モリガンの屋敷
世界最強と言われたモリガンの本部は、田舎の街だったネイリンゲンから少し離れた草原の上に建てられている。元々その屋敷はフィオナちゃんの実家だったんだが、彼女が100年以上前に病死し、幽霊となった彼女を恐れて家族が逃げ出してしまってからは、ずっとフィオナちゃんはその屋敷の中で1人で過ごしていたという。
幽霊の少女が現れるという事から買い手もいない状態だったところに、ちょうどラトーニウス王国から逃げ延びてきた親父と母さんが転がり込み、そこでフィオナちゃんと一緒に傭兵ギルドを結成したというわけだ。
それから仲間を増やしていき、国王からの依頼も引き受けるようになった彼らは、他のギルドと比べると非常に規模が小さかったが、世界最強の傭兵ギルドと呼ばれるようになったという。
そのモリガンの本部が壊滅したのは、今から14年前だ。
親父たちと敵対していた転生者の集団が、このネイリンゲンに攻撃を仕掛けたのである。この奇襲で多くの住民が犠牲になり、信也叔父さんも右腕を失う重傷を負った。次々に撃ち殺されていく住民たちを目の当たりにした親父は激昂し、たった1人で重武装の転生者たちを蹂躙していったという。
幼少期のナタリアが親父と出会ったのは、その戦いの最中だったんだろう。
G36Kに取り付けたライトのスイッチを入れ、埃だらけの玄関のドアをそっと開ける。軋む音を広間の中に響かせ、埃をまき散らしながら開いたドアの向こうに広がっていたのは、おそらく14年前と全く変わらない屋敷の広間だった。
床は埃で灰色に染まり、壁には燃えたような跡が残っている。どれほど激しい襲撃だったのかと予想しながら右を見てみると、入り口から右に伸びている筈の廊下は崩落した瓦礫で塞がれていて、進めそうにはなかった。
奥の方には裏庭へと向かうためのドアがあり、左側には上に上がるための階段がある。階段の手すりはところどころ剥がれ落ちていて、階段の上には天井や手すりの破片が転がり、埃に覆われている。
「懐かしいのう………あの時のままじゃ」
「あら、ノエルちゃんの家と本当にそっくりですのね」
ガルちゃんにとって、この屋敷は実家のようなものなんだろう。14年前の惨劇の痕が残る痛々しい場所だけど、ここに残っているのはそれだけではない筈だ。かつて人間を憎んでいたあのガルゴニスが、憎んでいた筈の人間たちと共に戦い、思い出を残した場所なのだから。
信也叔父さんの家は、この屋敷を再現しているらしい。だからエイナ・ドルレアンの屋敷とこの屋敷の構造は全く同じになっている筈だ。
「こっちじゃ。3階にリキヤたちが使っておった部屋が残っている筈じゃ」
親父の部屋? 今日はそこで寝るのか?
「パパの部屋かぁ………どんな部屋なのかな?」
「叔父さんの屋敷の部屋と同じだろ」
もしかしたら魔物が入り込んでいるかもしれないので、念のためアサルトライフルのライトで照らしながらガルちゃんの後をついて行く。でも、先頭を歩くガルちゃんは全く警戒している様子はないし、ここに戻ってきたことを懐かしがりながらきょろきょろと見渡しているだけだ。彼女はここに魔物が入り込んでいない事を知っているんだろうか。
他の仲間たちも警戒している様子はない。生真面目に武器を構えてライトを付けているのは俺だけだ。なんだか少し恥ずかしくなってきたが、もし小型の魔物が襲いかかってきたら大変だからな。ここはもう平和な街ではなく、魔物が住むダンジョンなのだから。
2階には、応接室と書斎があった。階段から見て左側にも廊下が続いているようなんだけど、こっちの廊下も落ちてきた瓦礫で塞がれているため、奥に何があるかは分からない。
