未練とはつくるもの
「まあ、つまるところ私は死んじゃったんだけど、未練が残っているからここに憑りついている地縛霊なんだ。よろしくね」
祖父と親父が死に、自分のもとにやってきた廃屋--劇場には地縛霊がいた。
名前は覚えていないから、『オフィーリア』でいいらしい。
すっと通った鼻梁に白い肌。
金色の髪を後ろで一回まとめて、背中に流している。
歳は20代前半ぐらいかなと思われる。
少なくとも日本人ではない。
日本の地縛霊なのに、どうして外国人なのだろうか。
「そりゃあまあ、私。ここで死んだから」
僕の表情がどうやら疑問を覚えていることは分かったらしく、オフィーリアはにこりと笑って、自分の足元を指さした。
ここ。
この楽屋の中で死んだのだろうか。
「いいや。向こうにある舞台だよ。あそこで私死んだの」
オフィーリアは鏡を指さした。
鏡の向こうにある――さっき見た舞台。
じゃあ、あの二階の落書きを消したのは、彼女なのだろうか。
「そうだよ。みんなひどいんだよ。私の舞台に勝手に入ってきたと思ったら、落書きしたりして帰っていくんだよ。もう、ひどいよね」
唇を尖らせて、オフィーリアは怒りをあらわにした。
僕は、愛想笑いを浮かべるほかなかった。
確かに人の所有物に勝手に落書きをする輩は確かに怒られても仕方ないし、その落書きを消してくれる彼女はとても素晴らしい道徳観の持ち主だと称賛してもいいかもしれないけれども、しかし幽霊が怒って落書きを消しているというのはなんだか不思議な感じである。
あと、あの舞台はお前のではない。
管理人は僕だ。
彼女に案内されるがままに、楽屋に置いてあるイスに座った僕の前で、彼女は机の上にあるガレキやゴミを払いのけると、ここが一体どこなのか僕に説明してくれた。
ここは彼女がまだ一桁の子供だった頃からある劇場らしい。オーケストラの演奏や劇を上演し、誰もが知るとはいかないものの、知る人ぞ知る劇場として親しまれていたらしい。
とはいえ、やはり、この立地条件や時代の流れからこの劇場も次第に廃れていき、ついぞ数十年前に営業を終了した。
「そして私がここに住みついたというわけさ」
「いや、全然分からない。そこの部分が分からない」
「ここが廃業になる前にここで自殺したのさ」
服毒自殺だね。
服薬自殺でもいい。
彼女は言う。
なにを一体、気楽に話しているのだろう。自殺未遂の話をされるよりもブラックだぞ。
「……この世に残っているってことは、未練があるってことなのか?」
僕はブラックな話題から逃れるように、そのついでに気になっていたことを彼女に尋ねた。
オフィーリアは自信満々に「そりゃあそうだよ」と言った。
それはそうなのか。
当然なのか。
「当たり前だよ。未練が残らない人間なんていない。むしろ残らない人間の方がおかしいよ。粗探しがどの生き物よりも得意なのが、人間だよ」
どんな幸せな人生を送っていたとしても、どこかに未練を残してしまうのが人間なのである。いや、彼女の言い分から考えるなら、こういう方が正確なのかもしれない。
どんなに幸せでも、人は勝手に未練をつくる。
人は、未練からは逃れられない。
「だから今頃、天国とか地獄とかは暇なんじゃあないかな。そんなものが本当にあるのなら、の話だけど」
「幽霊がいるのなら、天国もあるんじゃあないのか?」
「キリンがいたからゾウもいるはずだ。みたいな発言だよそれ」
「うん? ああ。まあ、そりゃあそうか」
天国と幽霊に共通項はない。
天国があるのなら幽霊がいる。というわけでもないし。
幽霊がいるのなら天国がある。というわけでもないか。
「少なくとも私のもとには死神も天使もやってきていないかな」
来るのは、幽霊がでてきそうな雰囲気を楽しんでる人たちだけだよ。とオフィーリアは言った。
その表情は確かに明るかった。けれど、一瞬だけ暗くなっていたのを、僕は見逃さなかった。
気になりはしたけれども、僕はそれを追及したりはしなかった。
「じゃあ、お前の未練ってなんだ?」
僕は尋ねると、彼女は眉をひそめながら笑った。
なんだいなんだい? 気になるのかい気になっちゃうのかい? みたいなそんな表情。
「きみに教える義理はないかなあ」
「ここまで来たら逆に気になるだろう」
「なに。私を成仏させたいの?」
「まあ。訳アリ物件は売れないからな」
この荒れ模様なら、訳アリでも訳ナシでも売れそうにないけれど。
僕が心底疲れた目でねめつけると、オフィーリアは少し考え込むようにしてから。にまり。と見開いたイカれた眼を細めた。
悪だくみを考えたような表情だ。
「リンゴが食べられなくなったことかな」
「嘘をつけ。嘘を」
「嘘じゃあないよ。リンゴが私は大好きでね、でも死んでからもう食べられないのだと思うと、もう苦しくて苦しくて」
よよよ……。とわざとらしく、しなりをつくって泣くマネをするオフィーリアに、僕はじとりと睨む。
「リンゴを食ったら成仏できるのか?」
「私に食わせることが出来るのならね。今じゃあ、薬すら飲めないのに」
「箸をぶっ刺したら食べれるようになるんじゃあないのか?」
「箸?」
オフィーリアは首を傾げた。
