人魚の恋(三十と一夜の短篇第6回)
”ねえ、あなたは覚えてる? 私のこと、私と過ごした夏のこと”
”あぁ、僕は探している。君のこと、君と過ごした夏のこと”
僕の家は、海から車で十分程度のところにある。
しかしきれいな砂浜や、幻想的な景色など見られないので、海水浴客はそこまで多くない。
そのため、僕のような地元の人たちが、夏にはよく海を訪れるのだ。
近くにあるプールといえば、小学校にあるものくらいのもの。普段は解放されていないので、プールに入るには、遠くまで行かなければならないことになる。
海の近くに住んでいるというのに、わざわざプールに入るために、遠くまで行くことはない。
必然的に、夏場の水浴びのようなテンションでも、海に行くことになってしまうのだ。
「君、どうしたの?」
ゴミの多い砂浜にしゃがみ込み、指先で砂を弄びながら、少女は泣いていた。
俯いているので顔はよく見えないけれど、見覚えがない子である。この辺の子ではないのだろうと思う。
不思議に思いながら、僕は少女に声を掛けた。
「……」
返事がない。
聞こえていないということはないと思うんだけれど。
だとすると、僕は無視されたということになる。
迷子とかだろうか。
それならば、ただでさえ不安だろうに、知らない人に話し掛けられたなら、恐怖を感じてしまうのもやむを得ないだろう。
もっと信頼できる大人を呼んでくるべきなのだろうか。
僕は小学六年生。誕生日を迎えて、十二歳になったばかりである。
少女のほうが歳上ということはないと思うが、”お兄ちゃん”程度の歳しか離れていないだろう。
「だれと、どこからきたの? どうして泣いているの?」
怖がらせてしまうようだと、落ち着くまで質問は待とうと思ったのだけれど、泣いている隣で、何もせずにいるなんてできなかった。
どうもお節介な性格で、優しく見守るということも、ときには必要なのだろうけれど、それが苦手であった。
「海に帰りたい……よ」
もっと相手を安心させてあげられるよう、別の話題を持ちかけようと思っていたところ、少女が答えを返してくれた。
とても、とっても綺麗な声。ずっと聴いていたいと思うような、美しい声音だった。
「私は海からきたの。お姉ちゃんを探してて、お姉ちゃんは人間の王子様のところに行くんだって話してたから、だから私も海から上がれば、お姉ちゃんに会えると思って。そしたら、お姉ちゃんはいないし、私、ひれもなくなっちゃって……帰れなくなっちゃったんだ……」
つまりそれは、どういうことなのだろう。
考えようとするのだけど、頭が真っ白になるようだった。
「え?」
考えてもよくわからなくて、僕は戸惑いの中で聞き返してしまった。
彼女が嘘を言っているようには思えない。しかし彼女の言葉は、そう簡単に信じられるような内容でもない。
海からきたって、どういうことなんだろう。
「ねえ、私はどうしたら良いの?」
僕だってわからないよ。
だけどそう答えたら、せっかく泣き止んでくれたのに、彼女をまた泣かせてしまうと思った。だから僕は声には出さないようにする。
うぅん、なんて答えたら良いんだろう。
どうしたら良いのかと言われても、とりあえず迷子だったら警察に連れて行かないと。
「お姉ちゃんって、どんな人なの?」
まずは彼女からの質問をはぐらかそうと思って、僕の方から質問を投げ掛ける。
「優しい素敵なお姉ちゃんだよ。でも人間の王子様が好きなんだって言って、それで、王子様のところに行くって言って、それから……いなくなっちゃったんだ。一回くらい、会いにきてくれても良いのに」
人魚姫、だろうか。彼女が話している”お姉ちゃん”というのは、人魚姫なのだろうか。
絵本か何かで読んで、その世界に入り込んでしまったのかもしれない。
お気に入りの絵本の中のお姫様に、自分がなったかのような夢を見る年齢なのだろう。……?
えぇっ、わかんないよ。
それに主人公の人魚姫じゃなくて、人魚姫をお姉ちゃんと呼ぶ他の人魚という立ち位置であるのが不思議である。
そんなキャラクター、登場しただろうか。想像を広げて、勝手に作ったキャラクターってこと?
人魚姫の物語をそこまで詳しく覚えていないよ。だってあれって、女の子が読むものじゃないか、僕だって知らないわけじゃないけど、詳しくはないんだよね。
どうしたら正解なんだろう。
やっぱり、大人を呼んでくるべきなのかな。
「ちなみにだけど、そのお姉ちゃんが、王子様とどうなったのかは知ってる?」
「私、知ってるよっ。好きな人は、結婚するんでしょ? だからお姉ちゃんは、王子様と結婚して、人魚のお姫様から、人間のお姫様になったんだ」
人魚姫の話のことを言っているのではないか。と思った程度だったけれど、彼女の口から人魚と言われてしまったから、それは間違えないものになってしまった。
もしかして本当に、彼女は人魚姫の世界から出てきた人魚なの?
