ジャドレックにて
ラグナノール戦記第2弾始まります。よろしくお願いします。
まだ、大分残暑厳しい夏の陽射しが照り付けているというのに、熟練の庭師によって丹精込められた木々の瑞々しい枝葉の恩恵を受けた室内は、意外に涼しげである。
壁や床などの装飾はそれほど華美なものではないが、その材質、置かれた調度品類は、最高級のものが設えられており、ここがかなり身分の高い者の私室であることを伺わせた。
その部屋の中央に、二人の青年が、優美な曲線を描く脚を持った白い小さなテーブルに向かい合って座り、静かに茶を飲んでいた。
一人は白金の髪に青灰色の瞳をし、白い軍服風の衣装を着た、気品ある貴族の子弟といった風貌の十八、九ほどの青年で、向かい合ったもう一人は、やや癖のある艶やかな黒髪と、鮮やかに過ぎる翡翠の色が印象的な瞳を持つ、絶世の、と称しても遜色のない美麗な容姿をした同い年くらいの青年であった。
かちゃん。
二人はほぼ同時に口にしていた茶碗を置いた。が、会話は始まらない。それどころか、二人の間には、微妙な緊張感が流れた。
やがて、重くのしかかる緊張感を振り払って、黒髪の美青年が勢い良く立ち上がると叫んだ。
「結婚して!」
「男と結婚するような、酔狂な趣味はねえよ」
さくっと切って捨てるように即答した白金の青年に、黒髪の美青年は、十八、九という容姿にはつり合わない、実に子どもっぽい仕草で、ぷうっと頬を膨らませた。
「僕だって、そんな趣味ないよ。シェルのことに決まってるじゃないか!」
途端に、品良さげな顔つきに似合わぬ剣呑な目つきになった貴公子は、椅子に胡坐をかくように行儀悪く座り直すと、黒髪の青年をじろりと睨みつけて、茶碗の持ち手に再び指を掛けた。
貴公子で通る顔立ちをしている割に、目つきと口が悪い金髪の青年は、この国、ジャドレック王国の王太子であるリュシオン。黒髪の見目麗しい青年は、この世界、ルオンノータルの人々から、神とも崇められる存在の光皇ラグナノールその人であった。
このお互い普通でない地位に就いている二人は、約一年ほどまえに、単なる傭兵と同じく単なる(?)子どもとして出会った。その後、様々な紆余曲折を経て、お互いに相手の素性を知ることになるのだが、それはまた別の物語である。
この二人を引き会わせるきっかけとなったのが、ラグの言う、シェルこと、シェリルという娘であった。
おいしい餌を待つ子犬のように、期待を込めたキラキラした目で、じぃっと返事を待つラグに、短気なシオンはすぐ切れた。
「……ったく、しつっこいぞ、ラグ!最近、ここに来るたんびに、お前が騒ぐから、周りの連中まで、俺に結婚、結婚と騒ぎたてるんだからな!いい加減にしやがれ‼」
結構な勢いの怒声に、しかし、たおやかな風情のラグは怯まない。それどころか、身を乗り出すようにしてシオンに食って掛かった。
「そうやって、超奥手のシオンが現実から目を逸らしてるうちに、シェルが他の人とくっついちゃったらどうするのさ!僕は、そんなの、絶対、絶対、嫌だからねっっっ‼」
「誰が、超奥手だぁっ⁉言うに事欠いて、なんてこと言いやがる、このくそガキっ‼」
二人が激しく言い争い、テーブルをバンバン容赦なく叩くので、テーブルの上の薄い白磁の茶碗が、そのたびに、カチャカチャと悲鳴にも似た抗議の音を立てる。
やがて、頬を紅潮させて、彼を睨むラグの様子に、シオンは深いため息をついた。光皇という、親を持たず、人間とは異なる成長過程で育った特殊な身の上のラグにとって、シェリルは、彼を育て上げた母親、いや、それ以上とも言うべき存在である。
そのせいか、ラグには、長く辛い旅と戦いをともに成し遂げたシオンに、彼女と一緒になってほしいという、強い願望があるのを知っている。
シオンだとて、一緒に旅をし、彼の心の傷から立ち直るきっかけをくれた彼女のことが気にならないわけではない。が、それは好意であって、まだまだ、とても恋愛と呼べるような感情にまでは育っていない。以前、シェリルが言っていたように、シオン自身も今は戦友と呼べる程度の仲でいいと思っているので、結婚なんて考えられない。
「……ラグ、お前、いい加減に親離れしろ。それに、周りが騒いで無理矢理するような結婚なんて意味ねえし、お前だって望んじゃいないだろ?俺のことは、俺の意思で決めるし、シェリルだって、同じこと言うだろうぜ」
シオンに諭されて、ラグも不承不承ではあるが頷いた。そうして、そのまま口を閉じ、椅子に座り直したラグは、しばらく俯いて考え込むような仕草をしていたが、やがて、意を決したように、ぱっと顔を上げた。
「でもね、シオン。今回は、ちょっと訳ありなんだ。……ここから北にあるラドリアス王国って知ってるでしょ?」
「……ああ」
シオンは彼の言葉に、少し眉根を上げると、椅子に座り直した。
「この間、そこの王様から、シェルを王妃として迎えたいって、正式な使者を立てて、僕のところに申し込みに来たんだよ。とりあえず、本人の意思を尊重したいからって、一時の猶予をもらったけど、いずれ近いうちに返答しなくちゃいけないんだ」
