満足できない幽霊ども
そんなわけで僕は彼女の人を驚かせる演技の手伝いをすることになった。
ある時はドライアイスを使い、ある時はこんにゃくを投げつけ、またある時はCDを持ち込んで、雰囲気のでる音楽を奏でたり、最近は驚かせることが楽しくなってきて、段階ごとに、伏線を撒き散らして驚かせるようになっていた。
悲鳴をあげて逃げていく不法侵入者たちの背中を目で追って、オフィーリアとハイタッチしたりするのはとても楽しかった。
オフィーリアに触ることができるという事実を知った。話を聞くと、触ろうと思えばモノに触ることはできるらしい。そういえば初めて会った時も瓶を持っていたし、机の上にあるゴミをどかしたりしていたし、そういうことはできるのだろう。
しかしそれでもリンゴとかモノを食べることはできないのは、どうしてだろうか。
ここまできたら食べれてもいいじゃあないか。と思うのだけれども。
「それはきっと、この世界のモノを減らしてしまうからじゃあないのかな」
買ってきたリンゴを見ながら唸っていると、彼女はそんなことを言いながら僕の向かいの席に座った。
「なになに、あんなにも私がリンゴを食べたいのだということをバカにしていたのに、リンゴを買ってくるなんて殊勝なことだねえ」
「いや。そんなやつの目の前でリンゴを食べるのは面白いだろうなあ。と思ってさ」
僕の前で大口を開いて、まるで餌を待つ小鳥のようにしているオフィーリアを前にして、僕はリンゴに齧りついた。
オフィーリアはまるで、三途の川で石を積んでいたら鬼に崩されてしまった子供みたいな表情を浮かべて、僕を睨んだ。そんな風に睨まれても、お前、食べれないんだろう?
「まあ。そうだけどさあ、食べる気分というのもさあ、あるわけじゃん?」
ぶーぶー。と唇を尖らせて文句を言ってくる。
気分でいいのなら。と僕は彼女に少し齧ったリンゴを渡した。
受け取った彼女は、ちょっと齧ったリンゴを見てちょっとうへえ。という表情をしてから、口の中に放り込んだ。
放り込んだリンゴは、彼女の口を通過して、ノドを通過して、スカートの中をくぐり抜けて、そのまま床に落ちた。
「ぎゃーーーーん!!」
オフィーリアは素直に泣いた。
食べてる気分って、やっぱり食べたかったんじゃあねえか。
落ちたリンゴを拾い上げて、僕は首を傾げる。
「どうしてモノを食べることはできないんだろうな」
そんな僕の素朴な疑問に対して、彼女の答えはさきの答えだ。
「まあつまり、この世に存在するモノを、この世に存在しない者が減らしてしまった法則が乱れてしまうとか、多分そんな感じじゃあないかな」
この世に存在しない者。
そういう風に、彼女は自分のことを表現した。
嘘偽りのない、まさしく正しい表現だと思う。
彼女はこの世に存在していなくて、更に言えば、この世に存在してはいけない者なのだ。
未練とやらをはやめに解消して、さっさと天国なりどこかへと、死んだ人間がなすべきことをするべきではないだろうか。
少なくとも。
こんな廃屋で、やってきた人を驚かせることが、彼女のやるべきことではないことは確かだ。
「さて、となるとあいつの未練についてだが……」
幽霊を成仏させる。その行為自体になんらおかしなところはないはずなのだが――ないと思う。おそらくは――それなのになんだろうか。この罪悪感は。
変な感じだ。
そんなことを考えながら僕は、彼女が人を驚かせているであろう劇場の舞台へと向かった。
この劇場がある山を降りた街では、ちょっとした噂になっている舞台だ。
曰く、舞台公演中の不慮の事故によって死んだ女優の霊。だとか。
それを聞くとオフィーリアは腹を抱えて笑った。
私、女優志望だから。この舞台には一度として、劇に参加するという形でのぼったことないから。と転げ回っていた。自虐ネタ。
老朽化しているからか、天井はなくなっていて、そこから見える夜空は山の中だからかかなり鮮明でキレイだ。
ただし、雨が降った次の日はヒドいことになる。一度雨に濡れて、太陽によって乾かされた敗れたクッション付きのイスからする、乾いたばかりの濡れタオルみたいな匂いは、なかなかどうして好かない匂いだ。