小学六年生にもなってそんな話を信じるのは馬鹿らしいとも思ったけれど、海にはいろんな秘密が眠っているというし、人魚姫だって実話なのかもしれない。
それに、そっちの方が楽しいだろ?
彼女はどうやら、人魚姫の結末を知らないようだし。
「だから人間の世界まできて、お姉ちゃんに会いにきたんだね」
彼女の無邪気さを前に、否定をすることなんてできなかった。
本当に話通りなのだとしたら、人魚姫は王子様と結ばれることはなく、海の泡となって消えた。
会うことなんて、できるはずがない。
この場合僕は、嘘つきということになるんだろうか。
「うん、お姉ちゃんに会いにこようと思ったんだ。でもお姉ちゃん、もう、死んじゃったんでしょ? 人間になったから、人間みたいに死んじゃったんでしょ?」
人間になったから、人間みたいに死んでしまった。
その言い方だと、少し違うだろうか。その間違えは直す必要のないものだけれど。
探しにきたは良いものの、途中で人魚姫が亡くなっていることに気がついてしまったのだろう。そして帰ろうと思ったのだけれど、海に帰ることができなくなっていて、今はここで泣いていると。
彼女の言葉が全て本当だとするならば、そういうことになる。
人魚姫が恋に敗れたことは知らないようだから、そのことは彼女に知られないようにしよう。
そうして、無事に彼女を家へと送り届けてあげよう。
「へぇ、そうなんだ。じゃあもう、帰るんだね? でもどうやって、海の中に帰れば良いの?」
あぁっ! 僕がそんなことを彼女に聞いてどうするんだ。
海に帰る方法なんて、知りたいのは彼女の方だろうにっ!
「話を聞いてくれてありがとう。私ね、本当は、あなたが思っているほど、こどもじゃないのよ。人魚の中の時間を生きる私は、きっと人間では考えられないくらい、長い時間を生きている。……ありがとう。あなたのおかげで、とても楽になったわ」
悲しそうな微笑みを浮かべる。
ずっと俯いていたので、僕は初めて彼女の顔を正面から見た。
唯一見られた彼女の顔が、こんな悲しそうな表情なんて嫌だった。
なんとかして、彼女を笑顔にしてあげたいと思った。
「これから、どうするつもりなの?」
自分でも何をしようとしていたのかはわからない。
けれど僕は無意識のうちになのか、彼女の手首を掴んでしまっていた。
立ち上がった彼女が、そのまま歩き去ってしまい、見えなくなってしまうのが嫌だった。理由が何とかじゃなくて、僕は直感的にそうしていたんだろう。
戸惑いながら、彼女は僕のことを見る。
そのまっすぐな瞳に、つい僕は手を離してしまいそうになるけれど、離さないようにとより強く握った。
「どうするって言われても、どうしようもないじゃない? お姉ちゃんは人間になりたくて、自らひれを捨て、脚を手に入れたみたいね。私はそうじゃなくて、望んでもいないのにそうなってしまっていた。泳いで泳いで、やっと砂浜について、そうしたら疲れてしまって、いつの間にか私は眠ってしまっていたの。目覚めたらひれを失い、人間になっているなんて、笑いものだと思わない?」
彼女の幼い外見は変わっていないのだが、急に大人っぽくなった彼女の態度には、僕も動揺を隠しきれない。
無邪気な少女だと思ったのに、僕を騙していたということになるのだろうか……。
寂しかった? 話を聞いてほしかった? 彼女の望みは、ただそれだけのことなのだろう。
でもそれだったら、これからの彼女はどうなるのだろうか。
「海に帰りたいんだよね? それだったら、ひれを取り戻そうよ。僕も協力するから」
何も知らない彼女が、悲しみを抱えながら故郷を捨て暮らしていくことなんて、きっとできないだろう。
それに彼女は海を恋しがっているんだ。
海に連れて行ってあげないと。人魚である彼女に戻してあげないと。
本物の人魚の姿を見てみたいという好奇心や、いまだに彼女の言葉が信じられないような、そんな気持ちだって僕の中には含まれているのだと思う。
だけど、何よりも僕は、彼女を放っておくことができないんだ。
たぶんこれは僕がお節介だからじゃなくて、彼女だからなんだろう。
「協力するなんて、無理よ。だれが脚をひれにする方法なんて持っていようかしら」
驚いたようであり嬉しそうな表情を浮かべてくれるけれど、すぐに悲しそうな表情で彼女は言う。
たしかに、脚をひれに戻してくれ、なんて言っても、馬鹿にされて終わるだろう。だれが本気にしようものか。
たとえ信じてくれたとしても、そんな方法はだれも知らないだろうし。
「魔女。そうだ、魔女の知り合いとかっていないの? お姉ちゃんを人間に変えた魔女なら、君のことを人魚に戻してあげることができるんじゃない?」
他に方法が思いつかなかった。とはいえ、もっと良い手段を考えるべきだったろう。
人魚姫には魔女が登場し、人魚姫を人間に変えてくれる。
だから手段としてはそれしかないと、僕はそう考えたのだ。
普通なら魔女なんて馬鹿らしいと思うけれど、人魚の話を信じたところなのだから、魔女なんかを疑ってはいられないだろう?
