領主の館に、仕込まれた軽業で忍び込み、約束以上のものを頂戴するなんてことは、一座にいた頃はざらにあった。
全く、芸人の一座だか、盗賊の一味だかわからねえ。老曲芸師なんかはよくそんなことを苦笑しながらぼやいていたが、その頃に磨かれた技術が今生きているのだから、世の中、何が良い方に転ぶかわからないものだ。
身の軽いカイルを先頭に、続いてラグ、メイメイと登り切ったところで、巡回の兵士が彼らの真下を通過した。
やばい。
カイルだけでなく、メイメイもラグも冷やりとして体を強張らせた。まだ縄が回収できないまま、風にフラフラと揺れている。激しく鼓動する心臓の音を宥めつつ、彼らは兵士が気付かないことを懸命に願った。それが通じたものか、兵士は縄に気づくことなく彼らの下を通り過ぎていく。
「……よかったぁ」
相次ぐ緊張の連続に、カイルはぐったりとへたり込みたい気分である。
「カイル!ドンピシャだよ、見て!」
窓際の壁に張り付いて手招きするラグの声に、カイルは慌てて窓際へと這い寄った。窓の奥、室内では、いかつい兵士に挟まれ、椅子に窮屈そうに座るラウルと、何人かの男たちが何事かを話しているのが見える。が、窓辺から距離があり過ぎて、話し声までは聞き取れない。
「兄貴!くそっ、何話してるのか、さっぱり聞こえねえ!」
「……僕に、任せて」
苛立つカイルを横に、ラグが窓にこつり、と幅広の革製の額当てをつけた額を押し付けて、瞳を閉じた。
不意に彼らの周囲の音がぐにゃり、とずれた音を立てたような、二人が奇妙な感覚を覚えた途端、室内の声が鮮明に聞こえ出した。
「……便利なもんだなあ」
カイルの素直な感想に、ラグは軽く苦笑を返す。さっそく、彼らは術力から伝わる音を頼りに、窓越しから部屋の中に集中しだした。