1-6 「消えない誓い」(リライト前)
突然私の胸の中に飛び込んで来た少女はなおも私の顔を甘えるように覗き込んでくる。
「いっぱいいっぱい探したんだよ?寂しいのいっぱいいっぱい我慢したよ?だからもう一緒に帰ろ?」
次々と言葉をまくし立てて荒くなった息もそのままに、私から視線を外そうとしない。
だから、私もその視線に真っ向から向き合いながら、最初に1つの誤解を正そうとする。
「まず落ち着いて。そしてもう一度私の胸の感触を確かめてみなさい」
少女は目を丸くしてから、パタパタと両手で私の胸を軽く叩いた。
「...お兄ちゃんがお姉ちゃん?」
「これで分かったでしょ。私は列記とした女です。君のお兄ちゃんではないよ」
少女は目を丸くしたまま硬直している。
「とりあえず離してく」
「でもお姉さんはお兄ちゃんだよ?」
「え」
意味不明である。確かに私は主張の薄い女性的な部分を使って、彼女に私の性別を示したはずなのだが。
「だからお兄ちゃんじゃないって」
「お兄ちゃん」
「違うって」
「お兄ちゃん」
「違う」
「お兄ちゃん」
「私は女だってば!!」
「お兄ちゃん...」
ハッとして少女に目をやるとさっきよりも水分の増した両目をこちらに向けていた。
「ごめん!君を困らせようとしてるわけじゃなくて...あーもうー!それでいいよ!そのかわりお兄ちゃんって呼ばないこと。私の名前は山神美月だからね」
「分かった!お兄ちゃん!」
「美月な」
その場を収めるとはいえ、こんなことになるとは。
まあ、どうやら迷子のようだし、本当のお兄ちゃんとやらを見つければ誤解も解けるだろう。
小さな少女の右手を引いて鮮やかな黄色に色づき始めた銀杏並木の中を進んでいく。
横から女の子の顔を覗き込むと、こちらの気も知らずに上機嫌のようだった。
ふと思い立って少女に1つ質問を投げかける。
「そういえば名前聞いてなかったね。なんて言うの?」
先程からこの子のことを少女少女とばかり呼んでいたが、違和感しかない。これから長短に関わらず行動を共にすることになるだろうから訊いておいて損はないはずだ。
「リリ」
「リリね。じゃあ一応改めまして。私は山神美月。美月って呼んで」
「美月お兄ちゃん」
「それはやめろ」
「美月」
「呼び捨てか...」
遺憾ではあるがお兄ちゃんなどと人前で呼ばれるよりは百倍マシだ。
では2つめの質問。
「リリはここら辺に住んでるの?」
迷子の少女に訊くのも可笑しな話だが。
「違うよ。ここには人探しできたの」
「え」
少し虚を突かれた。てっきりこの子が迷子になっているものだと思っていたが、どうやら迷子はリリの兄らしい。
「じゃあこの街には1人で来たの?」
「そうだよ。とーっても遠くから来たの。ほんとにとーっても遠かったんだから!」
そう言ってリリは短い両腕を目一杯広げて訴えかけた。
「そ、そうか...」
そうなると1つ大きな問題が発生してしまう。まさに非常事態だ。
それは、
「道が分からん...!」
「え」
今度はリリが驚きの声をあげた。続けて、
「どこにいく道?」
論外。
目的の病院からはかなり遠ざかってしまったが、とりあえず元来た道を戻ってから考えよう。
ー15分後ー
「ここどこ?」
「チョウチョだ〜」
元来た道すら分からないとは。本当にここどこだ?