部屋の中を確認してから3階へと上ると、埃まみれの廊下の左側に2つのドアがあった。叔父さんの屋敷の構造がここを再現しているというのなら、この左側のドアの向こうは寝室になっている筈だ。
廊下の奥にもドアがあるが、そこはおそらく風呂場だろう。この屋敷には元々水道はなかったらしく、風呂に入るためにはいちいち外にある井戸から水をここまで運んでくる必要があったらしい。
王都にある俺たちの家は当然ながら水道があるからそんなことをする必要はなかったんだが、親父たちの時代は大変だったんだな………。
水道の便利さを実感していると、ガルちゃんが風呂場寄りのほうの部屋のドアを開けた。まるで魔物の唸り声のような軋む音を立て、埃を舞い上げながらドアが開く。
「ここがリキヤたちの部屋じゃ」
「へえ………若き日の親父の部屋か」
部屋の中はやはり埃まみれだったけど、ここはあの惨劇で燃えることはなかったのか、長年掃除をしていないだけの部屋のように見えてしまう。ベッドは埃で灰色に汚れ、ソファも腰かけようとは思えないほど埃まみれだったけど、ここがどんな部屋だったのかという面影は残っている。
大通りの周囲に広がっていた廃墟よりも、寝泊りするならばここが最適だろう。14年間も放置されていたせいで大量に埃が落ちているのが気になるが、埃は掃除すればいい。それに、ここに泊まるのは今夜だけだ。明日はすぐに国境を超えるため、ラトーニウス王国のクガルプール要塞へと向かわなければならない。
「いい部屋だけど………凄い汚れね」
「それは俺が掃除するさ」
「え? 掃除するの?」
「おう」
ついでに風呂場も掃除しておこう。さすがに襲撃を受けて放置されてから14年も経っているから、水道が使えるとは思えないが、俺とラウラの能力を応用すれば風呂には入れる筈だ。
シャンプーはどうしようかと考えていると、隣で部屋の中を見渡していた筈のナタリアが、目を細めながら俺の顔をじっと見ていた。
「………どうした?」
「………あんたって、女子力が高いわよね」
「えっ?」
女子力が高いだって?
確かに家事は得意だけど、それは前世の世界で生まれ育った環境がクソ親父のせいで最悪だったから技術が身についただけだ。あのクソ親父は料理はしないし、家事は他人任せだった。文句を言えばすぐにキレて暴力を振るってきたしな。どうして俺の母さんはあんなクズと結婚したんだろうか。
あんな父親の息子として生まれるくらいならば、生まれない方がマシだったと思うレベルであの親父は嫌いだ。あいつ家事とか料理が全然できないから、今頃死んでるんじゃないだろうか。
もし死んでこっちの世界に転生してたら、ちゃんと親孝行してあげないとな。
そんなクソ親父と一緒に生活する羽目になったから、自分で料理も出来るようになったし、家事も得意分野になった。転生してからも小さい頃から母さんの手伝いをやったし、大きくなってからは家族に手料理を振る舞う事も何度かあった。
だから家事は俺にとって得意分野なんだが、どうやらそれのせいで女子力が高くなってしまったらしい。
ちなみにラウラは料理が下手だし、家事も苦手だ。お姉ちゃんはもう少し女子力を上げた方が良いんじゃないだろうか。
「む? 掃除するのか?」
「ああ。さすがにピカピカにはできねえけど………」
14年間も放置された部屋だからなぁ………。
「では、私は結界でも張ってくるかのう。魔物や悪霊が入り込んできたら大変じゃ」
「結界?」
「うむ」
確か、光属性の魔術だったような気がする。教会の魔術師が大昔に編み出したと言われている魔術の1つで、特殊な魔法陣を数ヵ所に刻み込むことによって光属性の魔力の壁を作り出し、中にいる者を守る事が出来ると言われている。
