リディアが目を覚ますとこうなる
「ただいまー」
「あら、ダーリン。お疲れ様」
瞼の下に、まるで墨汁で塗り潰されたかのようなクマを刻んで帰宅した俺を、蒼い髪の女性が出迎えてくれた。側頭部の髪をお下げにしている特徴的な髪型で、凛とした雰囲気と優しさを併せ持つ美しい女性だ。
彼女の優しい笑顔を目にするだけで疲労が全て消え失せてしまうような気がしてしまう。モリガンの本部でカサートカから下り、ギュンターと居酒屋に飲みに行くのは今夜にしようと話をしてから、重装備の時と同じくらいの重さの疲労を纏いながら森の中の我が家へと戻ってきた筈なのに、まるでベッドから目を覚ましたばかりのような心地よさが俺を包み込む。
「ただいま、エリス」
「ふふふっ。おかえり、ダーリン♪」
彼女の名は『エリス・ハヤカワ』。俺の妻で、もう1人の妻であるエミリアの姉だ。正確には姉ではなく、エミリアというホムンクルスのオリジナルというべきなんだが、本当に同じ遺伝子で作られたのかと思ってしまうほど性格が違うし、エミリアが赤子の段階で受けた魔術による調整の影響なのか、瞳の色等は若干違うため、簡単に見分けられる。ちなみに、俺とエミリアよりも1つ年上だ。
しっかりしているのがエミリアで、清楚と思いきや変態なのがエリスだ。目の前にいるのはエロい方の妻である。今のように微笑んでくれている時はとても美しい女性なんだが、もう子供が生まれたというのに夜になると襲ってくる変態である。
せめて、彼女と俺の子供は変態になって欲しくないな。
安心したせいなのか、前世の世界のように玄関で靴を脱ごうとしてしまう。この世界では一部の国を除いて家の中でも靴を履いているのが一般的らしく、この世界に転生してきたばかりの頃はこの癖でエミリアや他の仲間たちに笑われたものだ。
脱ぎかけていた靴を履き直し、また前世の癖が出たのを見て笑うエリスを抱き締める。洗濯物を畳んでいた最中だったのか、頬を赤くしながら伸ばしてきた彼女の柔らかくて真っ白な手からは石鹸の香りがする。
少しだけ顔を離してから、エリスの唇を奪う。いつも彼女は俺やエミリアにちょっかいをかけてくるんだが、このように俺がキスをしようとすると素直になるんだ。
エミリアも出迎えに来るかもしれないので、舌を少しだけ絡み合わせてからすぐに唇を離す。エリスはもっとキスをしていたかったらしく、物足りないと言わんばかりに俺の服の裾を引っ張りながら見つめてきたけど、もしエミリアにキスをしているところを見られたら彼女の強烈なドロップキックの餌食になってしまう。
結婚してから何度か彼女のドロップキックが直撃した事があるんだが、失神してしまいそうなほど強烈な破壊力だった。もし俺よりもレベルの低い転生者が喰らったら気を失ってしまうのではないだろうか。
しかも顔面に直撃すると、二日酔いの頭痛にも似た痛みがしばらく頭にへばり付いたままになるので、エミリアのドロップキックでヘッドショットはされないように気を付けている。でも、避けるとエミリアが床に叩き付けられてしまうので、大切な妻が怪我をしないためにもせめて胴体に喰らうように心掛けているのだ。
ドMになったらどうしよう。
エミリアに見られないようにと警戒していたんだが、もう1人の妻よりも先に玄関へとやってきたのは、幼くて可愛らしい赤毛の来訪者だった。
「あうー」
「お、ラウラ。迎えに来てくれたのか?」
「あらあら、ラウラったら。パパをお出迎えするために玄関まで来たの?」
廊下の向こうからハイハイしながらやってきたのは、赤毛の幼い女の子だった。髪の毛の色は俺から遺伝したのかもしれないが、まだ幼いけれど顔つきはエリスにそっくりである。
エリスが生んでくれた可愛らしい愛娘へと手を伸ばした俺は、嬉しそうに笑いながらハイハイして寄ってきたラウラを抱き上げた。帰ってきた時の俺の声で自分の父親が帰宅したと理解したのだろうか。
「ぱー、ぱーぱー!」
