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死神の後見人

作者:

二人ばかり人が死にます

「うちの子がね、さっき初めて寝返りを打ったんだって」

 目の周りを赤く染め、男は嬉しげに語った。窓の外で桜がはらはらと舞う、春うららかな陽気の日であった。彼の娘は3ヶ月前に生まれたばかりで、その日から初めての出張だった。娘の成長の瞬間を1日違いで見逃したこと、家族と喜びを分かち合えなかったことに若干の寂しさを感じ、話し相手を探して、このバーを訪れたのだった。

「一週間で成長したのかな、明日顔を見るのが楽しみでね……」

 酔いの勢いもあり、彼は誰彼かまわず客を捕まえては、娘の愛らしさと大切さ、その瞬間を目にできずどれほど悔しかったかと懇々と語って聞かせた。バーの落ち着いた雰囲気を愛する常連客達はこの酔漢に閉口し、苦笑いしつつ早々に退散していったが、今彼の話を聞かされている痩せた男は、嫌がる様子もなくその長話に付き合い、酒を奢られていた。

「あの子もそのうち上の坊主みたいに騒がしく走り回るようになるんだろなあ、お父さんきたなーい!なんて言われたら立ち直れないよなあ。恋人連れてきりしたら泣いちゃうよ、もう」

「でも、あの子が幸せでいてくれたらそれでいいかな。元気に幸せに育ってくれたら俺のことどう思ってたっていいや」

黙って話を聞く痩せこけた男の顔を、微かな悲しみの影のようなものが過った。

では、きみの娘がそうであるように。この一杯の酒の返礼として、その子が幸福で健康であるように、わたしは心を砕こう。

「あんた、どうしたの……」

 突然の奇妙な発言に目を剥いた彼の前で、痩せた男は翼を広げるように立ち上がった。

わたしは死神なんだよ……

 髑髏の眼窩を呆けたように見上げる男の背に、バーの扉の凝った装飾を轢き砕きながら、スピードを出しすぎて角を曲がり切れなかったトラックが突っ込んできた。


 少女は砂場で遊ぶのが好きだった。

上の兄は年齢の割にかなり大人びた少年で、遊びに出かけるよりも祖母を手伝って家事をすることを選ぶような性格だった。年が離れていることも手伝って、その陰のある表情は少女からすれば近づきがたいものであり、やんちゃで、ややもすると乱暴な性格である下の兄は、少女を伴ってはできないような荒っぽい遊びを好んだ。いつも忙しく働いている母も、家内の仕事を一手に引き受ける祖母も、なんだか瑣末なことにかかずらわせてはいけないような存在に思え、遊びに誘うことはできなかった。

一緒に遊んでいる友達が一人減り、二人減り、ついには誰もいなくなっても、少女は一人で砂遊びを続けた。そうして一心に砂いじりに没頭していれば、いつか誰かが迎えにきてくれるような気がするのだった。こんなに遅くまで外にいちゃいけません、とやさしく叱ってくれる誰か。手を繋いで一緒に家まで帰ってくれる誰か。君が世界で一番大事だよ、と抱きしめてくれる、いつも気にかけてくれる誰か。勿論そんな人は現れず、毎日暗くなる頃には自分で家に戻るのだったけれども。

 その日は街のどこかで子供向けのショーがあるという話で、いつも一緒に遊ぶ友達は皆、出払ってしまっていた。下の兄はちゃっかり友人の家族と一緒に出かける算段をつけており、それによってイベントの存在を知った上の兄が、おまえも行きたいか、と聞いてくれたが、少女は断った。いつも何かしら物事を抱え、忙しくしている兄に、余計な面倒をかけてはいけない、となんとなく思ったのである。上の兄は少し悲しそうな顔をしてそうか、と言うと、それ以上聞いては来なかった。

 そんなわけで、少女は一人で砂遊びをしていた。いつものことだから寂しくはなかったけれども、みんながどこかで自分抜きに楽しく遊んでいると思うと、少しつまらないような気がした。