魔物は中に入ることは出来ないし、発動させた者と敵対している人間も同じく入ることは出来ない。さらに物理的な防御だけでなく、悪霊のような霊も中に入り込む事は出来ないため、聖地を守る騎士たちは必ずこの魔術を習得させられるという。
さすが最古の竜だな。複雑な魔術までマスターしてるのか。
「誰か手伝ってくれないかのう?」
「では、ステラがお手伝いに行きます」
「おお、サキュバスの末裔が来てくれるのか。お主もこれは使えるか?」
「はい。昔ママから習いましたので」
「では、私は西側と東側に魔法陣を刻んでくる。お主は北側と南側を頼むぞ」
「分かりました。では、行ってきます」
「うむ。何かあったらすぐに逃げるのじゃぞ」
「はい」
ステラって結界が使えたのか。サキュバスは魔力の扱いに秀でた種族だって聞いていたけど、幼少期にそんな複雑な魔術を母親から教わってたのかよ。
「ほら、掃除しちゃいましょ」
「おう。ラウラ」
「はーいっ!」
「では、わたくしもお手伝いしますわ」
結界を張りに行くガルちゃんとステラを見送った俺たちは、この埃まみれになっている部屋の掃除を始めることにした。
「よし。ラウラ、氷出してくれ」
「はーいっ。えいっ!」
ラウラの元気な声が聞こえた直後、まるでブリザードに呑み込まれたかのように狭い風呂場の空気が一気に冷却された。一瞬だけ吐き出した空気が白くなるが、その冷気はすぐに収縮を始め、鮮血のように紅い氷となって風呂場の浴槽の中に落下する。
ごとん、と大きな紅い氷が浴槽の中に落下し、冷気を放出し始める。ラウラの能力で空気中の水分を集中させ、結合させながら氷結させた氷だ。どういうわけか血のように紅いが、溶かせば普通の水に戻る。
部屋の掃除はナタリアとカノンが担当しているが、そろそろあっちの掃除は終わる頃だろう。風呂場は俺とラウラが2人で担当したんだが、部屋よりも狭かったおかげで早めに掃除は終わった。今はラウラに氷を出してもらい、これでお湯を作るところである。
両手に着けていた黒い革の手袋を外し、静かに氷の表面に触れる。血のように禍々しい色とは裏腹に全く臭いはしないし、普通の氷よりもひんやりとしている。
右手の手の平に蒼い炎を出現させた俺は、その炎を氷へと押し付けた。蒼い炎が紅い氷の中にあっさりと沈み込み、巨大な氷を少しずつ溶かして水に変えていく。
こうやって氷を溶かして水に戻し、さらに過熱すればお湯になる。俺たちの能力って戦闘以外でも役に立つんだよな。結構便利な能力だぜ。
「えへへっ。今夜は一緒にお風呂に入れるね」
「ん? ああ」
前はカノンと一緒だったからな。………キスしちまったし。
バレてないよな? もしバレたらトマホークで真っ二つにされそうだから、このことは話さないようにしよう。まだ死にたくないからな。
もしバレた時の事を考えてぞっとしていると、後ろからラウラがゆっくりと抱き付いてきた。右手の炎が生み出す熱気の中に甘い香りが混じり、何度もこうして抱き付かれてきたというのに俺は顔を赤くしてしまう。
大きな胸を押し付けながらぎゅっと俺を抱き締めるラウラ。さすがに作業中に彼女を抱き締めるわけにはいかないので、俺は左手を伸ばして彼女の頭を撫でておく。
「えへへっ。やっぱり、タクヤと一緒にいるのが一番幸せだよ」
「そうか?」
「うんっ。タクヤって優しいし、可愛いもん」
「お前、俺を妹だと思ってないか?」
「ふにゅ? 可愛い弟だと思ってるよ? ふふっ」
俺は男らしくないって事か。
母さんに似過ぎたせいなのか顔つきが女に見えるし、髪型も女みたいだし、しかもナタリアには女子力が高いって言われたからな。やっぱり男には見えないのか。
でもちゃんと息子は装備してるんだよ………?
