1-4 「calling 」(リライト前)
息が詰まる。動悸が激しくなる。
やばいやばいやばい
「ぷはっ」
ザブンと勢いよく水を溜めた洗面器から顔を抜き出す。
我ながら実に安直な行動だなと思いながら顔にまとわりつく髪を払い、心の中でつぶやいた。
ここはいつもの自宅。
ここはいつもの洗面所。
ここはいつもの私の居場所。
だったはずの場所。
息が整うのを待って、俯き加減の顔を無理やり上げると、自分自身と目が合った。
嫌っていた幼さの残るあどけない顔立ちは変わっていないが、ずっと短く切り揃えていた茶目っ気の髪は肩より下まで長々と伸びていた。
今、気付いた。
朝だってここで自分の姿を目にしたはずなのに。
あろうことか、今日半日過ごして初めて気付いた。
確かな事実がだんだんと現実に同期させていく。
私の知らない現実に。
足に力が入らなくなって、ずるずると壁に体を沿わせながらその場に座り込む。
そのまま膝が笑いだし、肩が小刻みに震え、瞼に収まりきらなくなった水滴が零れ、自分が涙していると自覚したとたん、意識が揺らいだ。
既知が未知へと変わった。
あらゆることが不透明に、不鮮明になっていく。この街も、時間も、人も、空の色も、そして、
自分さえも。
どのくらい経っただろうか。
頭を膝に押し付けて座り込んだまま、まるで興味のない目をしてちらりと窓の外を見る。
帰って来た頃には空らしく青色だった風景は血が滲んだような赤に変わっていた。
小さくため息を漏らして再び殻に閉じこもろうとしたその時、どこかでリンリンリンと控えめな電子音が鳴り響いた。
リビングの電話が鳴っているのだと分かっていたが、立ち上がる気力があるわけもなく、その鈴なりをただただ聞き流した。
しかし、いっこうになりやもうとしないその音が煩わしくなって、もぞもぞと私は動き出した。
喧しいその音を全力でシャットダウンしながら、やっとの思いで受話器の前に立ち、ゆっくりと手を伸ばす。
けれど私の手が触れるのを待たずして騒音は1つのボタンに仄かな明かりを残してピタリと止んだ。
どうやら電話の差出人は留守番メッセージを記録して切ってしまったらしい。
私の精一杯の努力がきれいさっぱりなかったことになってしまったわけだ。
その事実に無性に腹が立って、一女性が到底言わないような失言を口から漏れようとするのを必死に抑える。
心を軽く落ち着けて、今度はわざわざ自宅の電話をコーリングしてくれちゃった通話志願者の声を聞いてやろうとランプの灯ったボタンをためらいなく一押しした。
それと同時に電話特有の少し電子加工がかった声が流れ出した。
「やあ、ツキミ。元気に生きてるかい?
この間君から頼まれていた試作品が今日ちょうどできたんだ。
今君がつけているものより大分軽量化できてね。是非すぐにでも試着して欲しいんだけど...どうやら今はいないみたいだね。
この電話を聞いたら、気が向いた時でいいからいつもの場所に顔を出してくれ。
あっ、今日から一週間この部屋使えなかったんだったや。うーん、悪いんだけど、病院の方に来てくれないかな。そっちの方が家から近くて君も好都合だろう?
じゃあそういうことで。イノハラより」
「ツキミ」という柔らかい響きを含んだその名が頭の中を反響して離れようとしなかった。