表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

一番スゲェのはプロレスのレフェリーなんだよ!

作者: つばこ


 梅津田助うめずたすけは、超一流のプロレスラーだった。


 もっとも梅津、という名前は世間の知名度は低い。梅津はマスクマンで本名を非公開にしているからだ。世間では梅津を『ザ・ストロング・ニンジャマン』という、マスクマンとして認識している。ニンジャの本名が梅津と知っているファンは、かなりコアなプロレスファンと言って良かった。


 梅津は190cmに120kgという恵まれた体格を持ち、身体能力も抜群に優れていた。その長身に似合わぬ機敏な動きはすぐに観客を魅了した。ドロップキック一発、むしろチョップ一発で観客を沸かせることができる。天性のカリスマを持った100年に一度の逸材だ。


 日本のプロレス界ではすぐに大人気になった。梅津の迫力ある動きに加えて、必殺の『ニンジャ・ボトム』という、高難度のオリジナル必殺技が大好評だったのだ。


 ニンジャ・ボトムは沢山の高難度ムーブによって構成されている。正調式な形は、まずトゥキックを腹に一発蹴りこんで相手を前屈みにさせ、腹を痛そうに押さえた相手の背中の上を転がって背後に素早く移動、そこからジャーマン・スープレックスでも出すように、相手の腰をがっちりクラッチ、そして頭上に高く持ち上げると、クラッチを離して素早くショルダーネックブリーカーの体制に移行し、相手の頭を肩と両腕で抱えたまま、自らも跳躍して飛び上がり、相手と一緒に地面と平行に落ちるのだ。特にジャーマンからショルダー・ネックブリーカーの移行、この難易度が高すぎて他のレスラーには真似できなかった。


 ニンジャ・ボトムのテンポの良さとリズム、そして高難度かつシンプルな必殺技、これには「痛いし誰でも負けるわ」という説得力が十分にあった。このフィニッシャーは日本を飛び越え、世界中のプロレスファンを魅了した。


 しかも梅津はバンプ、つまりは相手の「技を受けること」にも優れていた。プロレスは自分の強さを魅せつけるだけではなく、相手の強さも引き立たせてこそ一人前だ。お互いの肉体の力強さ、そこから生まれる技の強力さ、それらを存分に観客に見せつける格闘技のショー、それがプロレスだ。梅津はどんな技も完璧に受けてみせる。


「うわっ! 今のはニンジャが死んだよ!」


 と、観客が戦慄するほどのバンプを取って見せる。それでも梅津は何度も立ち上がり、カリスマオーラを放つ技を連打し、最後にはニンジャ・ボトムで相手を叩きのめすのだ。


 梅津の人気と活躍は日本を飛び越え、アメリカのプロレス界でも大ブームとなった。アメリカでもニンジャグッズは飛ぶように売れて、梅津はアメリカで最も有名な日本人、呼ばれるまで成長した。梅津はプロレスの歴史に名を刻みこむと、誰もが思っていた。


「なぁ、ウメちゃん、正気なの?」


 梅津は静かに頷いた。


「正気です。もうレスラーは引退し、レフェリーとしての人生を歩みたいんです」


 梅津の前には日本のプロレス団体の社長が座っている。昔はプロレスラーとして一時代を築いた男だ。もう年をとって引退しているが、今は最も規模の大きいメジャー団体の社長に就任している。


「ねぇ、ウメちゃんはまだ35歳だよ? まだ現役で十分に通用するよ。どこか怪我した、ということもないんでしょ?」

「ええ、体はどこも怪我していません」

「35歳で膝も首も背中も痛めてないレスラーなんて、恐らくこの世界でウメちゃんだけだよ。ウメちゃんはムーンサルトやプランチャといった空中技も出すのに。本当に奇跡的なことだよ」

「俺の体はダイヤモンドのように頑丈ですからね」


 社長は困惑しながらも、梅津にはっきりと告げる。


「ならまだ現役でやろうよ。ウメちゃんは大人気じゃないか。給料面の不満でもあるの?」

「いやいや、給料なんてアメリカに行けば、日本の5倍はもらえます。WWEの待遇は日本と比較にならないですよ。わざわざ契約を解除して日本に帰って来たのは、レフェリーをやりたいからです」

「レ、レフェリーをやるためだけに、WWEを辞めて来たの?」

「さっきからそう言ってるじゃないですか。まぁ、正確に言えばクビになったんですよ。俺がレフェリーやりたいって言ったから」

「そ、そんな理由で解雇されたの!」

「ええ、まったくアメリカ人は沸点が低いんだから」


 社長には全く理解できなかった。梅津はとにかくニンジャマンとして大人気だ。そして梅津はこの場でもニンジャマンとしてのマスクを被っている。梅津はとことんマスクマンという自分に拘っており、家以外の場所では素顔を晒さない。


「なんで!? なんでよりにもよってレフェリーなの! ブッカーになりたいのか?」

「ブッカーかぁ、いいですねぇ。それもいいなぁ」

「ウメちゃん、ブックのことなんて、オマケ程度しか考えてないね。あくまで本命はレフェリー、なの?」

「うんうん。そうなんです。レフェリーになりたいんです」


 梅津は頑固にレフェリーになりたいと主張している。『ブッカー』とはプロレスの台本を作る人間のことだ。プロレスはガチンコの格闘技ではなく、台本が存在する格闘技のショーだ。人間関係のトラブルから、様々なドラマを生み出したり、人間関係を対立させる『アングル』という名の仕組みも作る。人間がリングの上で殴りあうなら、それに伴う遺恨や理由を作るのだ。別に嫌いでもない相手同士が喧嘩するショーを見ても観衆は盛り上がらない。


「お前の存在が気に食わない! ぶっ飛ばす!」


 というお互いの殺意があってこそ、格闘技のショーは盛り上がる。それを考えて作るのがブッカーの役目だ。


「じゃあ、ブックも作らせてください。俺は世界最高のレフェリーになりたいんですよ」

「レフェリーの給料なんて、レスラーよりも圧倒的下だよ」

「ええ、それでいいですよ。どうせニンジャグッズが飛ぶように売れますから」

「ねぇ、本当なの? 正気?」

「だから正気だって、何度も何度も言ってるじゃないですか。レフェリーとして契約を結んでください」


 社長は何度も「本気なの?」と尋ねたが、梅津は頑固に首を縦に振った。社長としては梅津という大人気レスラーが参入してくれるのはありがたい、でもレフェリーなんてどう使えばいいんだろう、と激しく困惑していた。


「まぁ、ウメちゃんがウチに帰って来てくれるんだ。レフェリーでもいいか」


 社長はそう納得して梅津と契約を結んだ。梅津はアメリカのプロレス団体に引き抜かれてしまったが、元はこの日本のプロレス団体でデビューした男だ。社長は梅津の真意がさっぱり理解できなかったが、梅津はレフェリーとして古巣に凱旋することになった。