このままだと家にすら帰れなくなってしまう。
「て、あれ?」
リリがいない。目を離した隙にはぐれてしまったようだ。
辺りを瞬時に見回す。
「いた」
近くを飛び回っていた蝶を追いかけていったようで、少しずつ距離が開いていく。
にしても珍しい蝶だ。その蝶がもつ羽は白でも黄色でもましてや黒でもない。例えるならばいつかどこかでみたような鮮やかな青...。
いやそんなことよりも。
「あんまり離れると迷子にな...」
青い蝶の動きが止まった。正確には「留まった」。
その蝶のいく先には、初老の男が立っていた。
鼻の下には髭を生やしていて、よく整えられている。
一方で真っ白の髪の毛は軽くかき上げられ、体はスーツに包まれている。まさに絵に描いたような紳士然とした雰囲気を漂わせていた。
老紳士は蝶を自らの指先に迎い入れ、その後を追って来たリリの目線まで体を落とすと、渋みのある声でゆっくりと丁寧に話し始めた。
「美しい蝶でしょう。なんせ日本には生息していませんからね。あなたのような可愛らしいお嬢さんに愛でていただければ、この蝶も本望でしょうが、生憎この青い蝶は私の分身とでもいうべき子でして。人様にお譲りすることはできないのです。申し訳ありません」
どうやら美しい蝶はこの男のものらしい。
「おいかけまわしちゃってごめんなさい」
リリが老紳士に頭を下げた。なんだかんだいってしっかりしている子なのかもしれない。
「謝りなさるほどのことではありませんよ。こうしてまたあなたにお会いすることができたのですから」
そう言って老紳士は視線をリリから私に移した。
「?」
どこかで会ったことがあっただろうか。大した付き合いでなくともこんな個性の強い人を忘れるだろうか。
私の反応などお構いなしに老紳士は話を続ける。
「これまでずっと蝶たちを使って捜索しておりましたが、あなたの霊力反応がどこにも現れないので途方にくれておりました。しかし、昨日ようやく1匹の蝶が反応をつかみまして。それであなたにお会いしに参った次第です」
霊力。
男が当たり前のように発したその言葉は私の日常には存在しないものだ。
この男は何を言っている?
「あなたが神々しいまでの眩い光と共に力を手に入れたときのこと、今でも昨日のことのように思い出します。あの力、あの光をもう一度見たい、ただそれだけの願いを胸にこの2年間、あなたを探し続けました。その願いが!今日!ようやく!叶うのです!」
男の様子が変わった。それも良くない方向に。
こいつは危険だ。何の話をしているかは今も全く分からないが、明らかに何かをしようとしている。ことが起こる前にどうにかこの場を抜け出さなければ。
「さあ!あなたの美しき憎悪、私に心ゆくまで叩きつけてください!!」
男が両手を広げて天を仰いだ。
今しかない。
「リリ!!」
全速力でリリの元へ駆け寄り、手を強く握る。そのままの勢いで男を抜き去って、なおも加速する。
「おや?逃走、ですか?焦らされるのはもう、懲り懲りですねぇ!!」
男が後方から追いかけて来る。
誰がどう見ても白髪の老人の脚力ではない。
私ひとりならまだ分からないが、リリと併走しているこの状況ではすぐに追いつかれるだろう。
「っ!こっち!」
リリの手を引いて路地に入る。道路で直線勝負をするよりは、まだ逃げ切れる可能性はあるはずだ。
左、右、左、直進。
複雑に絡まる路地裏の地形をフルに活用して、足取りを読ませないようにしながら走り続ける。
しかし、何度も角を曲がって進んで行くうちに、異変に気付いた。
「別れ道じゃなくなってる...?」
足で思い切りブレーキをかける。が、気付くのが遅すぎた。
もうすでに目の前には高層ビルの壁が覆いかぶさるかのようにそびえ立っていた。
行き止まりだ。
「逃げるなんてひどいではないですか...。まあこちらも少々汚い手を使ってしまいましたが」
私たちが来た角から男は現れた。とんでもない速さで追いかけてきたはずなのに息一つ切らしていないあたり、只者ではない。
