法的にアウトな思い出
まあ。なんていうか。なんというか。
幽霊なのだから、この世に未練のある幽霊なのだから当然なのかもしれないけれども、彼女は現状に満足していないらしい。
そういうことを知ってから数日が経過した。
経過しただけだ。ここでどうにかできるほどの人間ではない。
彼女がどうしたら満足できるのかを考えるのは簡単だし、彼女をどうしたら満足させれるかを考案するのは容易いことだ。
考えることだったら誰にだってできる。
誰だってサッカー選手になりたい。そう考えることはできる。将来の夢の欄に『サッカー選手』と書くだけでいいのだ。帰宅部にだってできる。寝たきりの人間にだってできる。この先短い爺さんでもできる。
考えて願うことなんて、どれだけ簡単なことか。
それに比べて結論付けて、行動に起こして、それを完遂させることはどれだけ難しいことか。
まず結論づけることから難しい。
よし、やろう。ではダメなのだ。
よし、サッカー選手になろう。どうしたらなれるのだろう。ユースに入ったらいいのかな。調べてみよう。
それぐらいして当然だ。
失礼なことだと理解したうえで言うならば、この世の夢見る人間。それのどれだけが自分の夢の叶え方を知っているのだろうか。
見ているだけでは、どうしようもない。
そしてどうやらユースに入れば夢に近づけることを知ったら、今度はその門を叩きに行動を起こさないといけない。
それもまた難しい。
夢のために動く人間は恥ずかしい。夢に向かう人間は現実が見えていない。
なんか、小恥ずかしい。
そんなくだらない理由で人間意外と足踏みを繰り返してしまう。そしてそのまま、足踏みすらやめてしまう。
しかし門を叩くことに成功したものはいる。もちろんいる。いなかったらサッカー選手という職業がこの世に存在しないことになってしまう。安定供給だ。
さあ、門は叩いたぞ。結論付けて、行動をしてのけたぞ。これでサッカー選手になれるんだ。
まあ、なれはしないのだけれど。
そこからは、努力と才能の時間だ。
精一杯努力して、目一杯才能を使う。
夢を叶えることに頑張ることは重要だ。
頑張って、どうにかして、人は完遂することができる。
もちろん、頑張ったら夢がかなう訳ではないけれども。
それでも、頑張らないと夢がかなわないのはたしかだ。
僕の場合、まずそこにまでたどり着けていない。
そもそも、彼女を成仏させるべきなのかも分かっていない。
「楽しんでるしなあ、あいつ」
オフィーリアが楽屋に戻っていったのを目で追いかけてから――壁の向こうに行ってしまった相手を追いかけるのは無理だから諦めて、僕は視線をあげる。
そこにあるのは満天の星。
天井はない。ズタズタでボロボロ。
遥か昔からあるからか当然といえば当然なのかもしれないけれども、この劇場はすべてが壊れていて、すべてが砕けていて、すべてが使い物にならない。
オフィーリアが夢見ていた、その上に立ちたいと思っていた舞台は穴が空いていて、歩くたびに軋む音がする。
彼女の夢の舞台は昔のものであり、記憶と記録のものである。
私は、満足していない。
誰か私を満足させれる人はいないのか!
「満足、かあ」
彼女を成仏させるかさせないか。
彼女の未練を断ち切るか、断ち切らないか。
それを決めるのは多分、僕の役割ではないだろう。
決めるのは彼女だ。
他人の人生――まあ、死んでいるのだから人『生』でもなんでもないのだけれども、それに介入するのはイケないことだ。
結論づけよう。
僕の頑張ることは。
彼女を満足させることだ。
***
ここ最近、何日ぐらいだろう。
一週間ぐらいだろうか。
時間感覚というものは幽霊になってからというもの、なんだか崩れてしまっている。
別に、幽霊は夜にしかでてこないから。とかそういうことではない。
そもそも夜でなくとも、昼でも私はあの舞台の上でスタンバっている。
幽霊というのはいつでもどこでも、そこにいるのだ。いないけど、いるのだ。
だから昼でも夜でもいる。
いないことがあるとすれば、それは『誰も認識していないとき』だろう。
どうやら私は山の麓の街で少しばかり噂になっているようだから、消えたりはしていない。その情報は聞く限り、間違っているけれど。私は女優希望で、死因は事故死ではなくて、自殺だ。
でもたまに、私は女優で舞台公演中に舞台装置に押し潰されて事故死してしまったのではないか。と思うときがある。
観測者によって見た目や性質が変わる。
それはまるで、自意識や自我のないお化けのようではないか。
お化けというか、妖怪というか。
確かに私は、もう幽霊になって久しく、名前とか『自分』を証明するもので思いだせないものも多い。
忘れてしまっている。
未練が残り、この世界に居座り続けている幽霊。ではなくて、ただひたすらそこにいるだけのお化け。
それになる日も近いのかもしれない。
嫌だなあ。それは。
嫌だなあ。と思えなくなるのも、嫌だなあ。
そんな風に考えながら、私は劇場の入り口を見る。数はたくさんあるけど、今はどれも開いていない。閉じきっている。
一週間ぐらいここにやってくる人を見ていない。
あの、管理人の姿すら見ていない。