砂山に穴を穿っているときに、ふと誰かに呼ばれた気がして振り向くと、ささくれて汚いベンチに男の人がひとり座っていた。公園に来るにしては妙にきっちりした身なりをしている、背の高い人で、いつか本で読んだミイラのように痩せこけていた。その人は少女に向かって、もう一度きちんと挨拶した。低い、かすれた、囁くような声だった。

こんにちは。

「こんにちは……」

 兄や祖母、先生には、知らない人とは関わるなと言われていたけれど、具体的に知らない人の何が危険であるのかをちゃんと頭に描けていなかった少女は、その人と少し話をすることにした。

「おじさん、誰?」

わたしは死神だよ。

「死神さん?」

 少女は乏しい知識の中から、絵本に出てきた骸骨のおばけの姿を思い浮かべたが、目の前の男とその怪物じみた姿はどうしても結びつかなかった。

「じゃあ私を連れて行くの?」

いや、連れて行かない。今はまだ。

 死神と名乗った男はひどく無口な上に、子供に慣れていないらしく、自分から話しかけたにも関わらず、少女と話を続けるのに苦労している様子だった。おまけに表情豊かでもなく、その態度は全く子供と話すためのものではなかったが、自身あまり話すのが得意ではない少女には、それはかえって好印象であった。

「連れて行かないなら、どうして私と話をしてるの?」

きみに会いに来た。わたしは、きみを幸せで健康でいるようにするために手を貸すと、きみのお父さんと約束したのだよ。

「お父さんは星になったってお母さんが言ってたよ」

いや、星にはいないね。

 ぽつりぽつりと、インクをこぼすように途切れ途切れに話をしていた男が、そこだけはいやに素早く否定したので、少女は思わず吹き出した。

「じゃあどこにいるの」

きみにもその内分かる。

「分かるの?いつ分かるの?」

遅かれ早かれいずれ必ず分かることだよ。だから急がなくてもいい。

 無口な死神を相手にして、自然と少女は喋る側に回る。この前食べたケーキがおいしかった、だとか、下の兄が採ってきたトカゲがとてもかわいいと思ったのに、ちゃんと見せてもらえなかった、だとか、そんなことに大人の人が興味を持つとは思えなかったけれど、少女の日常には、是非話すべき大イベントなどほとんどないのだった。そんな聞こうが聞くまいがどちらでもいいような少女の話を、死神は無表情ながら、時々相槌を打ちつつ真面目に聞いていた。やがて話し疲れ、黙ってしまった少女の目を見て、彼はぽつりと尋ねた。

きみ、幸せかい?

「……うん」

 遊び友達がいて、家族もいて、毎日ごはんも食べられて、不幸なことなんてないはずなのに、何が不幸だと言うのだろう。自分より不幸な人なんて星の数ほどいるというのに。しかし少女はなぜだか即答できず、その事に恥じ入って下を向いてしまった。その姿を見て死神はしばらく逡巡した後に、少女の頭にそっと、恐る恐ると見えるほどそっと手を置いた。冷たくて骨ばった手だった。

ごめんよ。

「なんで謝るの」

ごめん。

「なんで」

 なぜだか声がかすれた少女の頭を、やはり慣れない手つきで撫でながら、死神は相変わらず、変に苦労しつつ言葉を紡いだ。

幸せにおなり。誰に気兼ねすることもないんだ。きみは、幸せになっていいのだよ。

 少女は幼くて、その言葉の意味はよくわからなかったけれど、なぜだか涙が出そうだった。だが、泣いてしまえばますます相手を困らせるだろうと思い、少女は涙をこらえて洟をすすった。

「死神さん」

なんだい。

「また会える?」

うん。

頭に触れていた手が離れ、少女が下を向いて、上を向くと、そこにはもう誰もいなかった。大人の人とこんなに沢山話をしたのは初めてだった。


 その日は、下の兄が友達と遊びに行くというので、上の兄が一緒に行けと送り出してくれた。最初こそ普段と違う遊び相手にわくわくしていたが、兄の友人が年下の子を疎んじる雰囲気や、妹を気にして、友人と思うさまはしゃげない兄の様子に気づき、離れて一人で遊んでいるうち、いつの間にか皆の姿を見失ってしまった。

