第2話
足取り重くフォレス邸を辞し、東地区へと戻って来たザインは、昼でも薄暗い路地の片隅で、なにやら人が言い争う声を聞いた。声を頼りに路地を覗き込んでみれば、黒い外套を頭から膝まですっぽりと包み込んだ人物が、人相の悪い男たちに囲まれて揉めているようだ。
全く、胸糞悪い。ちっ、とザインは舌打ちした。どこの貴族のお転婆令嬢だか知らないが、護衛もつけずにこんな物騒な界隈をフラフラ歩き回りやがって。おまけに、追剥、強姦なぞ平気でやる連中に目をつけられてりゃあ世話がねえ。責任を取らされるこっちの身にもなれってんだ。フォレス邸での不快な出来事も相まって苛々していた彼は、心の中で散々悪態をつき、ここでようやく声を上げた。
「おい、そこで何してる!」
男たちに胸倉をつかまれそうになっていた黒の外套の人物は、彼らが怯んだ隙に、ザインの許へ駆け寄り、その背中へと隠れた。
「助けて!」
てっきり男装した娘かと思っていたが、彼に助けを求めたその声は、涼やかでよく通る男の声音をしていた。ザインの顔と警備隊の制服を目にしたごろつきどもは、大きく舌打ちすると、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
その後ろ姿を苦々しく見送った彼は、匿った相手を改めて見分して、眉間に皴寄せた。深く被った外套の頭巾のせいで、顔つきや年齢などははっきりとわからないが、身に着けているものはかなり高価で、立ち振る舞いもどこか気品漂うものがある。
「……どこの御令嬢、いや、御令息かは存じ上げないが、そんな恰好で護衛もなく、この界隈をうろつくとは、無謀と言わざるを得ませんな」
「は?そんな恰好って……?」
ザインに指摘されても、まだ、よくわかっていないらしい黒外套の人物は、己の格好をきょろきょろと見回す。染めむらのない上等な布を使った漆黒の外套。胸元にキラリと輝く純銀の留め金。誂えたようにぴったりと足に合ったなめし革の長靴。色合いこそは控えめだが、どれもこれも一流の品ばかりだ。さっきのごろつきどもからしたら、足の生えた宝石箱が、懐まで歩いてきてくれたように見えたことだろう。
偶々、ザインが来合わせたからよかったものの来ていなかったら、と思うと、改めて、彼の方がぞっとした。
「送って差し上げますから、早く屋敷にお帰りください。ここは昼間でも物騒なところです。あなたのような育ちの良い者がうろうろしていたら、また絡まれますよ」
「えっ、送る?いや、その、僕、違う……」
「何を言って…………はあ?」
とにかく一刻も早くこの物騒な場から離れて、安全な貴族街へ連れて行きたいザインに対して、外套の人物はしどもどしながらも、伸ばされたザインの手を抵抗するように振り払おうとした。その勢いで、ずるりと外套の頭巾がずれ、初めて、ザインの目と外套の人物の目とが合った。次の瞬間、ザインは呆けたような間抜けな声を出してしまっていた。
祝福の子……!
ルオンノータルの人間を守護するとされる光皇に対する信仰が厚い北部地域では、歴代の光皇の特徴である黒髪碧眼を持つ子どもを「祝福の子」と称して、非常に大切に育てる風習がある。
そのようにして大切に大切に育てた養い子が、長じて光皇になったという、子どもの頃、祭りや祭殿の催しなどで聞かされた古い古い伝説を、ザインはふと思い出した。
さして信心深くもないザインをして微かな記憶を思い起こさせるほどに、外套の人物はその稀な特徴を完璧に備えていた。いや、しかし、それ以上に……!