「ラウラ、パパが帰ってきたぞー。ははははははっ」
「ぱーぱー! きゃはははははははっ!」
「うふふふっ。ラウラはパパが大好きなのねぇ」
この娘にラウラという名前を付けたのはエリスだ。彼女とエミリアが幼い頃に一緒に読んでいた絵本に登場する、勇者の仲間のラウラという魔術師が愛娘の名前の由来らしい。
俺の手よりも遥かに小さなラウラの手を握ると、抱き上げられているラウラは大喜びしながらはしゃぎ始めた。
高い高いでもしてあげようかと思っていると、廊下の向こうにあるリビングからもう1人の蒼い髪の女性が、同じく蒼い髪の幼い子供を抱きながら歩いてきた。
顔つきはエリスと瓜二つだけど、髪型はポニーテールだし、身に纏う雰囲気は真逆だ。エリスは他人を受け入れてくれそうな優しい雰囲気を纏っているんだが、彼女は凛々しい雰囲気を放っている。エプロン姿で家事をする彼女も美しいんだが、一番似合うのは黒い制服を身に纏って剣を持っている姿だろうか。この異世界で一番最初にできた仲間を見つめながら、初めて出会った時の事を思い出してしまう。
「おかえり、力也」
「ただいま、エミリア。……タクヤも出迎えてくれるのか?」
「うー………」
エミリアが抱いている赤ん坊は、俺とエミリアの息子だ。髪の色と顔つきはエミリアにとてもそっくりで、きっと成長したら女に間違えられてしまうのではないかと思ってしまう。それどころか、母親と間違えられてしまうのではないだろうか。髪型まで同じにしてモリガンの制服を身に纏ったら見分けられる自信がない。
彼にタクヤという名前を付けたのは俺だ。漢字にすると『拓也』だろう。
最近は少しずつ傭兵よりも冒険者の方が仕事が多くなっているし、おそらく子供たちが成長した頃にはこの世界の主役は冒険者になっていることだろう。子供たちには、冒険して〝切り拓いて”ほしい。だから彼はタクヤという名前にした。
フロンティアスピリットの詰まった名前だな。
「おいで、タクヤ」
エミリアが抱いている息子にも手を伸ばすが、ラウラよりも大人しい性格なのか、タクヤは俺の手を嫌がるようにエミリアにしがみつくと、俺を無視して母親に甘え始める。
「あうー………」
「ふふっ。タクヤはパパよりも、ママの方が好きなのか?」
「………」
息子に嫌われてるのかな………。
触るなと言わんばかりに俺の手を拒絶し、エミリアに甘え続けるタクヤ。息子に拒絶されてがっかりする俺を見ながら、エミリアとエリスが大笑いする。
俺も苦笑いするが、自分の子供に拒絶されるのってショックだぞ………。
抱き上げられているラウラが、タクヤに拒絶されてがっかりする俺の頭を撫でてくれる。ありがとな、ラウラ………。や、優しい娘だなぁ………。
家族たちとしばらく笑い合った後、俺はエミリアが作ってくれた朝食をいただくことにした。
その部屋の中を支配しているのは、強烈な薬品の臭いだった。ベッドの近くの小さな机には花が飾られているけど、その花の香りでこの薬品の臭いに太刀打ちできるわけがない。せいぜいベッドの周囲の薬品の臭いを緩和するのが関の山だろうか。
窓でも開ければこの臭いから解放されるのではないかと思ったが、オルトバルカ王国は北国である。春になり始めているとはいえ、まだストーブは必需品だ。だから窓を開ければ、ベッドで眠る人物が冷たい風で苦しむ羽目になる。
真っ白なベッドの上で眠るのは、痩せ細った幼い少女だった。年齢はおそらく3歳か4歳くらいだろう。このドルレアン邸の中にある医務室に来る前に身体を洗ってもらったらしく、長い間培養液の中にいたせいで染み付いていた刺激臭は石鹸の香りにかき消されている。
痩せ細っている以外は普通の少女に見えるが、彼女がかぶっている毛布は、いくら幼いとはいえ太腿がある筈の辺りで膨らみが消え失せていた。
「――――――容体はどうだ?」
『信じられませんよ………1000年以上も培養液の中で眠っていた筈なのに、普通に眠っているだけみたいです』