 ここまで来る道程は、兄とその仲間の背中を追うのに必死で、帰り道を覚える余裕などなかった。少女はそこでひとり座り込み、兄は友達の方が自分より大事なんだ、誰も自分の事など気にしやしないんだと、自己憐憫に浸っていた。夕暮れの街角を歩いて行く人々は、誰もが忙しそうで、誰もが大切な用事を抱えているようで、途方に暮れてうずくまる少女のことなど気にかけもしない様子だった。家々の窓に灯りはじめた明かりのどれかには、この人達の帰る場所があるのだ。だからみんなこんなに急ぐんだ。私にはそんなもの、と膝に顔を埋める少女の前で、足音が止まる。顔を上げると、背の高い人が少女を見下ろしていた。その姿には見覚えがあった。

「死神さん?」

おいで。帰ろう。

 死神は相変わらず無口で、そう言ったきり口をつぐんでしまい、少女はその横顔を伺いながら隣を歩いた。その顔は前に会った時よりも更に痩せて見え、髑髏じみてさえいた。手を出しかけては引っ込め、伸ばしては戻し、かなり長いこと躊躇った後、少女はその手袋に覆われた手を握った。瞬間彼は立ち止まり、少女の顔を凝視したが、だからといってどうするでもなく、再び歩き出したので、少女は安心してその手を握り続けた。記憶にある通り、冷たくて骨ばった手だった。少女は死神に追いつこうと少し早足になり、死神は少女に歩調を合わせるべく、ごくゆっくりと歩いた。ふたりはしばらくそうして連れ立って歩いていたが、徐々に沈黙が不安になり、少女は口を開いた。

「怒ってる?」

怒ることがあるとすれば、きみが自分を蔑ろにしすぎている点だろうね。

「ナイガシロに……」

きみがそうされているように、きみもきみのことを大事にしなさい。

 誰も私の事を大事になんてしてないもの、と少女は胸の内で思ったが、口には出さなかった。それでも見上げる視線に何か感じたのか、死神は珍しくふっと笑った。それはさざなみのように顔を行き過ぎたに過ぎず、笑いと呼べるほどはっきりとしたものではなかったが、少女は敏感にその変化を認め、やや気を悪くした。

「なんで笑うの」

 彼は答えず、もう一度微笑した。今度ははっきりと。そして少女の手を軽く握り返し、それから手を離した。

ほら、お行き。

 少女の名を呼ぶ声が聞こえた。上の兄だった。兄は少女を抱きしめ、だめじゃないか、と言葉だけで叱り、それから安心したように力を抜いた。少女はその顔に涙の伝った跡を見つけた。

 家では泣き腫らした顔の下の兄が待っていて、少女を認めるなりごめんよごめんよ、と更に泣き、ますますひどい顔になった。ほどなく帰ってきた母と祖母に代わる代わる抱きしめられ、少女はその日初めて声を上げて泣いた。ただでさえ心配をかけたのに、泣いてこれ以上困らせてはいけない、と思ったが、一度出てきた涙はなかなか止まらなかった。


 少女がいくらか年齢を重ねて少女でなくなり、中学に上がる頃、祖母が倒れた。癌だった。気づいたときには末期で、手の施しようがなかった。

気風のよかった祖母は、見る間に痩せ衰え、ベッドに括りつけられて、日がな一日いたいよいたいよ、と繰り返すだけの存在になり果てた。いつも家事をしていたあの祖母はどこに行ってしまったのだろう。娘はその姿を思い出そうとしたが、たった半年前の事なのに、目の前の祖母の姿に塗り替えられたのか、記憶は雲がかかったようだった。祖母はほどなく死ぬ。弱っていく老婆の姿を目の前にすれば、それは肌で感じ取れる、避けようのない現実だった。お父さんが逝った時よりずっとましだわ、覚悟ができるものね、母はそう言って力なく笑った。