遥か神話の時代が終焉を迎えた頃、人間は滅亡の危機に瀕したことがあるという。ただでさえ過酷な自然環境に加え、度重なる大災害、そして、それ以上の災厄である魔獣と呼ばれる獰悪な生命体によって。
神にさえも見放され、もはや、滅亡寸前の人間たちの許に、だが、しかし、救いの手は伸ばされた。それが、光皇と呼ばれる存在である。
光、闇、火、風、水、土の六種の精霊によって形作られる世界の事象を意のままに操ることで、過酷な自然現象を制御し、魔獣を制する力を持つ者。人はいつしかその存在を光皇と呼び、魔獣に追われ、白き月に逃げ帰ってしまったとされる神々に代わる、人間の守護者として敬い讃えた。
何世代も代替わりを繰り返し、世界を、人々を見守り続けてきた光皇は、人々にとって、なくてはならぬ太陽のような、慈悲の光の象徴であった。
その光皇が、六百年ほど前に突如として姿を消した。当時、勃発した聖魔大戦と呼ばれる、世界全体を巻き込んだ災厄と戦乱によって、当時の光皇が行方知れずとなった後、光皇の座は空位のまま、年月だけが虚しく重ねられていった。
その間にも、気象は荒れ狂い、魔獣は大繁殖し、人々は非情な時代を生き残るべく、わずかに残る豊かな土地を巡って、醜い争いに終始した。
そんな先行きすら見えぬ混迷した黄昏の時代に、ラグは次代の光皇となるべく、この世に現れた。その彼を導き、即位に尽力したシェリルは、本人の好む好まざるとに関わらず、今や、光皇を復活させた「救世の聖女」として、世界にその名を馳せている。むしろ、今まで、こういった話が出なかったことの方が不思議なのだ。
「……よりにもよって、ラドリアスとはな」
ラグの話が進むにつれ、シオンの表情が険しくなっていく。
「ラドリアスが、どうかした?」
シェリルの求婚話に驚いてくれるかと思いきや、相手国の名前を気にしているシオンに、ラグは訝しげに顔を傾け、瞳に不安の色を宿した。一方、シオンは厳しい顔つきのまま、独り言のように、ラグに答える。
「……ちきしょう、やっぱり、狙いはこの国か」
「え?それって、どういう……」
ラグがシオンを問い質そうとした時、部屋の扉を叩く硬質の音が届いた。
「失礼致します。殿下、準備が整いましたので、そろそろお出まし頂きたいのですが」
「ベセルド、久しぶりだね!……?どこか、行くの?」
ラグの見知った顔が現れ、一瞬、はしゃいだ声を上げた彼は、ベセルドの装いに首を傾げた。ベセルドは軍装、それも厚い外套付きのいわゆる旅装とされるもので身を包んでいた。ラグの問いたげな視線を前に、精悍で引き締まった風貌の男は、優しい笑みを浮かべた。
「お久しゅうございます、光皇陛下。本日は、閲兵式を終えた後、国境守護の増強のための将兵を束ねて北方へ向かう予定なのです」
深々とラグに敬礼するベセルドに、まだ何事かを考え巡らせていていたシオンは、天井に泳がせていた視線をベセルドへと戻した。
「ベセルド、警戒を怠るな。連中、やはり、戦を仕掛けるつもりらしい。砦のルシャインにも、そう伝えろ」
ベセルドの顔にピリッと緊張が走り、ラグが椅子から飛び上がらんばかりに驚いた。
「戦になるって、どういうこと⁉」
「最近、ジャドレックの北に位置する北方三カ国の動きが、どうも妙なんだ。密偵の報告によると、三カ国が密かに結託して、対ジャドレック同盟を近々結ぼうと画策しているらしい。その中心で動いていやがるのが、ラドリアスだ。そこに来て、お前の話だろ?どう考えたって、ジャドレックに対する挑発だと思わなきゃおかしいじゃねえか」
シェリルだけでなく、シオンの名も光皇復活に貢献した英雄の一人として、世界に知られるようになった。そして、王太子である彼が関わった関係上、ラグが光皇として即位した際、ジャドレックは多岐にわたる支援を行った。
しかし、諸外国、特にジャドレック近くに身を置く西方の近隣諸国は、軍事強国として名を馳せてきたジャドレックと、世界に影響を及ぼす光皇が親しいのを快く思っていない。
この上、王太子であるシオンが、光皇の育ての親である聖女シェリルと結婚でもすれば、ジャドレックは即位したての、まだ年若い光皇の後見として権勢を振るう危険性が出てくる。シオン当人には、その気は全くないのだが、ジャドレックに対する諸国の風当たりは強い。
「まあ、うちは喧嘩っ早い連中が多くて、今まで近隣諸国になにかと手を出してたのは事実だからな。いろいろ悪く言われるのは仕方ねえけど、喧嘩を売ってくるなら、買うしかねえだろ。……じゃ、行くか、ベセルド」
話を切り上げて立ち上がったシオンは、ラグに手を振るとベセルドとともに、部屋を出て行こうとした。
「……僕は、人間のために光皇になったよ。なのに、どうして、人間は戦をやめてくれないんだろう。どうして…………」
無邪気で明るい普段の彼とは、全くかけ離れたラグの昏く掠れた呟きに、シオンが思わず振り返る。そんな彼を、一陣の強風が襲った。片腕を上げ、それをやり過ごしたシオンが、再び室内に視線を戻した時には、光皇の姿はもうそこからかき消え、テーブルの上に残された茶碗のみが、彼の来訪が確かにあったことを告げていた。