透けている女優
楽屋の扉を開けると、彼女が絶叫していた。
目ん玉が眼窩から飛びだしかけていて、ぐりん。と白目を向いている。白目は真っ赤になっている。
ノドはまるで首でも絞められてるみたいに細くなっていて、大きく開いた口から漏れる声は、甲高くて、女性の声を三オクターブぐらい上げたみたいだ。
「……なにやってんだ?」
開いたドアに手を添えて、僕はノドを殺さんばかりに声を出し続ける彼女に話しかけた。
彼女は僕の姿に気がつくと、声を止めて僕の方を向いた。顔は少し火照っていて、若干息が荒い。表情は元気溌剌というか、幾分かすっきりしている感じだ。
僕の眉をさげた表情を見て、彼女はにこりと笑う。
「発声練習」
「発狂練習じゃあなくてか?」
「そうともいう」
彼女はふんぞり返りながら偉そうに言った。
子供みたいに、目をきらきらと輝かせながら僕に尋ねてくる。
「それで、どうだった? どうだった?」
「薬のきれたジャンキーみたいだった」
「完璧!」
「いいんだ……」
「いいんだよ。私が演じないといけないのは悲劇だからね」
彼女はむん、と胸をはる。
いや。まあ、目をひんむいて絶叫するような悲鳴をあげるのは悲劇ではなくてホラーだと思うけどね。
悲しみよりも先に恐さが先行すると思う。
でも、彼女が今からしようとしていることを考えてみればそれでも間違いはないのだから困る。
彼女が今からするのは、悲劇的なオカルトホラーなのだから。
だから、まあ。
間違ってはいない。
全体的に間違っているような気もしないけれども。
「それじゃあ、本番行ってきまーす」
「はいはい。行ってらっしゃい」
満面の笑みでドアがある方向とは逆の鏡の方へと走っていく彼女に、僕は呆れながら手を振り返した。
彼女はすうっと、鏡の中に入っていった――否、鏡がかけてある壁を通り抜けて向こうにある舞台の方へと向かった。
「はは」
とから笑い。
練習をしないといけないなんて、幽霊も大変だな。と僕は適当に考えた。
***
祖父と親父が死に、僕のもとに幾ばくかの金と一つの物件がやってきた。
遺産分与だ。
おいおい、ありがたいな。物件一つ土地一つなんて、かなりの財産ではないか。しかも土地は広いようだし。
少し田舎のようだが、まあそれぐらいは誤差の範疇だ。
諸々の手続きを終えた僕は、さっそく自分のものになった建物と土地を見るために遠路はるばる山奥に向かった。
電車は通っていない。
一番近くにある駅からバスに乗って二時間。そして一時間歩いた先にある。
その道中。人に出会うことはなかった。鹿と猿には出会った。
この土地にはそれほど価値がないのかもしれない。舗装されていない山道を歩きながら、僕はそんなことを思い始めていた。
こんな山奥の土地の価値。
地下に金銀財宝が埋まっていない限り、それほど高くはないだろう。
ちょっとばかしガッカリしたけれど、それでもそこは僕の土地で僕の建物だ。
どんなモノなのかぐらいは確認した方がいいだろう。
もしかしたら豪邸かもしれないし。話に聞くと、結構昔から建っている西洋風の建物だと聞いている。
募る不安をどうにかごまかしながら、僕はただひたすらに山を登る。
額ににじむ汗を六回ぐらい拭ったとき、木々に囲まれていた視界が急に晴れ、僕の眼前にいかにも西洋風な、木造の建物が現れた。
いや。
これを建物と表現するのは、少しばかり御幣があるかもしれない。
こういうべきだ。
西洋風の廃屋――と。
***
廃屋には先客がいた。
蜘蛛が十数体。ネズミが数十匹。
ゴキブリは見てない。でも多分百はいるだろう。
立て付けが悪すぎて、すでに破壊されている玄関のドアの隙間から廃屋の中に入る。
壁には落書きがされていた。誰か侵入しているらしい。こんな山奥にわざわざやってくるなんて、酔狂な人もいたものだ。ネットを探せばここを探検した動画とかアップされているんじゃあないか?