いよいよ老婆の死が近づき、親族しか入れないはずの病室に、影のように滑り込んだものがあった。その正体に気づき、娘は声を張り上げた。

「だめ!!」

それは翼をはためかせるように裳裾をひるがえし、立ち止まって娘を見下ろした。その顔の正中線から左半分は、歯を剥きだしたされこうべであり、その虚ろな眼窩に表情は読み取れなかった。それはしばらく娘を見つめ、あの囁くような声でいった。

これはわたしの為すべき事なのだ。邪魔をしないでくれ。

「だめ!!来ないで!!」

 死の床で、癌に痛めつけられて体力を失い、モルヒネが打たれ、すでに意識もないはずの老婆は、それでも空気を求めるように悶え、闇雲に口を開閉した。祖母の死への覚悟ができていた筈の母は半狂乱で医師にすがりつき、助けて、お母さんを死なせないで、と泣きわめいた。

上の兄が口を開いた。彼の表情にはその年にして、すでに老いの影が現れていた。

「かあさん、もういいよ。ばあちゃんがかわいそうだよ」

 下の兄はだまって祖母の手を握っていた。彼はやんちゃで粗暴だったが、その手をかけさせた分だけ、祖母に可愛がられていた。働きに出ていた母に代わり、幼い彼の面倒を見ていたのも祖母だった。

その間もずっと、死神は娘の目を見つめていた。娘も死神の虚ろな眼窩を見返し、一歩退いた。死神は進み出ると、老婆の額にそっと触れた。老婆はひとつ長く息を吐いた。それで終わりだった。


 はらはらと桜が舞う日だった。娘は晴れやかな顔で、ひとり大学の校門を潜った。そして、人混みの中に見覚えのある姿を見つけ、駆け寄った。

「死神さん!」

 彼は立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。その顔はやはり半ば髑髏であったが、娘は怖じず進み出ると、その前に立ち、まっすぐに彼の目を見つめた。

きみは、わたしを憎んでいるものと思っていたよ。

「そうだよ、私あなたを一生ゆるさない」

うん。

「だから私、医者になるの。誰も死なせない。あなたの仕事を無くしてやるの」

そうか。

 娘は胸を張り、挑戦的に死神を睨み上げた。死神はその姿をじっと見つめ、微かに目を細めた。

「他になにか言うことはないの?」

おめでとう。

 娘の顔がくしゃりと歪み、見る間に涙をこぼしはじめた。死神は慌てたように身を屈め、おろおろと娘の様子を伺った。娘はその腕にすがりつき、なおもしゃくりあげた。

なぜ泣くのだね。

「私頑張ったんだよ」

うん。

「褒めてよ。お父さんの分も褒めてよ」

 死神は開いている側の手の置き所に迷い、しばらく宙に彷徨わせていたが、やがてはじめて会った時と同じように、娘の頭に掌を置いた。

ごめんよ。

「謝らないでよ。仕方なかったんだって、言ってよ」

そうだ。だが、ごめんよ。

「あなたは悪くないんだもの。謝らないでよ。おばあちゃんを見捨てたのは私なんだもの……」

 死神の長身が翼を畳むように項垂れた。

ごめんよ。

「だから」

わたしはきみを不幸にしたのだね。

「私はずっと幸せだったし、今だってそうだよ。私に幸せになれって言ってくれたの、あなたじゃない」

はじめにそう言ったのはきみのお父さんだよ。

「お父さんのこと、全然覚えてない。誕生日から今日までしか一緒にいられなかった人だもの、あっちだって私のことなんて全然知らないに決まってる」

娘は死神の胸元に甘えるように頬を埋め、背に腕を回した。古紙の匂いがした。

「うれしかったの。私のこと気にかけてくれるひとがいるんだって思ったの」

 死神は娘の背のあたりにぎこちなく手を触れた。

今日はきみのお父さんが死んだ日だけれど、君が初めて寝返りを打った日でもあるんだよ。

 死神は娘の涙で汚れた顔を見つめ、目をわずかに細めた。

きみのお父さんは、そういって随分喜んでいたのだよ。きみにしてみればそんなものは、些細なことかもしれないがね……。

ねえ、きみ、幸せにおなり。


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