「おまえ、何をした」
私が問いかけると、男は少し驚いたような素振りを見せた。
「お気付きでしたか。まあ、単純な仕掛けでしたからね」
男が指を鳴らすと、塞がっていた壁がたちまち青い蝶に変わって飛び立っていき、私たちが通って来たものではない新しい道が現れた。
男が蝶たちを使って道を塞ぎ、私たちを行き止まりに誘導していたのだ。
「反則でしょ...それ」
万事休すだ。
男の操る不可思議な力の正体も分からない。
なぜ私たちを追いかけて来るのかも分からない。
考えずともわかることといえば、この場から抜け出すことは不可能、という事実だけだ。
だが、話から察するに狙いは私らしい。だからリリだけは逃さなければならない。無関係の少女を危険に晒すなどできるものか。
リリをここから逃す手立てを必死に考えていると、男が何やら話しはじめた。好都合だ。話を合わせて時間を稼いでやる。
「ところで美月さん。先程からのあなたの反応からして、まさか私のことを覚えておられないので?」
「ええ。あなたのような紳士のお手本みたいな人に会ったことなんてないわ。どうやら本性はそうではないようだけど」
紳士もどきはやれやれとでも言いたげなジェスチャーをしながら続ける。
「その食ってかかる姿勢、やはり美月さんですね。けれど私のことを覚えておられないということは2年前のことも...。なんてことだ!!それではあの日のあなたともう一度対峙することは叶わないというのですか...」
男は、一体どうすれば、と繰り返し呟きはじめた。
その隙にリリに逃げるように合図を送る。が、小さな子どもにアイコンタクトが通じる訳もなく、首を傾げて惚けている。
その時、男が唐突に叫んだ。
「そうだ!簡単なことではないですか!あの日あなたが力を手に入れたときの再現をすればよかったのです!!」
「何を言って...」
「そうですねえ...では」
消えた。前触れもなく男の姿が蝶の群れに変わった。
咄嗟に周囲への警戒態勢をとる。
瞬間、
「あなたの命で代用しましょうか」
血走った目を声の方向へ瞬時に向けて男を視界に捉える。
右手には青い光を放つ短刀。
その刃の先には出会ったばかりの女の子。
走り出すのにそれ以上の理由はいらなかった。
日も落ちて、頼りなく星が瞬く夜の情景に青い短刀の光が差さる。
動こうとしない少女にその凶刃が振り下ろされんとしたその刹那、
少女の身を守るように白い右腕が差し出され、
ガキン、と場違いな金属音とともに刃は跳ね返された。
「!?」
老紳士は咄嗟に割って入ってきた少女から距離を取る。
「義手、ですか」
短刀を打ち返した右腕の切り傷から鮮血が流れることはなく、かわりに傷の奥には真っ白い金属を覗かせていた。
少女はリリの頭を左手で優しく撫でると、大きく見開いた目を老紳士に向けた。
「何よそ見してんのよ?あんたの狙いは私でしょ」
老紳士は驚きとも喜びとも取れる表情を浮かべ、また叫んだ。
「その目...その目です!!敵意むき出しのその表情!!素晴らしい!!ですがまだ足りませんねえ。それは怒りからくる敵意だ。もっと、もっとです!!あの日のあなたはそんなものではなかった!!」
「ごちゃごちゃうるさいんだよ」
その一言で空が呼吸をやめた。
「私はあんたの要望に応えるつもりは毛頭ないが、あんたに特別恨みや憎しみがある訳じゃない。けどさ、あんたは私の誓いの対象になっちゃったんだ」
ーその少女は今まで選択を迫られることなく人生を送ってきた。
ー誰かが示した道を何の疑いもなく歩いてきた。
「最後に一ついい事を教えてやるよ」
ーそんな平和に浸りきった少女は次第に青臭く、甘ったるい、けれどどこまでも純粋な正義感を持つようになった。
「私は、私のために誰かが傷つく事を許さない。私なんかを庇うような大馬鹿を許さない。その大馬鹿を傷つけようとする奴も許さない」
ーその果て、掲げられた誓いは2年の記憶をなくした今でも、楔となって心臓に打ち込まれている。
「つまり、私はあんたを許さないってことだ!!!」