「ふぅ、これで俺も最強のレフェリーだ。さて、道場でも行ってトレーニングしてくるか」


 梅津は契約を終えて早速道場に向かった。団体のレスラーたちがトレーニングしたり、若手の人間に試合の組み立てを教える場所だ。梅津がひょっこり顔を出すと、懐かしい顔ぶれが驚いて梅津を迎えた。


「ウ、ウメちゃんだ! どうしたの!」

「やぁ、猛牛キャラでお馴染みの天さんじゃないですか、またお世話になりますよ。WWEをクビになったんで帰って来ました」


 梅津がそう言うと、レスラーたちは嬉しそうに歓声を上げた。梅津はこの団体を盛り上げた絶対的な人気者。帰って来てくれるのは大歓迎だ。


「ウメちゃん凱旋か! よっしゃ! また人気出るな!」

「よろしくお願いします。またお世話になりますよ」


 梅津が先輩に頭を下げていると、後輩のレスラーたちも嬉しそうにやって来た。


「ウメさん! お久しぶりです! また一緒にやれるなんて嬉しいっす!」

棚村たなむらじゃないか。今はお前が団体のエースなんだってな。試合はアメリカでも良く見てたよ。上手くなったし出世したなぁ」

「ウメさんのご指導のおかげっす! また一緒にタッグを組めるんですか!」


 棚村が嬉しそうに言うと、すかさず何人ものレスラーが声を上げた。


「いや、ウメちゃんとは俺が組みたいよ!」

「俺とやろうぜ! 空中技も覚えるよ!」

「今ヒールキャラですから、ウメさんとのアングル組みたいっす! これマジ!」


 梅津はレスラーの間でも人気だ。練習熱心で真面目、後輩の面倒も良く見るし問題を起こさない。そして試合運びは一流。梅津と絡むことが自らの人気を出す一番の近道だ。


「みんな悪いんだけどさぁ。俺、レフェリーになることにしたんだ」


 レスラーたちは梅津の発言に固まった。


「は、はぁ? 何でですか? どっか故障して引退するんですか?」

「引退ってワケじゃないけど、俺はレフェリーになりたいんだ。それもプロレス界最強のレフェリーだ。もう社長と契約もしてきた」


 レスラーたちは困惑して互いの顔を見つめた。人気プロレスラーがレフェリー専属になりたいなんて、前代未聞の発言だ。


「なぁウメちゃん、なにか、あったのか?」

「ええ、俺は世界各地のマット界を色々見てきましたけど、やはり俺はどうも納得できないんですよね。レフェリーが戦っているレスラーより弱い、しかも間抜けなんて。おかしいじゃないですか。強い男を決める裁定は、それよりも強い男がする、それが当たり前じゃないですか」


 確かには当たり前の話だ。でもそれを言ってはおしまいだ、と皆が思っていた。


「いや、ウメちゃん、レフェリーは弱くて間抜けじゃないとさ……。じゃないと、俺のヒールキャラも成立しないし、俺の自慢の凶器も使えなくなっちゃうじゃないか……」


 一人のヒールキャラである先輩が困ったように告げた。プロレスはリングに立つ一人のレフェリーが全てを判断する決まりだ。例えどれだけ下劣な反則行為を観客が見ていても、リングのレフェリーが見ていなければ許される。


 これはプロレスにおけるお約束事だ。そのためプロレスのレフェリーは異常に弱く、すぐに外野を見て間抜けな裁定を繰り返す。レフェリーが外野を見ている隙に凶器で殴ったり、反則技を繰り広げる。そしてレフェリーはよくレスラーの技に巻き込まれて、呆気無くKOさせられることがある。この隙にも凶器で殴りたい放題、となるのだ。これはプロレスにおける『高等技術』と認識される。どのスポーツでも審判の目を盗んで悪さをするものだ。別にプロレスに限った話ではない。


「そのレフェリーが弱い、間抜け、という概念を俺が覆しますよ。俺は最強のレフェリーになって、ビシバシやりますからね」


 梅津はそう言って、レスラーと同じようにトレーニングを始めた。筋肉トレーニングもリングでの練習も、レスラーと同じように行う。梅津はとにかく練習熱心で、人気レスラーになってもその精神は変わっていない。


 レスラーたちは梅津が何を考えているのかわからなかったが、まぁ、人気レスラーの梅津が帰って来たからいいか、と楽観的に考えていた。



 そして梅津のレフェリーとしてのデビュー戦がやって来た。場所は後楽園ホール。セミファイナルマッチのレフェリーとして梅津が登場する。梅津はまだニンジャのマスクを被ったままだ。レフェリーとしてもニンジャマンを貫き通すつもりなのだ。


「はぁ、レフェリーの衣装、いいねぇ。実にいい」


 梅津は鏡で何度も自分の姿を見つめ、控え室でそれぞれのレスラーにブックを説明した。


「え、ウ、ウメさん。それ、マジ?」


 セミファイナルマッチは、『インターコンチネンタルベルト』をかけた王座戦だ。今は高橋たかはしという名のヒールキャラがベルトを所持している。それに永西ながにしという名の先輩レスラーが挑む、というシングルマッチだ。


「マジだよ。そんな感じでよろしくね」

「で、でもおかしくないっすか? それじゃ、大混乱になっちゃいますよ」

「だから俺はプロレスの常識を変えるレフェリーであり、ブッカーでもあるんだ。ブック破りは罰金だぞ。永西先輩もよろしく頼みますよ」

「あ、ああ……わしは構わんで……」


 プロレスにはおける「ブック」は絶対だ。誰であろうとも破ってはいけない。プロレスとは筋書きのある格闘技のドラマなのだ。ドラマは筋書きが無いと面白くならない。相手の攻撃を丸まって逃げるのではなく、正面から受け止める。紳士的な格闘技のショーなのだ。


「よし! 行くぜ! ニンジャによる新しい伝説の始まりだ!」


 梅津はリングに走り、素早くマットに飛び乗った。その姿に観客は大きく沸いた。何と海外で活躍しているはずの「ザ・ストロング・ニンジャマン」だ。マスクを被っているが、下は黒と白のシマシマのシャツ。そして黒いパンツを履いている。レフェリーの衣装を着たニンジャマンだ。


「赤コーナー! 野人・永西ィーー!」


 永西の入場曲が流され、永西が吠えながらやって来る。パワーファイターである永西は自慢の筋肉をアピールしているが、それでも観客はニンジャマンこと梅津に釘付けだ。梅津は冷静にリングの上で立っている。


「青コーナー! インターコンチネンタル王者、高橋ィーー!」


 青コーナーからはベルトを巻いた高橋が出てくる。高橋は竹刀をブンブンと振り回し、近くの観客に罵声を浴びせながら入場する、というヒールのキャラの男だ。梅津はベルトを高橋から受け取り、両手に持って大きく掲げた。「これから始まるのはこのベルトをかけた王座戦だよ」と観客に伝えるためだ。


