石楠花の衝撃
有給休暇を取得し、実家へ帰省した咲希。その先に待っていたものは?
有給休暇の残りは約一週間。私は怪我をした父親の役に立てればと、実家の旅館を手伝うことに決めた。学生の頃まではよくバイトがてら手伝ったものだ。だから、勝手は分かる。昔から父親と母親は、客商売が好きな私にあとを次いで欲しいって言ってたけど、私は次ぐ気はさらさらなかった。私には五歳離れた弟がいたし、何より〈お嫁さん〉になるのが私の夢だったからだ。なのに今の私ときたら宙ぶらりん状態。仕事も初めからスーパーに勤めていたわけではない。去年までは証券会社でバリバリのキャリアウーマンだったのだ。だけど、彼との時間を大切にしたくて周囲の反対を押し切り退職したんだ。
「そうだ、思い出した。何もかも彼の為にやったんだ。だけど、彼のせいで私の人生の歯車が狂い始めたんだ」実家に帰省するまでの間忘れていた、彼への想いと怒りを思い出した。「何もかもアイツのせい。私より幸せになることは許せない…」
「き…希…咲希…聞いてんのが?」「ん?あっ、ゴメンお母さん」いけない独りの世界に没頭していた。「大丈夫がぁ?このビールさ、石楠花の間のお客さんとごさ運んでけろ」「うん、わかった。石楠花の間ね」私は御盆に乗った三本のビール瓶を片手で、ヒョイと受け取ると石楠花の間のお客さんの元へ向かった。長い渡り廊下を一本隔てたとこにある離れの部屋が石楠花の間だ。数年前増築したばかりで木の匂いがする。料金が他の部屋より割高なので、トクベツな客以外宿泊しない。「どうせ、金持ちのじじいだろうな?」私はあることないこと考え部屋のドアをノックした。
「失礼します。お飲み物をお持ち致しました」「おぉ、ここに置いてくれ」顔を上げた私は呼吸が止まる程の衝撃を受けた。何と付き合っていた彼と顔が似ていたのだ。「何んだい?僕の顔に何か付いてるのかい?」「い、いえ。ここに置きますね。それじゃ失礼します」客は不思議そうな顔をする。こんなドラマみたいな偶然に遭遇するとは思いもしなかった。深呼吸して呼吸を整えると厨房へと向かった。「お母さん、石楠花の間の人なんだけど…」「あぁ、白井さんが?一年前からちょくちょく泊まりに来てくれるようになった常連さんだべ。母ちゃんよぐわがんねぇげど、東京でIT関連の仕事してるって言ってだよ」何も聞いてないのに、知っている情報を母親は私に伝えた。衝撃を受けた私は軽い目眩を覚え、少し休憩することにした。「白井さんか~でもよく似てたな~」失恋の悲しみと怒りを忘れるはずだったのに、傷口はさらに広がりを見せた。
石楠花の間にいた白井さん。失恋した咲希の心の傷口を開く引き金になった。