あまりにも同じことを繰り返しているものだから、もしかしたら飽きてしまったのかもしれない。
どれだけおいしい食べ物でも、さすがにずっと食べ続けていたら飽き飽きするものだろう。
いや、別に私のが素晴らしいとは言わないけれども。おいしいとは言わないけれども。
けれども、マズいものではないとは思っている。多分。うん。多分。
「暇だなあ。暇だなあ。誰か来ないかなあ。誰も見ていない劇に、価値はないんだけどなあ」
舞台を踏む。ギシィという音。壊れている音。
私が立つことを夢見ていた舞台は、時間の流れに則って壊れている。
私が立ちたかった舞台ではあるけれども、私が立ちたかった舞台の姿はもうそこにはない。
なんか……寂しいなあ。
「よいしょっと」
と。
そんなときだった。
立て付けの悪いドアが一週間ぶりに開いたと思うと、管理人が気楽な声をあげながら入ってきた。その手には横一列に並んだ真っ赤の椅子がある。
あれ、あの椅子、どこかで見覚えがあるような。
「いやあ、あれだなあ。これ。見た目めっちゃ軽そうなのに重いんだな」
管理人はそんな愚痴をこぼしながら、私のいる舞台の前にまでやってきたかと思うと、その新品の真っ赤の椅子を適当に置くと、もう片方の手に持っていた工具箱からバールと金づちを取りだした。
「ねえ」
私は尋ねる。
「ねえ、ねえ、ねえ。ちょっと聞いていい。そのバールと金づちでなにをするつもり?」
「なにをするって、これをする以外あるのか?」
管理人は口で説明するのではなく、行動で説明するタイプらしい。
バールの曲がった方を下に向けて、イスの下に潜り込ませるようにする。ボロボロの椅子は触るだけでぐらぐら動くから、潜りこませることも簡単だっただろう。
そのままバールに力をこめて、管理人はボロボロの椅子を、床から引っぺがした。
「わ、わ、わっ」
なにを叫べばいいのかさっぱり分からなくて、とにかく漏れた音を垂れ流すことしかできなかった。
そうこうしている間に、管理人は外した椅子の両隣も引っぺがしていく。
私の、私の舞台が。
私の夢の……っ!
「管理人、なにやってるのっ!?」
「改修工事」
「回収?」
「改修」
作り直してんだよ。と管理人は言いながら、持ってきた椅子を、引っぺがした椅子があった場所に設置した。釘を床に刺して、金づちで叩く。
今更になって気づく。その椅子は──劇場に設置されていた椅子とほぼ同じだということに。
「さすがに同じやつはもう売られてなかったよ。でも、似たようなものは売られてた。だから、買ってきた」
次々に管理人は椅子を引っぺがして、そこに新しい椅子を設置していく。ボロボロで、綿がはみ出していて、どう見ても使えなさそうな椅子が新品同様に、昔見た舞台と同じような姿に変わっていく。
「お前さ、舞台の周りの落書きだけ綺麗にしていたよな?」
額に汗を流しながら、管理人が尋ねてきた。
そりゃあ当然。と私は答える。
「ここが汚されるのは気に入らない」
「どうしてこの舞台の周りだけなんだ?」
「へ?」
「劇場全体じゃあなくて、どうして舞台の周りだけ洗ったんだ?」
「……気になる。それ?」
「すごく」
だって、こういう考え方もできるから。と管理人はあくまでも作業を止める様子はみせることなく話を続ける。
「オフィーリア。お前は『夢の舞台が変わっていく』ことに耐えられなかった」
汚くなっていくことを、ボロボロになっていくことを、壊れていくことを、朽ちていくことを。
我慢できなかった。
耐えられなかった。
だから、落書きを消していた。
それなら、どうにかできるから。
だけど、時間の経過だけはどうしようもない。
幽霊はそこにはいないから、時間の流れの上には立っていないから、自分は変わらない。けれど、夢はどんどん朽ちていく。
悪夢みたいな光景だっただろう。どうすることもできない辺りも、悪夢らしい。
「そりゃあ、満足できないはずだよ。お前が立ちたかった舞台と、この舞台は──あまりにも違いすぎる」
同じ場所にある違う舞台だと、管理人は断言した。
ああ、なるほど。
だから私は、満足できなかったのか。
私が立ちたかった場所ではなかったから。
「だから、改修工事だ」
いつのまにか管理人は舞台の周りの椅子を四列ぐらい新品のモノに変えていた。もうボロボロの椅子を取り外すのは簡単なのだろうか。
「当時そのまま。というわけにはいかないし、全面改修というわけにはいかないけど――」
ボロボロの椅子を四隅に投げ捨ててから、管理人は胸を張るようにして笑った。
「――少しは満足させてやるよ」
「……なに、そんなに私に、成仏してほしいわけ?」
「曰くつきの住宅は高く売れないからな」
管理人は笑った。
ひどい冗談だ。そう思いながら私は笑った。
数日後。舞台は綺麗になった。
とてもとても綺麗で、私は、昔の舞台を思いだした。
***
彼女が現れなくなった楽屋に久々に足を運んでみると、そこには一齧りされたリンゴと、中身がなんなのか詮索したくない瓶が置いてあった。
捕まれというのか、お前、僕に捕まれというのか。
呆れたようにため息をついてから、僕は瓶をポケットの中に入れた。
これは誰にも見つからないように隠しておこう。
これは、僕だけの思い出だ。