僕のメモ帳
歩けば挫折し、進めば苦しくなり、立ち止まれば焦燥感と罪悪感に蝕まれる。ふと立ち止まってネットに目をやると汚職や社会問題の記事がずらりと並んでいる。あと数年もすれば僕も社会人となってこの中で生きていくのだろうか。そう考えると足がすくんでしまう。一体僕たちは何で生きなければならないのだろうか。社会にでるまでに自分の商品価値を必死に高める日々。誰のために生きているのだろう。したいこともなく、ただ人に使われるために自分を磨く。そして社会にでたら使い潰されて、使えなくなったゴミは捨てられる。ゴミの方がましだろう。リサイクルされてまた再利用されるんだから。だが僕たちは物じゃない。減価償却費で計上できないのが人間だ。心に耐用年数があるのなら、一体何年だろうか。それは人によってさまざまだろう、職種や人間関係によっても。性別や性格によっても違うかも知れない。 人は社会にでて、働いて、家庭を持って、次の世代に繋いでいく。これが人の営み。確かに昔に比べたら経済が発達して、物も捨てるほどにあって、豊かになった。けれどこんなに豊かになったのになぜだろう。心が痛い。社会に目を向けると皆しんどそうだ。歯を食いしばって、辛い日々に耐えている人だっている。最近見たドキュメンタリー。そこには優秀な女の子がもし受かっても国立の大学の入学金を払えるかどうかと苦悩して泣いていた。アルバイトで稼いだお金は家計の足しにするために家に入れ、必死に勉強も学校も頑張っている女の子に、社会は冷たい。下を見ればもっと苦しい人がいるから我慢しろ、とか。ネット上ではよく見るが、あまりにも酷くはないだろうか。ポツリと滲みだした被害者の声を、そんな心ない言葉で潰してはいけない。もしかしたら一つの書き込みが、その人にとっては悩んだ末の表現かもしれないし、もしそうでなくても見逃すべきではないと思う。心の叫びに耳をすませると、意外と聞こえてくるものもある。人は共感してくれるだけでも救われる。温かい言葉をかけてもらっただけでも、明日も生きていこうと思えるものだ。あなたは経験がないだろうか。僕は出来損ないの部類なので、死にたいと思ったことも1度や2度ではなかったが、周囲の人の助けや家族の支えのおかげでまだこうして生きていけている。人は生きていれば死にたいと思うことも少なくないけれど、何か思いとどまれることがあれば、きっと人は死なない。後押しされたり、何も生きる理由が探せない人は止まれないで消えてしまう。それはあたかも死という穴の前に柵がないようなものだ。ほんの一言の温かいあなたの言葉がその人にとっての柵になるかもしれない。なにも特別なことばはいらないと思う。挨拶だけでも気にして貰えてるなって嬉しくなる。励ましの一文でもそれは変わらない。ただ人って元気に見えてても元気じゃないっていうことが結構ある。どんなに明るい子でも心っていうのは結構脆い。だから心ない言葉を、どうかかけないであげてほしい。これは僕の実体験だが、陰口されたときの嫌な気分ってなかなか心にまとわりついて離れない。無言でも良い。ただ自分の言葉が持つ重みは良くも悪くも大きいという事を忘れないで。
寒い日が続きますが、体調を崩されませんように 親愛なる諸賢へ