しかしここ最近は雨が降っていないし、その匂いはしないだろう。
僕は楽屋から舞台袖に移動すると、そこからオフィーリアを覗きみた。
もし仮に、そこに驚かす相手がいるのなら、生きている人間である僕が現れるのは興ざめだろう。
相手も幽霊を見に、驚いて恐怖しに来ているんだ。
人間を見に来ているわけではない。
言うなれば、お化け屋敷の道中に現れた運営というか。
興ざめも甚だしい。
だから劇場にでていく前には必ず一度は確認する必要性があるのだけれども、今回は珍しく人がいなかった。
夜になると誘蛾灯に群がる蛾のごとく集まってくるはずの、形骸化した飲みサークルの面々みたいな輩はおらず、そこにはオフィーリアがいるだけだった。
星が広がる空を見上げて、なんだか物憂げな表情を浮かべている。
なんだか遠くにいる恋人を思う女性。みたいな感じだ。
話しかけるのが、ちょっと躊躇うレベル。
伸ばした手が、なにを掴めばいいのか分からずにただ動き続けている。
ええと、どうしようかな。そう考えていると、不意にオフィーリアがすうっと目を閉じて、胸元に手を添えた。
流れるように、彼女の口から声があふれる。
「ねえ、あなたはどこに行ったの?」
あなた? どこに行ったの?
もしかして彼女は、誰かを待っているのだろうか。
新たなる事実発覚である。そんなことを考えているうちに、彼女は胸に置いている手をそのままに、もう片方の手を空に向けた。
「私はあなたをずっと待ってる。ずっと、ずっと、ずっと。あの丸い月が、何度もあの空を横断するぐらい」
「丸い?」
はて、と僕は首を傾げる。
なぜならば今空に浮かんでいるのは決して満月ではなくて、三日月だ。下弦の月。
どこからどう見ても、丸くはない。
あいつの目は節穴ではないだろうか。目が腐っているのではないだろうか。まさか幽霊ではなくてゾンビだったのか? それにしては腐ってないけれども。
なんてひどいことを考えていると、オフィーリアが不意に踊り始めた。
左足を軸にしてくるりと体を翻して、ボロボロの舞台に倒れこむ。
よよよ。と、オフィーリアは涙を拭うような仕草をする。
「私はもう疲れました。あなたがもう二度と私の元にやってこないというのなら、私はここで死んで、あなたと、共にいるであろう彼女の元へと向かいましょう」
そう呟いて、彼女はなにかを両手で持つような仕草をした。
それは、なんだろう。
柄を、両手で掴んでいるような。
なんの柄だ?
今の話や、向けている場所――つまりノド――から自然と連想するのは……。
やっぱり。
刃物。
僕は思わず「あ」と声をあげてしまった。
ノドに刃物を突き刺して――ように見えた――蹲っていたオフィーリアは、ぎょろり。と僕の方を向いた。
僕の姿を確認すると、オフィーリアはあんぐりと大口を開けて、あわあわと震えた。
顔が真っ赤だった。
***
かあっと、彼女の顔が赤くなった。聞いてみたはいいが、予想以上に恥ずかしかったらしい。
しかし、どうだった? と言われても別に僕は劇を見て回るような物好きではないわけで、今の演技の良し悪しを語れはしない。
だから、詳しい感想なんてできないのだけれども……。うーん、と一頻り唸ってから、僕は彼女の顔を見やった。
僕の口から出てくる言葉を待っているようだった。期待されている。まあ、良し悪しが判断できるようなものではないのだから、素直な反応をするべきだろう。
「ああ、よかったよ。最後の刃物で自分の首を刺すところとか、鬼気迫るところがあったよ」
「え。あれ持っていたのペンだったんだけど」
「マジかよ」
「刺したのはまあ間違いないんだけど、刺したのは手紙を書くのに使っていたペンだね。それでノドを刺して、手紙の名前を書いたんだよ。真っ赤な文字で、ね」
「呪う気満々だな」
「そりゃあ、自分のもとに帰ってこなくて、他の女のところに入り浸ってる男に向けての手紙だよ? 呪うでしょう」
そういうものなのか?