 観客はその姿に大きくざわめき続けている。「あれ、ニンジャだよね?」「何でニンジャがレフェリーやってんの?」「ニンジャの試合が観たいよ」とざわめきの声が大きい。ニンジャはどう見てもレフェリーであり、リングでは脇役の存在だ。ニンジャマンは永西や高橋より圧倒的に人気がある。それがレフェリーに徹するのは異様な光景だ。梅津はそんな会場の空気を無視して、ゴングを鳴らすように要求し、両手を大きく交差した。


「ファイッ!」


 梅津の声に合わせてカンカンとゴングが鳴り、永西と高橋がロックアップで組み合う。二人共、梅津が何を目的にしているのか知らないが、とにかくブック以上の試合を観客に見せなければならない。パワーファイターである二人は、互いの怪力を競いあうと、永西がヘッドロックで高橋の頭を締め付ける。


「ロープブレイク! ワン! ツー!」


 高橋がロープに逃げた。ロープに触れている相手には攻撃してはいけない。5秒以内に攻撃を止めないと反則負けになる。永西はロープから高橋を引き剥がし、反対側のロープに高橋を投げた。


 実際のところロープに投げられ、反動で元に戻って来るだけでも体は痛くて辛い。ロープとは案外硬くて痛いし、ロープまで走るのも疲れるのだ。高橋はロープの反動を利用して戻って来て、永西がその体を正面から抱えた。高橋を持ち上げて、水車落としで背面に叩きつけた。


「ファイッ! ファイッ!」


 梅津はとにかくそれだけ連呼している。永西はエルボーとストンピングを倒れている高橋に叩きこみ、高橋は慌てて場外に転がって逃げる。


「タカハシ! 戻れ! ワン! ツー! スリー!」


 梅津は高橋を叱って場外カウントを始める。プロレスは基本リングの外に出てはいけない。リングの外に出ると、20カウント以内に戻らないと負ける。高橋は困ったようにリングを見つめた。何ともやりにくい。偉大な人気レスラーの先輩がレフェリー、何ともやりにくい試合だ。


 永西はそんな後輩の気持ちを察し、トップロープの最上段に駆け上がった。観客の歓声が大きくなる。


「フォーーーー!」


 永西が右腕を上げて叫んだ。それを合図に場外に向かって飛び、ダイビングチョップを高橋に叩きつける。永西と高橋はもつれ合いながら場外に転がった。


「二人とも! 戻れっての! ワン! ツー! スリー!」


 梅津はサードロープに乗りながら元気よくカウントしている。高橋は永西に小声で囁いた。


(永西さん、助かりました。どうしたらいいか、わかんなかったっす)

(わしもや……。やりにくいのぅ)

(やりにくいっすね……)


 梅津は元気よくカウントしている。永西は高橋の頭を掴みながら囁いた。


(取り敢えず鉄柵に振るで)

(はい、お願いします)


 二人は小声で打ち合わせをして、永西が鉄柵に高橋を投げつけた。ガシャーンと大きな音をたてて高橋の体が鉄柵に倒れこむ。場外の客は近くでレスラーを見れるので大興奮だ。リングの外に出てはいけないが、時々は場外で乱闘して観客を盛り上げる必要がある。それがプロレスという格闘技のショーだ。


「セブン! エイト! ナァーーイン!」


 永西は高橋の頭を掴み、リング上に戻してやる。観客から永西のフェアプレイを褒める拍手が鳴り響く。20カウント数えたら負け、というルールを考えれば、場外でボコボコに痛めつけて放置しておけば勝てるのだが、プロレスはそんな卑怯なことはしない。それでは格闘技のショーとして面白くない。プロレスは紳士的な格闘技のショーだからだ。


「ファイッ!」


 梅津が再び跳躍しながら両手を交差させる。永西も高橋も「ファイッ! じゃねぇよ。やりにくいなぁ」と思いながら、逆水平チョップの打ち合いに入った。気合の入ったチョップをペシーン、これまたペシーン、と互いに打ち合う。それぞれの胸がチョップで真っ赤に腫れ上がっていく。こんな攻撃は痛いのだから避けてしまえばいいのだが、プロレスはそんな卑怯者がやる格闘技ではない。


「おら、これマジ!」

「まだや! うらぁ!」

「うおりゃぁ!」

「まだまだやぁ! うりゃ!」

「えぇーーーい! マジマジィ!」


 チョップの打ち合いを嫌った高橋が永西にエルボーを連打し、自ら反対側のロープに走った。ロープの反動を利用して加速し、ラリアットで殴りつけて永西をマットに倒す。


「フォォーーー!」


 倒された永西も吠えながらすぐに立ち上がり、自らもラリアットを繰り出す。高橋も気合を上げて叫び、さらにラリアットを繰り出し、リングは二人のラリアットの打ち合いとなった。観客はパワーファイターである二人の動きに満足して歓声を送る。


 永西が何度目かのラリアットを繰り出した瞬間、高橋がその腕をしゃがんで避け、自らの頭に永西の顎を固定し、地面に尻から着地した。高橋が得意とする顎への攻撃だ。永西が痛そうに顎を押さえながら跳ね上がる。高橋がそのままフォールに入った。


「ワン! ツー!」


 梅津が素早くカウントを数え、永西が必死に肩を上げる。


「ツー! カウント、ツー! ツゥーーー!」


 梅津が指を二本上げて、「今のはスリーじゃないよ、ツーだよ、ツー」とアピールする。プロレスは仰向けに倒されて、スリーカウントのフォールを取られると負けだ。それはプロレス初心者もご理解頂けるだろう。


「おら! おら! ウヒャヒャヒャ!」


 高橋は永西の頭を何度も踏みつけ、ヒールキャラっぽく下品に笑ってみせる。後頭部を蹴るのはプロレスにとって卑怯な禁じ手のひとつだ。何せ後頭部を思い切り蹴られたら、どんなに頑丈なレスラーでも失神してしまう。プロレスはそんな一撃で決まる格闘技ではない。それでは面白くない。観客はニタニタと笑みを浮かべる高橋にブーイングを送る。


「ギャハハハハ! これマジ!」


 高橋が永西にフェイスロックをかけて顔面を締め上げる。プロレスラーのフェイスロックというものも、素人が受けたら泣き出してしまうほど痛い。それを耐えるのがプロレスだ。これを痛いから「ギブアップ」してしまうと負けてしまう。それもプロレス初心者にもご理解頂けるだろう。永西は必死にサードロープを掴んだ。


「高橋! ワン! ツー! スリー! フォー!」


 高橋は反則ギリギリまで締め上げ、わざとらしく手を離す。梅津のカウントが止まると、またフェイスロックで永西を締め上げて攻撃する。反則も5秒以内ならセーフなのだ。


「タカハーーシ! ロープ! ブレイク! ワン! ツー! スリー! フォー! この! 高橋! 止めろっての!」


 高橋は梅津のカウントを無視して攻撃している。梅津はカウントを止めて高橋を引き剥がそうと試みる。そんな簡単に反則カウントを5つ数えない。それではあっさり試合が終わってしまう。面白い格闘技のショーにならない。