「もしかすると、あの装置は生命維持装置のような代物だったのかもな」
メウンサルバ遺跡の地下にあった、ヴィクター・フランケンシュタインの実験室で、両足がない状態で大昔から眠り続けていた最古のホムンクルスの寝顔は、普通の人間の幼い子供と変わらない。ホムンクルスは元々人間などの遺伝子から造り出されるクローンのようなものなのだから。
「それで、この子はどうする? 研究に使うのか?」
『そうですね………』
まさか、このホムンクルスの少女で人体実験をするつもりではないだろうな? フィオナは優しい性格だから、本当にマッドサイエンティストだというわけではない筈だ。人体実験をするわけがない。
首は縦に振らないでくれと祈りながら息を呑み、考え込むフィオナの顔を凝視する。
『………あははっ、そんな事しませんよ』
「よ、よかった………」
『今、この子のために義足を作ってるところです』
「義足? 俺の義足みたいなやつか?」
『いえ、機械で作った義足に挑戦しているんです。力也さんが端末で生産する兵器に影響を受けまして………』
「機械か………」
この世界に機械はないからな。代わりに魔術が発展しているんだが、おそらく機械が発展していないのは、魔力は魔術を使うためのエネルギーだという認識を持っているせいなんだろう。この世界の人々に、魔力を魔術のためのエネルギーとしてではなく、それを動力源として巨大な機械を動かすという発想はないらしい。
もしフィオナが魔力で動く機械のようなものを発明し、それが世界中に普及すれば、この中世ヨーロッパに似た異世界で産業革命が起こるに違いない。
産業革命の片鱗を、彼女は造り出そうとしている。
「それで、義足を作って彼女にプレゼントした後はどうする?」
『はい。彼女を保護して、研究を手伝ってもら―――――――』
遺跡の地下から回収してきた少女をこれからどうするか説明していたフィオナの顔が、ちらりとベッドを見ると同時に凍り付いた。まるで説明するために用意していた言葉を全て抜き取られ、そのまま放置されてしまったかのように硬直してしまったフィオナ。どうして彼女が凍り付いてしまったのかを理解した俺も、ぎょっとしながら静かにベッドの方を振り向く。
真っ白なベッドの上で、純白の毛布をかぶって眠っていた筈の少女が――――――ミステリアスと禍々しさを含有する真紅の瞳で、俺とフィオナを見据えていたのである。
「……おい、お、起きてるぞ………」
『………!』
最古のホムンクルスが、ドルレアン邸の医務室にあるベッドの上で目を覚ましたのだ。
傭兵を続けていたせいで、警戒心が滲み出すと反射的に右手を腰のホルスターへと伸ばしてしまう。だが、相手はいくら最古のホムンクルスとはいえ、普通の人間と変わらない幼い子供なんだ。俺は敵に全く容赦はしなかったが、幼い子供は一度も殺していない。もしホルスターからハンドガンを引き抜く羽目になったとしても、威嚇射撃で済ませるつもりだ。彼女が俺たちに襲い掛かって来るのならば、格闘で昏倒させるしかない。
すると、リディア・フランケンシュタインはゆっくりと起き上がった。培養液の中ではなく、医務室の中で眠っていることに驚いているのだろうか。眠そうな瞳を見開き、薬品の並ぶ棚や机の上の花を見渡してから、俺とフィオナをもう一度見据える。
「………リディア・フランケンシュタインだな? 言葉は分かるか?」
1000年以上前という事は、現在の言語ではなく古代語と呼ばれる大昔の言語が使われていた時代だ。だから今の言語で話しかけても、彼女にとっては全く聞いたことのない異国の言語と変わらない。
知り合いの中で古代語を話せるのはガルゴニスだけだ。彼女に通訳をお願いするべきだったと後悔しながら問い掛けたが、俺を見つめていたリディアは目を少しだけ細めたかと思うと、驚くべきことに首を縦に振った。
今の言語が分かるのか………?