板張りの床に敷かれているのはカーペットではなくてホコリだ。歩くたびにふわあと広がって、喘息持ちでなくてもセキが止まらない。
ギッ、ギッ。と軋む音。
たわむ板に、床が抜けないか不安が募る。いや、募ったら抜けてしまう。蹴とばしておこう。いやあ、アンティークな雰囲気が素晴らしい。古物商が泣きそうだ。僕も泣きそうだ。
なんだよ、なんだか凄そうなモノが手に入ったから喜び勇んで、仕事を休んでまでやってきたのに、着いてみれば心霊スポットとして扱われていそうなただっぴろい廃屋じゃあないか。
「そもそもここはなんなんだ……」
祖父の言うことには、自分が産まれた時ぐらいからある古い娯楽系統の建物らしいけれど、この落書きだらけの状態じゃあ歴史的価値もなさそうだ。
階段を昇る。横の壁の落書きが途切れる気配はない。
向こうが真っ暗で見えにくくなるぐらい長い廊下があった。横幅はたくさんの人が行き来するのに不都合はない程度に広い。娯楽施設であるのは間違いないらしい。
壁には両開きのドアが規則的に並んでいる。
この向こうには大きめの部屋があるらしい。
落書きは無くなっていた。いや、これは無くなっているというより──。
「拭き消してある?」
よくよく見てみると、薄く落書きをした形跡が見える。こんなところの落書きを、わざわざ消すような酔狂な人がいるのだろうか。親父か祖父のどちらかだろうか。
僕は壁から手を離して、その横にあるドアを手で押した。
硬い。重い。
音楽室のドアみたいだ。
腰を落として僕は、ドアを肩で押す。かすかに、入れるだけの隙間が開いたからそこから入る。
「……へえ、ここは、いいなあ」
そこにあったのは、何十個も並んでいるイスだった。クッション性能は高かったのだろうが、今はほとんどが破れていて、中身の綿がこぼれている。
ここはどうやら広い部屋の二階部分らしい。ロフトみたいな感じの場所だ。
下を見下ろすこともできて、そこからはここと同じように、埋め尽くさんばかりの椅子と、その先に広い舞台と横断幕が見えた。
どうやらここは舞台らしい。
音楽とか劇とか、そういうものをあの舞台の上で演じていたのだろうか。
なるほど、どうして山奥にあるのかと思ったら、防音対策らしい。
この廃屋は木造建てで、防音対策がしっかりしているとは思えない。
だから劇とか音楽とかの大音量対策として、周りに人がいない山奥に造られたのだろう。
「どうやらこんな廃屋でもマトモな場所はあるらしい」
一階にも降りてみようかな。さすがにここから飛び降りるわけにもいかないし、再びドアの隙間から廊下にでて、階段を降りる。さて、どう歩けばあそこの一階にたどり着くのだろうか。あくまでも娯楽施設であったはずだから、それほど迷うようにはできていないと思うのだけれども……。
そう、考えたときだった。
「ぎゃーーーーん!!」
と、泣き声が聞こえてきたのは。
泣き声?
こんな山奥の廃屋でか?