「ターカーハーシ!」


 梅津がブチ切れた。ここまで全部ブック通りだ。高橋は「うわぁ、久々にウメさんの技を受けるぞ、楽しみだぁ。大きくバンプしなきゃ」と思いながらも、梅津の顔を張り手でぶん殴る。


「うるせぇんだよ! レフェリーは黙れ!」

「タカハシ! お前! やりやがったなぁ!」


 梅津と高橋がリング中央で額をつけて睨み合う。観客は「やっぱりこうなった」と思いながらも、この展開に歓声を送った。


「レフェリーがガタガタうるせぇんだよ! 邪魔すると潰すぞ! これ、マジ!」

「俺のレフェリーに文句つけたな! くらえ!」


 梅津のトゥキックが高橋の鳩尾に入った。


「ぐほっ」


 高橋が腹を抱えて前かがみになり、梅津が高橋の背中をくるんと回転して背面に移動すると、観客は総立ちでその瞬間を待った。


「ニンジャ・ボトォーーム!」


 梅津が高橋の腰を持って高く掲げ、即座にショルダーネックブリーカーの体勢に移行して高橋をマットに叩きつけた。梅津の必殺技、ニンジャ・ボトムのお出ましだ。着地の瞬間に高橋が背筋を利用して50cmほど高く浮かび上がる。これがプロレスの技をより痛く魅せるバンプのコツだ。高橋は三度ほどマットをバウンドして完全に沈黙した。


(いいねぇ。高橋バンプ上手くなったなぁ。後で褒めてやらなきゃ)


 梅津が満足気に立ち上がると、永西が怒り狂って梅津の胸をどついた。


「な、なにしとるんじゃぁ!」


 レフェリーが対戦相手をKOしてしまったのだ。これじゃベルトを奪う王座戦にならない。邪魔された永西は当然ながら怒り狂う。


「わしの王者戦を邪魔しとるんかぁ! ああ!?」


 永西は顔を真っ赤にして怒鳴っている。これもブック通りだ。梅津は「悪かった。ごめんね」とばかりに両手を広げ、敵意のないことをアピールする。


「くそ、わしがベルトをもらうからのぉ! フォールしたる!」


 永西が梅津に背を向けた瞬間、梅津の手が永西の腰をクラッチした。そのまま永西の巨体を高く持ち上げる。観客は「うわぁ! またニンジャのフィニッシャーだ!」と総立ちになり、永西の体もニンジャ・ボトムでマットに沈んだ。


 梅津はマットの上でポーズを決め、リングサイドから『インターコンチネンタルベルト』を持ってくるように指示を出す。観客はみんな「ニンジャマンの凱旋だ。ニンジャマンがベルトを奪いにアメリカから帰って来たんだ!」と思っていた。梅津はマイクとベルトを持つと、高らかに叫んだ。


「みんな! 久しぶりだな。ザ・ストロング・ニンジャマンが、帰って来たぜぇぇぇ!」


 梅津の声に合わせて大きな「ニンジャ」コールが巻き起こる。梅津はこの団体でデビューした男だ。この団体の古くからのファンは、アメリカに引き抜かれた梅津というスターの帰りをずっと待っていた。コアなファンは「お前、梅津だろ!」「ウメちゃーん! お帰り!」と嬉しそうに叫んでいる。


「俺は、梅津ではない」


 梅津が言うと会場がどっと盛り上がる。マスクマンとしてはお決まりのフレーズだ。会場が必ず盛り上がる。


「俺は、ザ・ストロング・ニンジャマン! そして、この日から、世界最強のレフェリーになった!」


 梅津の足元にはニンジャ・ボトムでKOされて、気絶したフリをしている高橋と永西の姿がある。


「この試合、両者ノックダウンにより、引き分け! 高橋の王座防衛!」


 梅津はそう叫んで高橋の上にぽいっとベルトを投げ捨て、あっさりとリングを去って行く。会場はとんでもない展開にざわめきが止まらない。


「あー、終わった。やっぱり日本のファンはいいなぁ」


 梅津はあっさり控え室に帰って来て、汗をタオルで拭いてくつろいでいる。その姿を見て棚村が困ったようにモニターを見つめた。


「ウ、ウメさん。やっぱり、大混乱じゃないですか……」


 控え室には会場の様子を映すモニターがある。会場はまだニンジャコールが治まっていない。その声は控え室にも届いている。


「ふふっ、最強のレフェリーのお出ましに驚いたかな」

「いや、そんなレベルを超えてますって……」


 ニンジャ・ボトムでKOされた永西と高橋も控え室に帰って来た。そして困ったように梅津に告げた。


「ウメちゃん、これやばいで。会場、ウメちゃんの声援だらけや。これメインやる空気やないで」


 永西が汗を拭きながら告げる。この後はこの日のメインイベント、団体の最高のベルトをかけたシングルマッチだ。団体のエースに成長した棚村がチャンピオンベルトを所持している。それにヒール軍団の若手エースである、デストロール・ナカダ、という男の対戦だ。


「別にいいじゃん、ブック通りにやれば」


 梅津は平然と言うが、棚村もナカダも困惑していた。まだ梅津よりも若い二人だ。そして自分たちよりも、ニンジャマンである梅津の方が人気があることをよく理解している。会場は自分たちのメインイベントでは満足しないだろう。


「棚村さん、どうしましょう。棚村さんの必殺フロッグスプラッシュで、僕がフォール負けするはずですよね」


 ナカダはすっかり怯えている。


「そ、それじゃあ、このメインはやれないぞ……。2回、いや、3回飛ぶ。お前も必殺のナカダ・ドライバーを出せ。2回出そう。それを俺が返して盛り上げよう」


 ナカダも素直にコクコクと頷いた。「ナカダ・ドライバー」はナカダのフィニッシャーで、これまでこの技を食らった選手は絶対的に負けている。それを2回も返してみせると言うのだ。それだけの盛り上げが必要なメイン戦となることをナカダも理解している。


「わかりました。終盤で出して見せます」

「うん、三十分超えてからにしよう。それだけでも足りないなぁ……」


 棚村は梅津に頼み込んだ。


「ウメさん、メインのレフェリーもやってくれませんか?」

「え? メインはタイガーさんがやるでしょ。タイガーさんという先輩を出し置いて、後輩の俺がレフェリーやれないよ」


 タイガーさんとは、この団体の一番古株のレフェリーだ。数々の名試合に立ち会った大先輩。梅津は年配者を立てる、という体育会思想がしっかり根付いている。偉大な先輩にメインイベントを譲るのが当たり前だ、と考えているのだ。