枕飯については知らないらしい。僕自身もよく分かっていないけれど。
あれは死人が飯を食べるための儀式だと思っているのだけれども。
違うかもしれない。
「それで、本当の未練はなんなんだよ」
「リンゴは嘘じゃあないよ。本当に」
「じゃあ明日にでもリンゴを買ってきてやるよ」
「やったね。あとおでんとチョコケーキとドーナッツと焼き肉も!」
「未練たらたらじゃあねえか。食欲に餓えまくってるじゃあねえか」
「だってー、ここにいたらなにも食べ物ないんだもの。最初はあったけどさ、人がいなくなってからはどんどん腐っていくしなくなっていくし」
あったかいものが食べたいよー。とオフィーリアは言う。
そもそも幽霊というのは食べ物を食べることができるのだろうか。甚だ疑問である。
「え、なに。あんた食べれないと思ってるのに墓前に食べ物を添えるの? 食べれない相手の目の前に食べ物を置くの? 性格わるっ」
彼女の狂ったような見開いた青い眼は、こういうことを言う時にはすごい効果的な気がする。
机に上半身を乗せるようにして、顔を近づけてくるオフィーリアは口元が笑っていた。
彼女は意外に案外と、人をからかうことが好きなようだった。
いや。幽霊ってやつはそもそもそういうものなのかもしれない。こいつらいつも人を驚かせているしな。
「いま、お前はなにをやってるんだ?」
「いま?」
「そうだよ。幽霊ってやつは、暇を感じない生き物なのか?」
「生きていないよ?」
オフィーリアは首を傾げつつ、青い目で僕を見た。
揚げ足をとるのが好きというか、からかうのが好きというか。
幽霊らしい性格といえばそうかもしれない。
「いまお前は毎日なにをしてるんだって話だよ」
「うん? ここにやってきた人を驚かせたりからかったり」
想像通りな回答が返ってきた。
しかし、そういう彼女の表情はどこか悔しそうな感じだった。
悔しい? 驚かせるのが悔しい?
意味が分からない。だったら、しなければいいだろうに。
「いやあ。最近驚かすネタに面白みがないなって思い始めてさ」
「つまり、マンネリを覚えていると?」
「YES!」
発音のいいイエスだった。
僕の目の前でサムズアップを決めているオフィーリアに、僕は乾いた笑みを浮かべることしかできなかった。
「そんなわけでさ、新しく驚かせる手段を思いついてみたんだけど」
あ、さっきのは自殺したときの再現ね。
さらりと彼女は言ってきた。
服毒自殺。服薬自殺。
僕は衣装とかゴミとか空き缶とか散乱している床の方に視線をうつした。そこには瓶詰めにされたラムネらしきものが見えた。ラムネらしきものは、瓶の中だけでなく床の上にも転がっている。
そのラムネの表面には、ラムネらしくなくアルファベットやら数字やらが刻まれている。
適当に刻まれているわけではないだろう。
睡眠薬。だろうか。
「ダメだねえ。うまくいかない。食べられないしさ、それ」
「体を通り抜けるのか」
「だからリンゴも食べられない」
ハア。とオフィーリアはため息をついた。
本当にリンゴを食わせたら成仏してしまいそうなぐらい、リンゴを推してくるな。
オフィーリアは僕の顔を見やった。
「ねえ。なんか新しい驚かせ方とか思いつかない?」
「幽霊にそんな意見を求められたのは初めてだよ」
いや。幽霊とこうして話していることすら初めてなんだけれども。
そう考えると、なんでも初めてな気がしてきた。
オフィーリアは机の上に上半身を落として、ううー。とうめく。
マンネリを気にして新しい驚かせ方を考えるなんて、幽霊も大変だな。
「そりゃあ普通の幽霊は考えないかもしれないけどさあ。私はこれでも悲劇の幽霊で、女優志望の幽霊なんだから」
芝居には力を入れなきゃね。
と、彼女は言った。
「志望なのか」
「志望さ。私は立ちたかった舞台に死ぬ間際と死んでからしか立てなかったのだから」
彼女は陰のある笑い顔を浮かべた。
僕はどう反応したらいいのか、分からなかった。
だから、ごまかすように。
「まあ。考えてやらなくはない」
と僕は言った。
彼女は僕の顔を見た。狂ったような青い眼は嬉しそうにしていた。
「やったあ。ありがとう演出家!」
「管理人だったり演出家だったり忙しいな僕」
ひきつった笑みを浮かべて、僕は席を立った。足元にあったラムネのようなものを踏みつぶしてしまった。
「そう言えば、これはどうやって手に入れたんだ? 地縛霊ってことはこの劇場からでることはできないはずだろう? もしかして誰か忍び込んできたやつが持ってきたのか? 瓶詰めの睡眠薬なんてものを持ち歩くやつがいるなんて思えないけど――」
「ああ。ここになにか商売しにきた人のバックから盗んだんだよ。いやあ、昔と違って飲みやすくなってるみたいだけど、その分高くなってるのかな。札束がいっぱいあったよ。それにしてもこんなところでわざわざ隠れながら売り買いする必要性なんてあるのかな。確かに後ろめたくはあるけどさ。別に隠すほどのものでもないっていうか。ああ、私はキセルで吸うのが好きかな。量も調整できるし、なにより匂いがいい──」
僕はそれ以上のことは聞かずにさっさと楽屋をあとにした。
じいちゃんが子供だった頃の情勢なんて僕は知らない。聞いてない。