しかし本当に彼女が人魚で、本当にその魔女が存在するのだとしたら……。
魔女に治してもらった場合、なんらかの代償が発生してしまうはず。勧めるべき方法じゃないなぁ。
「あなた、どうしてそのことまで知っているの? まぁそれは妙案かもしれないわね。そもそも魔女のいる場所が海の中だから、この姿では辿りつけるかも怪しい、ってところが難点かしら。でも、無理ではない。あなたに協力してもらえれば、なんとかなるかもしれないわね」
彼女が魔女なんて知らないと言ってくれれば、それか不可能であると言ってくれれば、何か否定でもしてくれれば、すぐに没にするはずの意見だったのに。
そんな言い方をされてしまっては、断るわけにもいかないじゃないか。
僕が協力すれば、彼女を救うことができるっていうのに、どうして断ることなんてできようか。
「どうすれば良いの? 僕にできることならなんでもするよ」
それに万が一彼女に危険が及ぶようなら、僕が守れば良いんだ。
人魚姫は交渉に一人で向かってしまったから、止めてくれる人がいなかった。彼女には僕がついている。
「私と唇を重ねて頂戴。そうしていればきっと、私もあなたも海の中で息ができるはず。制限時間はあるから、急がなければならないのだけれどね」
唇を重ねるって、キスをするってことっ?!
かなり動揺してしまうけれど、それを悟られないようにしながら、彼女の隣を歩く。
歩きながら彼女が方法を説明してくれていてくれた。海にも入っていき、やがて波が僕の腰の高さ、彼女の胸元の高さくらいまできたところで、やっと彼女は足を止める。
そして瞳を閉じると、少し唇を突き出してきた。
ドクンドクンドクン。
説明の声がなくなっても、波の音や鳥の声は聞こえてくるはずだった。
それなのに一気に静かになって、鼓動の音だけが五月蝿く響く。
静まれ。静まれ。そう思っているのに、五月蝿くなるばかりで、僕は何も考えないようにして彼女の唇にそっと僕の唇を重ねる。
やわらかい。
って、僕は何を考えているんだ。これじゃあまるで変態じゃないかっ。
「そう長くは保たないはずよ。急ぎましょう」
彼女の方は全くなんとも思っていないようで、僕の手を掴むと、すいすいと海の中を泳ぎ始める。
不思議だな。本当に息ができる。彼女が人魚だというのは、やっぱり嘘じゃなかったんだ。
そんなことを感心しているうちに、それらしき場所に到着したらしい。
「どうしたのじゃ? なぜ人の子がこのようなところに?」
絵本で見た姿や僕の中にあるイメージと、ぴったり重なるような老婆が出てきた。彼女が魔女で間違えないのだろう。
「この子、本当は人魚なんです。お願いですから、彼女にひれを戻してあげてはくれませんか?」
「わしが何をすることもなかろう。一時的なものじゃろうから、一月もすればもとに戻るはずじゃ」
まだ死にたくはなかったけれど、脚くらいは差し出す覚悟で、僕は老婆に頭を下げる。
すると意外なことにも、一カ月でもとに戻るんだと言う。
それが本当なのだとしたら、来月には彼女はまた、人魚として海に戻れるんだ。
僕は嬉しくなるけれど、その一カ月の間はどうしたら良いのかと、心配になる。
「今は人間に見えるでしょうけど、私は人魚なのよ? 住む場所なんてなくても、食べるものなんてなくても、しばらく死にやしないわ。だれにも見つからないようにじっと耐えていたら、すぐにもとに戻ることができるってことよね。それなら良かったわ」
住む場所も、食べる場所もなくても……?