「僕はいいよ。別にウメちゃんがやっても」


 タイガーさんは気を使って言った。タイガーさんも会場が梅津という存在を求めているのを悟っている。


「何を言ってるんすか。メインはタイガーさんしか考えられませんよ。タイガーさんがあってこその団体です」

「そう言ってくれるのは嬉しいけど、なぁ……」


 棚村が梅津の手を取って懇願した。


「ウメさん! お願いします! それなら乱入してください! これ梅津さんが出ないと会場納得しませんって!」

「レフェリーが乱入してどうするのよ。頑張って戦っておいで」

「でも会場は大ニンジャコールじゃないすか!」

「それを自分の声援に変えるのがプロってもんよ。俺もショーン・マイケルズと絡んだ時や、ブレット・ハートの後に試合をした時は緊張したもんだよ」


 梅津はもう今日の仕事は終わった、とばかりにくつろいでいる。棚村とナカダは泣きそうになりながらも、互いにリングに向かった。


「ニンジャ! ニンジャ! ニンジャ!」


 棚村とナカダの入場曲が流れ、棚村とナカダが雄叫びを上げながらリングに上がっても、会場の大ニンジャコールが鳴り止まない。棚村とナカダも団体のトップレスラーだが、如何せん梅津とは人気のグレードが違いすぎる。梅津は世界を股にかける生きる伝説、二人はまだ将来の成長が期待される程度のレスラーだ。


「くそぉ! やるしかないぞ! ナカダ!」

「はい! うおりゃぁぁぁ!」


 棚村とナカダは試合開始からフルスロットルで発進した。いきなりのグーパンチの殴打。激しいスープレックスの投げ合い。エルボーとストンピングの連打。とにかく二人は全力でメインを盛り上げた。何せ試合を開始しても「ニンジャ」を呼ぶ声が残っている。観客が梅津のことを忘れて、自分たちの試合に注目してくれないと興行として成功しない。


「アイツら気合入ってるなぁ。えげつない角度で落としやがる。いいねぇ。これ今年のベストバウト大賞いけるんじゃない?」


 梅津は控え室のモニターでのんびり試合を眺めていた。他のレスラー達も心配そうにモニターを見つめている。棚村とナカダのことが心配だ。このアウェー感が満載のリングでのファイナルマッチはなかなか精神的に辛い。そこにひょっこり団体の社長がやって来た。


「あ、社長、おはようございます。棚村とナカダ、素晴らしく成長してるじゃないですか。もう三十分になりますよ。なかなかタフなスターになりましたね」


 モニターの中では棚村が足四の字固めをナカダにかけ、必死にナカダがロープに手を伸ばしている。互いの額から血が溢れており、凄惨な流血戦を演じている。とにかく二人とも必死だ。


「なぁ、実はみんなに言ってなかったんだけどさ……」


 社長はすまなそうにレスラー達に告げた。


「実は今日、メインが終わった後に桜場さくらばさんと、柴木しばきが乱入するんだ……」


 梅津もレスラーたちも驚いて社長の顔を見つめた。


「桜場さんと柴木! 総合格闘技界の大御所に加えて、うちの団体を出て総合に転向した男じゃないですか! 二人にオファー出したんですか!」

「うん、暇そうだったからさ。総合格闘技も不況だし。この業界も助け合わないといけないしね」

「うひょー! やりますねぇ! 桜場さんと言えばミスター総合格闘技とも呼ばれた大スター! それに柴木も帰って来るのかぁ。単発ですか? それとも年間で契約したんですか?」

「単発なんだ。デカイ箱の時だけ来てもらう」

「いいなぁ。ウチの団体も波に乗ってるなぁ……って、アレ?」


 梅津はレスラーたちの顔を見て首を傾げた。みんな梅津と同じ反応だ。梅津と同じように「マジで!」と驚いている。これはこの業界では珍しい光景だ。


「もしかして、みんな知らなかったんですか?」


 永西が呆れたように社長に叫ぶ。


「そんなん聞いてまへんで! 誰と絡むんですか!」

「いやぁ……。みんなを驚かせようと思ってさぁ……。内緒にしてたんだ。アングルは会場の空気を見て決めよう、と思ってたんだけど……」


 社長は困ったように梅津を見る。レスラーたちはその視線で気づいた。


「ま、まさかアングルは流れで決める、ってことですか?」

「そう、柴木くんにマイクで喋ってもらうんだけど、お客さんの反応を見て、ベビーフェイスにするか、ヒールにするか決めよう、って思ってたんだ」

「そ、そんなのヤバイですって! 会場はニンジャコールがまだ残ってますよ!」

「そう、なんだよねぇ……。これは困ったねぇ……」


 社長もレスラーたちも梅津も困惑していた。社長は「たまにはレスラーたちにもお客さんと同じサプライズを味わってもらおう。きっと喜ぶぞ」と無邪気に考えていたのだが、梅津が会場の注目を完全に集めてしまった。これは想定外のケースだ。


「なるほど。アングルは出たトコ勝負ってことですか。これはアメリカでも良く見ましたね」

「そうなんだ、これ、失敗だったかな……」


 社長は肩を落として後悔していた。プロレスは基本的に、善玉ベビーフェイスと、悪玉ヒールの対決だ。歓声を浴びる人気者のベビーフェイス。それに対抗して反則技を繰り返して観客からブーイングを浴びるヒール。この対立構造が明らかになってないと、格闘技のショーの人気は必ず失速する。お客さんから声援と野次の両方を集めないといけないのだ。


 総合格闘技からプロレスに進出する選手が出る場合、この決断が興行としての未来を左右することになる。総合格闘技の組み立てはプロレスとは異なる。それに対応できる選手が対戦相手を勤めなければならない。これを決めるのもかなり神経質な問題だ。


 そして桜場という男は、総合格闘技で脚光を浴びたベテランのスター。柴木はブックがあるプロレスを嫌い、総合格闘技に進出して伸び悩んでいる若手。だが柴木は元々この団体出身の選手なので、ファンとしては「おかえり!」と祝福してあげたい気持ちもある。


 こうなるとベビーフェイスの声援を浴びる人気者として売り出すのか、団体に喧嘩を売ってきた外敵のヒールとして売り出すのか、この決断によって大きく流れが変わる。観客がベビーフェイスとしての二人を求めているのに、ヒールキャラとして売り出せば失敗する。その逆もしかりだ。だからこそ、社長はお客さんの反応が見たかったのだ。


「ベビーとしてやれそうならナカダと絡ませて、ヒールになりそうなら棚村と絡ませる、ってアングルですか」


 梅津が言うと社長は大きく頷いた。


「そうなんだ。棚村とナカダは一年に渡って抗争を繰り広げた。今日でそれを締めくくって、ヒールの外敵として棚村&ナカダに返り討ちにしてもらいたい、それが理想なんだ」

「でも観客はどっちを望むのかわからない。もしベビーになりそうなら、ナカダが所属しているヒールグループと抗争させるんですね」

「そうなんだ。その時はデストロール・コジマくんに乱入してもらおうかなぁ、と思ってるんだ」


 コジマは困ったように梅津を見つめた。今は棚村をリーダーとするベビーフェイスの本隊、それを潰そうと企むコジマをリーダーとする『チーム・デストロール』というヒール軍団の抗争によって、真っ二つに選手が分かれている。