全く聞いたことがない筈の現代の言語を理解していることに驚いたけど、驚愕は溶けていく氷のように消え去り、新たに違和感が俺の脳裏を侵食する。
目を覚ましたリディアは、全く言葉を喋る気配がないのである。
普通ならば、ここはどこなのかと質問して来る筈だ。混乱していて質問できないだけなのかもしれないが、混乱しているにしては全く感心していないかのように落ち着いている。なのに、彼女は黙って俺とフィオナを凝視するだけだ。
「………喋れないのか?」
「………」
首を横に振るリディア。俺たちの言語を理解し、自分も話す事ができる筈なのに、なぜかこの少女は全く喋らない。遺跡の中から連れてきた時もずっと眠っていたのだが、その時は寝言すら言わなかった事を思い出した俺は、何も喋らない彼女を見つめながら首を傾げる。
「何か、喋れなくなる呪いでも受けているのか?」
「………」
また首を横に振るリディア。呪いを受けていないなら喋れる筈だ。このように質問していれば辛うじて意思疎通はできるが、こちらが彼女の気持ちを予測して質問しなければならないから手間がかかってしまう。
肩をすくめてから頭を掻き、「変わった奴だ」と言いながら息を吐く。
勝手に遺跡の中から連れ出した俺たちに敵意を持っている様子はないため安心したが、これからこの喋らない少女とどうやってコミュニケーションを取ればいいのだろうか。それに、義足を付けた後はリハビリもしなければならない。
リハビリが終わって動けるようになった後は彼女を保護する予定だが、さすがにモリガンの本部は転生者の襲撃を受ける危険性があるため、しばらくドルレアン邸で預かってもらう予定だ。カレンとギュンターは、きっと彼女との意思疎通に苦戦する事だろう。
すると、ベッドの上のリディアが毛布の中から痩せ細った手を伸ばし、手招きを始めた。生命維持装置の中で眠っていたとはいえ、1000年以上も何も食べていなかった彼女の手はぷるぷると震えていたけれど、どうやら俺を呼んでいるようだ。
返答してもらえないだろうと思いながら「どうした?」と問いかけ、彼女の傍らへと向かう。近くにあった椅子に腰を下ろすと、リディアは手招きしていた手で自分のお腹に触れ、震えながらお腹をさすり始めた。
お腹が空いてるのかな?
確か、まだ制服のポケットの中にドライフルーツが入った小さなケースが入っていた筈だ。戦場での食事のために用意してもらった非常食だが、彼女の口に合うだろうか。
ポケットの中から非常食の入った小さなケースを取り出し、蓋を開けてから中に入っている小さなドライフルーツをいくつか差し出す。ドライフルーツを見たことがなかったらしく、容器の中から現れたドライフルーツを見たリディアは警戒していたみたいだけど、甘い香りは嗅ぎ慣れた香りだったようで、ドライフルーツを痩せ細った手で掴んでから口へと運んだ。
「………!」
「美味しい?」
「……! ………!!」
首を縦に振り、目を見開きながら更に手を伸ばしてくるリディア。やはりお腹が空いていたらしいが、小さなケースに残っていたドライフルーツでは満腹にならないだろう。
「ちょっと待ってろ。………フィオナ、厨房に行ってくるからこの子の面倒を見ててくれ」
『あ、手料理をご馳走してあげるんですか?』
「ああ。お前の料理ほど美味くはないだろうけどな」
前世の世界では1人暮らしをしていたから、エミリアやフィオナのように美味い料理を作れるわけではないが、俺も料理は得意だ。
フィオナにリディアの面倒を見てくれと頼んだ俺は、彼女に何を作ってあげようかと考えながらドルレアン邸の厨房へと向かった。