疑問に思ったものの、壁に描かれた落書きをみるに、ここも朽ち果てていてはいるものの、当初の目的とはかなりかけ離れているものの、娯楽施設としての機能を果たしている。
大方、ネットにでもあがった情報を見てやってきたオカルト研究部かなにかだろう。
ここは人の土地で、自分たちがやっていることは人の家に無許可で土足で踏み入ってることだということが分からないのだろうか。
まあ、確かにここが人の家に見えるかといえば、全く見えないんだけど。
声のした方へと向かう。たどり着いたのは、またもや規則的にドアが並んでいる場所。
今度のドアは見た目通り軽そうなドアばかりで、幾つかのドアは壊されていたり、無くなってしまったりしている。
たった一つ。
手前から三つ目のドアだけは。
周りにそぐわないぐらい、綺麗だった。
今度は拭かれているわけではなくて、なにも描かれていない。
そこだけ。その場所だけなにも描かれていないのだ。
まるで、なにかから無意識のうちに逃れているみたいに。
息をのむ。僕はすっと扉に向けて手を伸ばした。
ドアノブを掴んで、開ける。
今までのドアと違って、このドアは面白いぐらい綺麗に開いた。
部屋の中を覗く。小さな部屋だった。この中で暮らすことは全く想定されていない、一次待機のための部屋みたいだ。ドアの位置とは逆にある壁は一面鏡になっていて、その周りを割れた電球が囲んでいる。
どうやらここは楽屋であるらしい。だったらしい。
鏡の前にある机の上には化粧道具が散乱し、床の上には衣装だったりカツラだったり楽器だったりが落ちている。
そんな部屋の真ん中で。
一人の女子が泣いていた。
歳は……恐らく20は越えている。
外国人だろうか。
すっと伸びた鼻梁に、白い肌。
くすんだ金色の髪を後ろで一回まとめて、残ったのを背中の方に流している。
手足は長く、細い。
ついうっかり触ったら折れてしまいそうだ。
でも、なによりも特徴的なのは。
あの青い眼。
彼女がまとっている儚げで、ヒビだらけの水晶みたいな雰囲気と相反するそうな、見開いた眼。狂ったような──眼。
その眼を涙でにじませながら彼女は、手に持っているものを口の中に入れようとしていた。
白い、ラムネみたいなもの。
彼女の足元には、その白いラムネがぎっしり入っている瓶が転がっている。
そんなラムネが売られているなんて、僕は知らなかった。
というか。
あれはどうみてもラムネではないだろう――っ!!
「おまっ! なに飲もうとして──!!」
僕はドアを突き飛ばすようにしながら、部屋の中に押し入った。
しかし、少しばかり遅かった。
ラムネのようなものは何十粒も彼女の口の中に放り込まれて──そのままアゴとノドの間を通り抜けた。
するりと。
まるでそこになにもないかのように。
「は……?」
右腕を突きだした状態で僕は固まる。
ラムネのようなものが床にバラバラと音を立てて巻き散らかされ、彼女の目は再び涙でにじんだ。狂った眼には明らかに不釣り合いだ。
「ぎゃーーーーん!! ダメだあ! これじゃあ驚かせれないよーー!!」
「……なに、言ってるんだ?」
「おや?」
ようやく僕の存在に気づいたらしい彼女が、僕の方を見た。
イカれた眼は、しかし意外としっかりと僕のことをまっすぐ見据えている。
唇を尖らせている。どうやら怒っているらしい。
「ここは楽屋だよ。きみたちが入ってきていい場所じゃあないんだよ?」
「いや。ここ、僕の所有物なんだけど……」
「へ? もしかして、新しいこの舞台の管理人さん?」
「ま、まあ。そうなる……か?」
この土地を受け取ったのは僕自身だし、管理人といえば、管理人になる。
しかし彼女はどうしてここにいるんだ?
どうして。
今から劇に出るかのような格好で、劇に出るかのような語り口調なんだ?
ここが、その役割をすでに放棄していることぐらい、見れば分かるはずだろう。
そんな僕の疑問は、一瞬にして解決する。
彼女は胸の前に手をあてて、自己紹介をしてきた。
「初めまして。私は──あはは。名前は忘れちゃった。もうずっと名乗ってなかったからね。そうだね、オフィーリアでいいよ。ここで、地縛霊をやらせてもらってるんだ」
よろしくね、管理人さん。
彼女はにこりと笑った。
透ける彼女の後ろにある鏡には、彼女はうつっておらず、表情筋をひくつかせている僕だけがうつっていた。