「別に俺は大丈夫ですけど、ウメちゃんがなぁ……」


 コジマは梅津を困ったように何度も見つめた。コジマとしては桜場と柴木がどちらに転んでも構わないが、梅津という第三勢力が先ほど誕生してしまった。ニンジャの人気はブームになるほど物凄い。会場が桜場と柴木の対戦相手としてニンジャの姿を望む、そんな絵が誰でも予想できた。


 リングではそんな控え室の混乱を知らない棚村とナカダが激戦を繰り広げている。ナカダ・ドライバーがマットに突き刺さり、ナカダのフォールを棚村が必死に返している。長時間の流血も伴う激戦だ。それでも「ニンジャ」の声が完全に消えない。棚村はボディスラムでナカダをマットに投げつけ、フラフラになりながらナカダに囁いた。


(も、もう限界、フロッグスプラッシュで決めるよ)

(僕も限界っす。お願いします)


 棚村は最後の力を振り絞りトップロープの最上段に駆け上がる。そして高く跳躍してナカダの上にフロッグスプラッシュで飛び降りた。すぐさまナカダをうつ伏せにひっくり返して、再度トップロープからフロッグスプラッシュで飛ぶ。観客は「これで決まったわ」と思ったが、棚村は再度トップロープに駆け上がり、三度目のフロッグスプラッシュでナカダを完全に沈めた。


「ワン! ツー! スリィーーーーー!」


 棚村は激戦を制した。リングサイドで控えていた見習いレスラーがリングに上がり、必死に二人の血を拭い、何とか立たせる。棚村もナカダも「四十分も戦ったよ、もう立ちたくないよ」と思っていたが、プロレスはブックを終わるまでギブアップできない。プロレスは台本があるからこそ本当に過酷な格闘技なのだ。どんな怪我をしても台本が終わるまでリングアウトできない。


 これがプロレスにおける最も過酷な試練だ。「怪我しました。退場します」なんて甘いことは許されない。プロレスは激しい格闘技なのだから、当然アクシデントで怪我をすることもある。それでもブックを演じなければならない。首の骨が折れても相手をピンフォールする、脳震盪を起こして意識がなくても必殺技で投げる、耳が千切れても試合を最後まで闘いぬいたレスラーもいる。生半可な根性ではプロレスというショーはできないのだ。


「ナカダ、お前に、ひとつ、言いたい」


 棚村はマイクを持ち、こちらもフラフラになっているナカダに手を差し出した。


「お前、やるじゃないか。最高だよ」


 会場が握手を求める棚村のフェアプレイ精神に拍手を送る。長い抗争を繰り広げてきた二人だ。いくつもの因縁がある。それでも棚村はナカダを評価して、ナカダに握手を求めているのだ。ナカダがどんな反応をするのか、会場は緊張しながら見守った。


「あんたも、本当に、最高だよ!」


 ナカダがそう言って棚村の手を取り、棚村こそがナンバーワンだと高く掲げた。ナカダが所属するヒール軍団は「握手なんかしてんじゃねぇ!」とナカダを叱るが、それもブックのひとつだ。ナカダがここでヒールからベビーフェイスにターンする。会場の誰もがそう思っている時に、そのテーマ曲は流れた。


「お、おい! これ桜場のテーマ曲じゃん!」


 会場に大きなざわめきが走り、帰ろうとしていた客も慌てて席に戻った。そのざわめきに乗って桜場と柴木がスーツ姿でやって来る。リング上のレスラーは「え、聞いてないけど」と思いながら、二人の外敵を見つめた。レスラーたちも観客も困惑している中、桜場と柴木はリング上に飛び上がった。


「棚村、久しぶりだな」


 柴木がマイクを持ち偉そうに喋り始めた。先輩の桜場は背後で存在感を出している。棚村もナカダもブックに書かれていない展開に困惑している。


「お前と俺は同期だ。それが、お前は、今やチャンピオン。お前が? チャンピオンだって? 冗談じゃない! ベルトを巻く資格があるのは、この柴木、もしくは桜場さんだ!」


 柴木が怒鳴ると会場に歓声とブーイングが響き渡る。これは一番困る反応だ。観客は祝福とブーイングを両方送っている。ベビーフェイスにもヒールにもなりにくい。柴木は会場の反応を見ながらマイクで叫んだ。


「そして何だ? チーム・デストロールだぁ? お前らみたいなプロレスごっこしてる軍団なんて、いらねぇんだよ。俺が壊滅させてやる」


 柴木はヒール軍団まで挑発し、リング上では棚村率いるベビーフェイス軍団、ナカダの所属するヒール軍団、そして外敵である桜場・柴木組が三方向から睨み合った。会場は「棚村、やっちまえ!」「ナカダが潰しちまえ!」「桜場さん! やっちゃって!」という三種類の歓声が上がり、そして誰かが大声で叫んだ。


「ニンジャ!」


 控え室でモニターを見ていた関係者はその声に青褪めた。


「そうだ! ニンジャだ!」

「ニンジャ! やっつけて!」

「ニンジャ! ニンジャ!」

「ニンジャが倒せ!」

「ウメちゃん! ウメちゃん!」

「ニンジャ出てこーい!」


 会場は一気に「ニンジャ」コール一色に包まれた。棚村もナカダも柴木も「やっぱり」と思いながらリング上で睨み合った。大御所である桜場はこの展開に笑みを浮かべている。


(やっぱり梅津くんが呼ばれたよ。梅津くんは人気あるなぁ)


 ベテランである桜場はのんびり構えていたが、棚村とナカダと柴木はそんなのんびり構えていられない。このリング上で誰と誰が対決するのか、アングルの方向性を示す必要がある。それがないと乱入が不完全燃焼で終わってしまい、観客は納得することができない。


 柴木はマイクのスイッチを切り、罵声を何度も叫ぶフリをしながら棚村とナカダに近づいた。棚村とナカダもその仕草を見て、三人が額をぶつけて睨み合う。


(どうしよう。やっぱりウメさんのコールになっちゃったよ)

(何で柴木が出て来るんだよ。聞いてないよ)

(社長がサプライズしようと思ったんだって。どうしよう?)

(これどうすればいいですかね。僕がベビーターンしますか?)