そういうものなのだろう。
自分の中で自己解決をしてから、僕は自分のミスに気づき、慌ててオフィーリアに謝った。
「ご、ごめんオフィーリア。勘違いしてた」
「謝らなくてもいいよ。別に」
頭を下げる僕に、オフィーリアは手をひらひら振りながら答えた。その表情はなんだかちょっと悔しそうにもみえた。
「私の実力不足ってだけだからさ」
「…………」
「否定してはくれないんだ」
「いい言葉が思い浮かばなかった」
「きみの正直なところ、私は結構好きだよ」
オフィーリアはそう言って、はああ。とため息をつくと、舞台の縁に座った。幽霊なのにある両脚をバタつかせながら、空を見上げた。
「今回も、ダメだったかあ」
「今回もって?」
「成仏」
「…………」
驚いた。
なにに驚いたって、オフィーリアが成仏しようと考えていることに、驚いた。
てっきり、そういうつもりは全くなくて、ずっと幽霊のままくらそうとしているのだとばかり。
「あ。ヒドい。私だってそこまで楽天的じゃあないんだよ」
「いや、幽霊の生活を意外と楽しんでたから、そういうのもありなのかなって」
「考えてもみてよ」
とオフィーリアは言う。
「幽霊っていうのはこの世に未練があるから彷徨ってるんだよ? 明らかなゴールがあるから彷徨ってる。ゴールがないのなら彷徨うというよりは迷う。だよ」
そんな状態だったらもう、成仏よりも除霊されてしまうかもしれないけどね。とオフィーリアは言う。
「除霊された幽霊ってどうなるんだろうね。成仏したらどこにいくのかも分からないのに、恐いねえ」
「札買ってこようか?」
「あれ意味ないから。中身ダンボールだから」
「やめろ」
なんで皆して神社とお寺の商売に厳しいんだ。
「あれは買って気分良くなるためのものだから、意味なんてないよ。みんな大吉に喜ぶけど中身を覚えてないでしょ。気分良かったらいいんだよ。正月には凶をなくしたり、大吉増やしたりするでしょう。本当に効果あるのなら、そんな操作しないでしょう」
「交通安全のお守りをつけている車が事故起こしてたら絶対笑うだろう、お前」
「分かる?」
「分かりたくなかった」
そりゃあね。と彼女はずれ始めた話を修正する。
「私はいま、この生活には満足しているよ。毎日とっても楽しいし、充実している。死ぬ前では考えられないぐらいにね。この舞台を占領できたし、なにより私を見にお客さんがたまにやってくるのもとても良い」
Very very niceさ。
妙に発音のいい英語だった。
そういえば、オフィーリアはどこの国の人間なのだろう。少なくとも日本人ではないことは確かだ。更に疑問を持っていいのなら、この古い劇場が営業していた当初、日本に外国人はいたのだろうか。謎だ。
「だから私は彼らに期待に応えたさ。彼らの見たいものを演じて、演出して、見てもらって、怖がってもらった。楽しかった。充実した毎日だった」
オフィーリアはそれこそ劇のキャラクターのようにつらつらと語る。まるでどこかに台本でもあるかのようだった。
「でもね、ふとした時に、気づいちゃったんだ」
あれ。これは私がしたかったことなんだろうかって。
気づいちゃったんだ。
オフィーリアは両腕を組んで首を傾げる。
その表情は困っているように見えた。
「なんだろうね。これは。人が怖がっている。でもそれは彼らにとって本望なわけだから――幽霊を怖がりに来ているのだから、むしろ嬉しいことなわけで。私はそんな彼らの喜びに貢献しているわけだ。だから喜んでいいはずなんだけど、どうも満足してない自分もいてさ」
というか。私が満足したら成仏してしまうのではないだろうか。
でも私はまだ成仏していない。彷徨っている。未練たらたら。
「つまり」
オフィーリアは今まで一番ハキハキとした声で言う。
「私は満足していない」
「……はあ」
「誰か私を満足させれるものはおらんのか!」
「そんな暴君みたいなことを言われてもな」
困る。
普通に困る。
「お前が満足なあ……」
「とりあえずキセルとそれの中に突っ込むヤ――」
「それ以外で良かったから考えておくよ」
彼女の危なっかしい言葉をかき消すようにしながら、僕はじっくりと考えた。彼女を満足させる。彼女がやりたいことをさせる。
もしもそれが食べ物を食べるとかだったら、彼女はもうどうしようもないことになってしまうんだけれども。
「幽霊は憑依ができるらしいよ」
「絶対嫌だからな」