驚愕にあんぐりと口を開けたザインを気にする様子もなく、十八、九ほどに見える青年は乱れた頭巾を目深に被り直し、そこから見える口元に、照れくさそうな笑みを浮かべて微笑んだ。
「ありがとうございました。人を探して道を尋ねていたら、あの人たちに絡まれてしまって困ってたんです」
高位貴族の風情をしている割に、人に頭を下げることを躊躇う様子のない青年に、却ってザインの方が、いや、そんな、と戸惑う態を晒して、頭を掻いた。
「誰をお探しですか?よろしければ手伝いますが」
「本当ですか⁉ええと、ラウル、という名の傭兵なんです。この辺りにいると聞いてきたんですが」
「……ラウル?」
「ご存知ですか?」
「知っていることは、知っていますが……」
確か、ランセルの話していた、ジョエルが子どもスリ団の頭領に担ぎ上げようとしているらしい傭兵の名と同じである。そんな男とこの光皇と同じ色彩を持つ育ちの良さそうな青年が、いったい、どこでどう繋がるのか、ザインにはその接点がどうにも解せずに首を捻った。
「十週目!よーし、もう、十週しとくか」
「ええっ⁉ちょっと待ってよ、兄貴!」
「たかが走り込み十週でもう音を上げるのか?そんな軟弱な弟子はいらんぞ、カイル!」
「ああっ、もう!いつになったら、剣を持たせてくれるんだよぅ」
朽ちかけた石段に腰を下ろして、情けない声を上げるカイルを叱るラウルに、カイルは口を尖らせた。柔軟体操に、腹筋に、走り込み。この数日、ラウルにやらされているのは体力作りばかりだ。剣なんて一度も握らせてもらえない。
屈辱だ。まるで、懲罰みたいだ。カイルは憤懣やるかたない。しかも、彼の訓練を、ラウルの取り巻きのように後ろでくっ付いて見物しているスリ団の子どもらがくすくす笑うのも、堪らなく恥ずかしかった。
「体力作りはもう十分だろ。もうそろそろ剣の訓練してくれよ!」
そんなカイルを、ラウルは素っ気なく鼻であしらう。
「バカ言うな。戦闘中に大事な剣を敵に向かって放り投げるようなへっぽこ剣士にゃまだ早い。ほら、さっさと十週走って来い」
全く取り付く島のない冷たいラウルと子どもたちの笑い声に、カイルはがっくりと肩を落とすと、仕方なく走り込みを再開した。
メイメイは、壊れた噴水の縁で頬杖を突きつつ、カイルとラウルのやり取りをつまらなそうに見ていた。ここに着いてから、そろそろ五日ほどが過ぎるが、ラウルが当初説明していたように、彼が仕官に向けて動き出す気配が全くない。
それどころか、嫌がっていたジョエルのところに腰を落ち着けて、カイルにこうして稽古をつける日々を過ごしている。
カイルはラウルに構われることを単純に喜んでいるが、彼女はそこまで単純ではない。ラウルに対する不審と好奇心とが、日に日に募る一方である。
いったい、彼は何者なのか。色々と想像をたくましくしてみるのだが、どうにも思いつかない。
「なあ、メイメイ。ラウルさんて、何者なんだ?」
「それは、あたしも知りたいくらいよ、ジョエル」
カイルと張り合うようにして、ラウルに心酔しているジョエルだが、流石に物騒な界隈で子どもたちを率いているだけあって、頭の芯の方は冷えている。身体に染みついた勘によって、ラウルがただの傭兵でないことを嗅ぎ取っているようだ。
「やっぱり、名のある二つ名持ちの傭兵なんじゃないかなあ」
「二つ名持ち?そりゃあ、凄く強いのは確かだけど、でも、それだったら、ラウルの鑑札見た門番が黙ってなかったと思うわよ?」
国民が国から鑑札を発行してもらい身分証明とするように、国々を放浪するはぐれ傭兵もまた、それに代わる独自の鑑札を持っている。
傭兵ギルドと呼ばれる国という枠を越えた独自の私的組織が発行する鑑札である。
傭兵を目指し苦労する後輩らの助けにならんと人情味溢れる引退した元傭兵の親父たちが立ち上げたという来歴ある傭兵ギルドは、皮肉なことに戦乱止まぬ世に受け入れられ、今や世界中に広がり、主に「はぐれ」と呼ばれる単独で行動する傭兵らに仕事や情報を斡旋する組織へと成長した。
現在、「傭兵」を名乗る者は、ほぼすべて、このギルドに登録し鑑札を所持していると言って良い。
さて、この鑑札であるが、その裏面は登録した当初は何も刻まれていない。裏面は、その傭兵が将来活躍するに従い、実績や通り名が刻まれていくことになるのだ。刻まれれば刻まれるほど、傭兵の雇金も高くなり、社会的にも箔がつくので、この制度は非常に人気が出、また、世に浸透した。
特に、裏面に刻まれる通り名は通称「二つ名」と呼ばれ、その傭兵が得意とする技や容姿、成した業績などに基づいて名付けられる。
「実力隠してるのかもしれないぜ?最近は、二つ名持ちって知られると、それに乗っかろうとする連中や蹴落とそうとする連中が多いから、鑑札に刻まないようにする傭兵もいるって話だしさ」
「実力隠して食いっぱぐれるようじゃ、意味ないじゃないの!」
「食いっぱぐれるわけないじゃんか!こんなお宝、平気で俺たちに放って寄越すような人だぜ?」
そう言って、ジョエルは懐から、やや肌寒くなってきた北国の陽射しにそれを翳した。陽を受けてきらりと輝くのは、黄金色をした大きな竜の鱗だった。宿代代わりにしてくれと、ラウルに渡されたものの一部である。
それを目にしたメイメイがおお!と感嘆の声を上げるのに、ニンマリしたジョエルは再びそれを大事そうに懐にしまう。魔獣の爪や牙、鱗などは剣や防具、装飾品の材料として需要が高いが、ものがものだけに入手が困難で珍重されるため、その分、高値で取引される。
おかげで子どもらは、しばらくの間は、危険な仕事をせずに暮らしていけそうだ。
「ガキの面倒は見ないと言いつつ、結局は面倒見てるのよね、ラウルってば」
お人好しの変な傭兵の詮索に飽きたメイメイは、噴水の縁から立ち上がると、うーんと伸びをした。お人好しならお人好しで、それはそれでいい。要は、カイルと自分の害にならなければいいのだから。