(いやぁ、これはしないほうがいいだろ。三人で乱闘をして締めようぜ)

(そうだね。そうしよっか)


 三人は睨みあいながら細かい打ち合わせをし、柴木がまず二人に殴りかかった。棚村とナカダを張り飛ばし、ヒールもベビーフェイスも関係なくリング上でなぎ倒す。控え室にいたレスラーも慌てて飛び出した。柴木は一人で拳を振るっているが、桜場は遠目で余裕を持って見つめる、というスタンスを崩さない。必然的に数が少ない柴木が不利、その柴木の強さを引き立たせるため、リング上は柴木の無双状態と化した。レスラーを全員ナックルブローで蹴散らす、そして「ニンジャ」コールも最高潮に達した。


「ああ、ウメちゃん、やっぱり出てよぉ。コジマくんと永西くんが出ても、ニンジャコールが治まらないよ」

「でも俺はレフェリーですよ。レフェリーが出てどうするんですか」

「だってお客さんが呼んでるんだよ! ああ、最悪のタイミングで二人を出しちゃったよ」

「全くですよ。何でこの日に二人を乱入させるんですか。みんな可哀想に。ブックとアングルをしっかり作らないとプロレスは発展しませんよ」

「そ、そうなんだけどさぁ……」


 リング上では柴木が一人で全員を蹴散らしている。桜場がパイプ椅子を場外から持ち込むと、柴木は棚村とナカダに勢い良く打ち付ける。それでもニンジャコールが止まらない。リングからタイガーさんが走って来て、もう限界だと梅津に告げた。


「ウメちゃん! ダメだ! これウメちゃんが出ないと無理! 出てきて!」

「もうしょうがないなぁ。先輩のタイガーさんが言うのなら、しょうがないっすね」


 タイガーさんはレフェリーである梅津にとっての大先輩だ。梅津はその指示にしっかり従って、勢い良く控え室から飛び出した。


「ニンジャ! ニンジャがきたぁぁぁ!」


 梅津は会場の声援を受けてリングに上がると、柴木を正面から睨みつけた。


「柴木! 下がれ! もう帰れ!」

「うるせぇ! てめぇが帰れ!」

「お前が帰るんだよ! お前が来たんだろうが!」

「黙れ!」


 柴木は「ああ、もう来てくれるの待ってましたよ! ウメさんありがとうございます!」と思いながらパイプ椅子を持って大きく振りかぶった。大きなモーションで隙だらけだ。どうぞ腹を蹴ってください、とばかりにパイプ椅子を大きく振りかぶっている。梅津は「しょうがないなぁ」と思いながら、柴木の鳩尾にトゥキックを叩きこむ。


「うおおおおお! ニンジャ・ボトムだぁ!」


 梅津が前屈みになった柴木の背中を転がって背後に回り、その腰を持って大きく持ち上げた。柴木も梅津の後輩だった男だ。自らもジャンプして飛び上がり、梅津のフィニッシャーを受けてマットに沈んだ。観客はその日一番の大歓声を送った。


「ぎゃあああああ! ニンジャ! ニンジャ!」


 梅津はニンジャ・ボトムで沈黙した柴木を場外に蹴り出す。リングにはまだ大先輩である桜場の姿、エースである棚村、ヒール軍団のボスであるコジマが残っている。棚村が嬉しそうに梅津に手を差し出した。


「ウメさん! ありがとうございます! 待ってました!」


 棚村は梅津と握手し、リングからもう帰ろうと背を向けた。だが梅津が手を離してくれない。棚村が不思議そうに梅津を見た瞬間、梅津のトゥキックが棚村の鳩尾にぶち込まれた。


「うわぁぁ! 棚村にもニンジャ・ボトムだぁ!」


 棚村をニンジャ・ボトムで沈めると、コジマが困惑したように梅津に小声で尋ねた。


(ウ、ウメちゃん、何してんの? 棚村を投げちゃダメでしょ)

(いやぁ、アイツ握手なんか求めるから、投げて欲しいのかと思っちゃいました)

(ダ、ダメだよ、それじゃウメちゃんがヒールになっちゃうじゃん)

(そうですね。これは困りましたね)


 梅津は「ごめんなさい」とアイコンタクトを送り、コジマも「しょうがないね」と小さく頷いた。コジマは自ら梅津に背を向けて雄叫びを上げる。


「チーム・デストロールがこのリングを制した! ニンジャもデストロールのなか、まっ、うわぁぁぁ!」


 梅津がコジマの腰をクラッチして、高く頭上に跳躍させた。そのまま素早くショルダーネックブリーカーに移行して、ニンジャ・ボトムでコジマをマットに沈める。梅津に背後を取られると、この「簡略版ニンジャ・ボトム」でマットに沈められることでお馴染みなのだ。


 会場は乱入してきた外敵の柴木、エースである棚村、ヒールのボスであるコジマ、全てを粉砕した最強のレフェリー、ニンジャマンの姿を大歓声で讃えた。梅津は両手を上げて歓声に答えていたが、最後までリングに残っていた一人の男がマイクを持った。


「梅津くん、あ、いや、ニンジャマンだったね」


 桜場が楽しそうに梅津に語りかけた。


「さすがニンジャマンだ。僕は、君と、是非とも、戦いたいね」


 会場は割れんばかりの絶叫を送った。プロレス界の生きる伝説であるニンジャマンと、総合格闘技で時代を築いた大御所である桜場との対決。ファンが求めていたのはまさにこれだ。


「俺はレフェリーですよ。見ればわかるでしょ、ほら、黒と白のシマシマがお洒落」


 梅津が自らのレフェリーの衣装を示すが、会場も桜場も聞いていない。


(まいったなぁ。俺はレフェリーなのに。桜場さんはさすがに大先輩すぎて、ニンジャ・ボトムで投げれないぞ。それに総合が長い桜場さんじゃ、ニンジャ・ボトムのパンプが取れないだろう。危険すぎる)


 梅津が困惑していると、桜場が再度マイクを持って叫んだ。


「レフェリーなんて似合わないよ! やろう! ニンジャ! 僕と勝負だ!」


 桜場も時代を築いたスターだった男だ。会場の空気を読むことに長けている。それに現時点ではブックもアングルも決まってない。まさか梅津がレフェリー専属の契約になっているなんて、桜場は全く知らない。桜場が梅津とのアングルを作るのは必然とも言えた。


(桜場さん、ニンジャ・ボトムのバンプ取れます?)