幸せそうに微笑みながら俺の頭の角に触り始めるラウラ。感情が昂ると勝手に伸びる不便なこの角は、後ろから抱き付いているお姉ちゃんのせいで既にダガーのような長さに伸びていた。
キメラの身体は身体能力も高いし便利なんだが、この角だけは不便だと思う。尻尾は服の中に隠せるし、この角もフードや帽子で隠せるんだけど、こういう時に勝手に伸びるのはかなり不便だ。
ちなみにこの角は頭蓋骨の一部が変異して伸びたものらしい。何度かこれを折ってしまおうと思ったんだが、これを折るという事は頭蓋骨を折る事と同じなので、やめておいた方が良いだろう。でもかなり硬いらしく、アサルトライフルの5.56mm弾を喰らっても傷はつかないという。
もしかしたら、これを伸ばした状態で頭突きをすれば魔物を殺せるんじゃないだろうか。
釘バットみたいな頭だ………。
姉に抱き締められてドキドキしている間に、氷はすっかり溶けて水になっていた。まるで鮮血を凍らせたかのように紅かったラウラの氷は水になり、少しずつ湯気を発し始めている。
そろそろ良いだろうかと思いながら左手をお湯の中に沈ませてみたが、まだ少々温いようだ。もう少し熱した方が良いかもしれない。
このぬるま湯がもっと暖かくなるまで、お姉ちゃんに甘えさせてもらおう。
やっと身体に力が入るようになってきた。まだ痙攣する腕を何とか動かした俺は額の冷や汗を拭い去ってから仰向けになり、部屋の薄汚れた天井を見上げる。
ここを見つける前からお腹を空かせていたせいなのか、今日はいつもよりも魔力を吸収する量が多かったような気がする。
「んっ……ん………はぁっ、はぁっ………」
「ぷはっ………。ラウラの魔力は甘いですね。デザートみたいです」
俺の隣で仰向けになったラウラの上に跨り、小さな手で彼女の胸を触りながら再び唇を奪うステラ。食事ならば唇を奪うだけでいい筈なんだが、胸まで触っているのは羨ましいからなんだろうか。
「お、お姉様………っ! 可愛らしいですわ、お姉様!」
ステラに魔力を吸収されるラウラを見て興奮しているのは、しっかり者の貴族かと思いきやトップクラスの変態だったカノンさん。顔を真っ赤にして呼吸を荒くしながら、俺の姉が幼女に魔力を吸収される光景を見守っている。
小さい頃はしっかり者だったのに、どうしてこんな変態になっちゃったんだろう。カレンさんはしっかり者だから、ギュンターさんが原因なんだろうか。
「す、ステラさん! わたくしも混ぜてくださいなッ!」
「お、落ち着けカノン! お前もそろそろ風呂入って来いッ!」
「嫌ですわ! わたくしもステラさんに唇を奪ってほしいですわ!!」
「ごめんなさい、もうお腹いっぱいです。ごちそうさまでした」
「えぇ!?」
ラウラから唇を離したステラは、ぺろりとラウラの唇を舐めてから頭を下げ、彼女の上から下りてお腹をさすり始めた。本当にお腹がいっぱいになってしまったらしい。
無表情だったステラの顔が、少しずつうっとりした表情に変わっていく。
「うう………お姉様だけずるいですわ」
「ふにゃー…………」
「おーい、ラウラ? 大丈夫か?」
「だ、大丈夫だよぉ………」
まだ力が入らないらしい。魔力が回復すれば彼女も動けるようになるだろう。
「ほら、カノン。早く風呂入って来い。見張りは俺がやっておくから」
「わ、分かりましたわ………」
残念そうに立ち上がり、カノンは風呂場へと向かっていく。先ほど浴槽の蓋を閉じる音が聞こえてきたので、ナタリアはもう風呂からあがっている事だろう。
ちなみに風呂場はこの部屋のドアから見てすぐ左にあるので、それほど俺たちから離れるわけではない。
俺が風呂に入るのは最後にする予定だ。結界を張っているとはいえ魔物が入り込んでくる可能性もあるし、この街は怪奇現象が起こる街だ。住民のほぼ全員が14年前の襲撃で命を落としているため、かなりの数の魂がさまよっていることになる。
まだ痙攣する手を伸ばし、メニュー画面を開いてレ・マット・リボルバーを装備しておく。漆黒の銃身と木製のグリップは一見すると旧式の銃に見えるかもしれないが、近代化改修を済ませてあるため、スペックは新型のリボルバーとあまり変わらない。
それを2丁装備し、愛用の大型ワスプナイフと大型ソードブレイカーも装備した俺は、ランタンの明かりの下で懐中時計を取り出した。
もう深夜0時になる。もしかしたら、そろそろ怪奇現象が起こるかもしれない。
今まで幽霊を見たことはないが、この街で初めて怪奇現象を体験する羽目になるかもしれない。そう思って緊張しながら、俺は1人で臨戦態勢に入った。