そういうものなのだろうか。
でも何かしてあげられるわけでもないし、彼女には一カ月我慢してもらうしかないのかな。
「帰りましょう。途中で息ができなくなったら、私たち死んじゃうわよ」
「え、うん」
彼女に手を引かれて、僕は海から上がっていく。
海の中を潜って、魔女に会いに行ったはずなのに、少しも濡れていないのがとても不思議だった。
結局、その日はそのまま別れたのだけれど、彼女がどうしたのか気になってしまい、僕は翌日、彼女の姿を探した。
「あらどうしたの? もう帰る方法はわかったし、昨日ほどは寂しくもないし、会いにきてくれなくても全然大丈夫だったんだけど」
良かった。幻じゃなかったんだ。
彼女は昨日と同じように、砂浜に座っていた。
寂しくないから、きてくれなくて良かった。そう言っているけれど、彼女が嬉しそうな笑顔を浮かべてくれていることが、僕はとても嬉しかった。
僕が彼女に会いたいと思ったように、彼女も僕を待っていてくれたのかもしれない。
そんな気すらしてしまうくらい、僕は浮かれてしまっていた。
「来週、夏祭りをやるんだって。良かったらだけど、君も一緒にどうかな。想い出みたいな感じでさ」
「へぇ夏祭りね。せっかくだから行ってみようかしら」
彼女はいまいちそれがなんなのか理解していない感じだったけれど、とりあえず一緒に行く約束ができた。
それ以外にも僕は、何か理由をつけて、彼女を海の遠くへと連れて行った。
彼女が海を恋しがっていることはわかっていた。
だけど、だから、なのかな。ずっと海を見ていたら、更に寂しくなってしまうと思ったから、それを紛らわせるようにと、僕はできるだけいろいろなところに連れて行き、彼女に笑いかけた。
それを彼女がどう思っていたかはわからなかったけれど、喜んでくれると信じて僕は彼女に”一夏の思い出”を提供した。
そうしていると、一カ月というのは本当にあっという間。
彼女が海に帰るその日が、遂に訪れてしまったのだ。
当日、急いで砂浜へ向かうと、いつもと変わらない様子で彼女は座っていた。
しかしいつもよりも、ずっと海に近いところだ。
いつもの場所だと、海まで歩いて三分くらいかかる。だけど今日は、潮が満ちてきたらすぐに波がきてしまうくらい、海のすぐ近くに彼女は座っていた。
まだひれではなく、脚らしいものが見受けられる。
自分の体さえ支えられないであろうくらいに、彼女の脚は細くなっていたのだけれど。
「これでさようならね。とっても楽しかったわ。ありがとう」
僕に気がつくと、振り向いて笑顔を見せて、彼女はそう言った。
言いたいことがたくさんあったのに、穏やかな彼女の笑顔を見せられると僕は何も言えなくなった。
「またね」
だけど「さようなら」は嫌だったから、僕は「またね」と口にした。
また彼女に会えるようにと、僕はそう言った。
「僕、君のことが好きだ。本当は離れたくなんてない」
迫りくる波は、刻々と減っていく僕たちの時間を残酷にも告げている。
彼女の脚がもう見えなくなってしまった頃になって、僕は気持ちが溢れてきて、彼女を困らせてしまうだろうに、そんなことを言ってしまっていた。
「ありがとう。私も、あなたのことが大好きよ。だから、忘れてなんて言いたくないわ。いつまでも私のことを覚えていて、私に会えないことを悲しみ、苦しんで頂戴。ごめんね、私は優しくなくて」
もう、彼女の座っていた砂浜はなくなってしまった。
海の中で息をできているところを見ると、本当に彼女は人魚に戻ることができたらしい。僕と同じように彼女は脚を持っていたはずだが、今は完全に魚のようなひれを持っていて、その姿はまさに人魚である。
これで本当にお別れなんだ。
そう思っていたところに、彼女からの声が聞こえてきた。
「うん、忘れないよ。君のことをずっと、忘れないよ。いつか君を迎えに行くから、君も僕のことを忘れずに、ずっと待っていてね。絶対、絶対だから。約束だからね!」
彼女はもう泳ぎ去ってしまった後だった、かもしれない。
だけど僕の言葉はきっと、彼女へと届いていただろうと思う。
そう、確信できる。
だって遠くの方で、水がぱちゃぱちゃとはねたのが見えたから。それはきっと、彼女からの返事なのだと思うから。
”ねえ、あなたは覚えてる? 私のこと、私と過ごした夏のこと”
”あぁ、僕は探している。君のこと、君と過ごした夏のこと”
”いつかまた、巡り逢えたら、いつかもまた、私のことを好きと言ってね”
”必ず君を探し出して、心に響くくらいの声で叫ぶから。大好きだって”