 梅津はマイクを切って小声で尋ねる。


(いやぁ、あれは高等すぎる。ちょっと練習しなきゃ無理だよ)

(ですよね。じゃあジャーマンの体勢に入るんで、関節技で切り返してください。それで僕がタップするんで、そこでリングから消えましょう。最後は僕が叫んで締めてみせます)

(うんうん。いいね、さすが梅津くん、よろしくね)


 梅津は即座にマイクを捨て、エルボーで桜場に殴りかかった。トゥキックで相手を前屈みにさせて、その背中の上を転がるのも意外と難易度が高い。桜場ではそれも無理だろうと判断した梅津は、無理やり桜場の背後に回り、桜場の腰をクラッチした。この日、六度目のニンジャ・ボトムの登場の予感に、会場は凄まじい歓声を送った。


 だがそこはミスター総合格闘技、とも呼ばれた桜場だ。即座に丸まって梅津の片足を掴むと、素早く前転して裏アキレス腱固めに移行した。関節技に入る速度は圧倒的に速い。一気に梅津の足を締め上げる。


「いでで! ぐああああ!」


 梅津は少し耐えてみせたが、即座にタップして負けを示した。


「ギブ! ギブ! 痛い! 桜場さんマジで痛い!」


 桜場がその姿を見て満足気に関節技を解き、リングから飛び降りた。


「くそぉ! 桜場! やってくれるじゃねぇか!」


 梅津は足を押さえながらも、マイクを持って叫んだ。退場する桜場の背中に罵声を浴びせる。


「上等だ! てめぇやってやんぞ! このニンジャがお前らの喧嘩買ってやるよ! ちくしょう! 俺はレフェリーなのに! レフェリーなのにタップさせやがって! 次は必ず制裁してやる! 覚えてやがれ! 誰がこのマットの上で一番強いのか教えてやるよ! 俺は史上最強のレフェリー、ニンジャマン! 一番スゲェのはプロレスのレフェリーなんだよ! ニンジャマン、かく語りきだ!」


 梅津はそう叫ぶとリングから降りていった。会場はニンジャマンの凱旋、見応えのあるメインイベント、桜場と柴木の乱入、そのドラマチックな結末に、ようやくお腹いっぱいになった。興行としては大成功だ。梅津はカメラマンのインタビューを無視して控え室に入り、即座に不満をぶちまけた。


「もう社長! 俺はレフェリーだ、って契約じゃないですか! うっかりアングル組んじゃいましたよ!」


 梅津は不満気に叫ぶが、控え室にいたレスラー全員が梅津を拍手と笑顔で出迎えた。社長から「梅津をおだてるぞ。絶対怒ってるから。みんなで拍手ね」と指示されているのだ。


「さすがウメちゃん! 最高のパフォーマンスだったよ!」

「痺れました! あの混乱を締めてみせるなんて、さすがウメさん!」

「ウメちゃんと桜場さんの対決! これこそファンが求めているものだよ!」

「冗談じゃないって! 俺はレフェリー! 給料も安いんだよ!」

「契約をもう一度結ぼう! ね! ウメちゃんお願い!」


 梅津は怒り狂っていたが、そこには桜場の姿があった。しかも拍手して笑顔を浮かべている。これを見てはさすがに黙るしかなかった。総合格闘技の大御所まで拍手しているのだ。先輩を立てる梅津としては感情をぶつけることができない。


「梅津くん。良かったよ。君は華があるね。君とのアングルは嬉しいよ!」

「桜場さん、本当にすみません。後輩の僕が偉そうにブックを指示してしまって」

「気にしないでよ! 盛り上がったねぇ! こりゃ次が楽しみだ! デカイところでやろうよ!」


 桜場が嬉しそうに言うと、社長が素早くそれに乗っかった。


「いいね! ドームでやろう! 年始のドームイベントでシングルマッチ! これならお客さん盛り上がるよ! ウメちゃんの契約書も新しくしないとね!」


 すかさず空気を読んだレスラーたちがその考えを持ち上げる。


「いいですね! さすが社長! グッドアイデア!」

「桜場さんとウメちゃんのドーム! メインにしましょうよ!」

「桜場さんもウメさんも最高っす! これマジ!」

「この絡みは見たいのぉ! ウメちゃんやってや!」


 レスラーたちは必死に梅津が「ノー」と言えない空気を作っている。梅津も先輩や大御所である桜場がそこまで言うと、さすがに拒否することができなかった。


「はぁ、もうレフェリーがやりたいんですよ。だから日本に帰って来たのに、何でこんなことになっちまったんだ」


 梅津がぼやくと桜場が不思議そうに尋ねた。


「レフェリー? 何で梅津くんはレフェリーなの? セミファイナルでは投げてたじゃない。どこか故障してるの?」

「いや、故障はしてませんよ。ただレフェリーがやりたいんです」

「なんで? レスラーとしても十分イケるじゃない」


 梅津は自らの衣装を示した。


「試合を裁定するのは最強の男だ、という気持ちもあるんですけど、もうこうなったら本音をぶっちゃけますよ。俺はこのシマシマが好きなんです」


 梅津の発言に控え室は一瞬、沈黙に包まれた。


「え? ウ、ウメちゃん、その、シマシマ、好きなの……?」

「そうですよ、めっちゃオシャンティじゃないですか」


 梅津は惚れ惚れと自らの黒と白のタテシマ衣装を見つめた。レフェリーの代表的な衣装だ。


「もうすげぇクール。アメリカでこれが着たい、って向こうの社長にお願いしたんですけど、そんなもの認められるか、って怒られたんですよ。この芸術的に美しい黒と白のシマシマ。まさにシマウマ。すげぇゼブラ。僕はこのシマシマが着たかったんです」


 梅津は呆然とするレスラーたちに吐き捨てた。


「それでもこっそりマスクと衣装をシマシマにしたら、すげぇ怒られましてね。だったらやってられるか! ファック! って叫んだらクビになったんですよ。アメリカ人は理解力が足りないですね。だから日本でレフェリーがやりたいんです」


 社長がおずおずと尋ねた。


「え、そ、それだけなの?」

「すんません。実はそれだけなんです」

「あ、あの、ウメちゃん、正気?」

「正気に決まってるじゃないですか。レフェリーやらせてくださいよ」

「べ、別にそれを衣装にしても、うちは構わないけど……」


 梅津は口をぽかんと空けて尋ねた。


「え? いいんすか?」

「いいよ……別に……」

「でもレフェリーと混同しちゃうから、テレビ向きじゃないですよ」

「別に構わないよ……。レフェリーの衣装を、変えればいいし……」


 梅津は膝をパンと叩いて立ち上がった。


「それを早く言ってくださいよ! なら全然オッケー! 桜場さん! ドームでやりましょう!」


 梅津は嬉しそうに飛び上がり、桜場と元気よく握手した。この日からゼブラ模様に身を包んだ『ザ・ストロング・ニンジャマン』は、再び日本のプロレス界を席巻することになる。なぜゼブラ模様のコスチュームに一新したのか、それはトップレスラーたちだけの秘密だ。そして梅津にも尋ねてはいけない。なぜならプロレスは紳士的な格闘技のショーだからだ。




(おしまい)

ご愛読いただきありがとうございます。

プロレスに少しでも興味を持って頂ければ幸いです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 黒魔術でもことあるごとにフォーカスされているプロレスの話ということで、プロレスまったく分からないんですが読ませていただきました。 なんだか知らんが、作者さんが兎に角プロレスを愛していること…
[良い点] プロレスファンなら思わずにやりとしてしまう展開に、どこかで見たことのあるキャラクターたちのかけ合いが楽しかったです。 [一言] 「かく語りき」を出すとは、作者さんはガラガラヘビのファンです…
[良い点] 面白いです [一言] プロレス全く知らないんですが凄く楽しめました
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