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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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夜の海

掲載日:2026/10/08

 七月二十六日、金曜日の、大暑を過ぎたばかりの午前二時頃であった。男はコンクリートの防波堤上に緑色の折りたたみ椅子をこしらえ、少し古くなってきた竿をしならせていた。海は多少波が立つものの極めて穏やかで、防波堤に優しく飛び込んでは自らを翻し、まるで戯れているかのようであった。


 男は帽子を深く被り、ただ海面に目線を向けていた。四十代半ばほどであり、四十路に足を踏み入れるのと同じくして釣りを始めた。この歳に至るまで趣味もなく、家庭もなく、役職もなく、胃もたれ故に口に入る揚げ物もなく、将来への不安がその虚空を埋めつくしていた。


 何故釣りを選んだのかの記憶もなかった。ただ釣りをしている間だけは、この息苦しい浮世を隅に追いやることができた。夜の海風にあたり、波の調べを聴き、磯の匂いを全身に取り込み、この雄大をしかと目に焼きつける、その時間が男にとっての至福であった。陰鬱に対するカンフル剤であった。


 ここに向かうのは、決まって仕事帰り、特に休日前夜であった。男の居室から車で約1時間の立地ではあったが、男はそれを全く苦にも捉えなかった。ここに来ることでしか得られないものがある、そう考える男にとっては、それにかかる手間は全くのはした金でしかなかった。


 その日の釣果は芳しいものではなかった。ルアーを投げ入れては巻き取り、また投げ入れる。それを何度繰り返しても、竿先にはこれといった反応はやってこなかった。


 男はそれでも、特に気落ちすることはなかった。釣れない日など珍しくもないし、そもそも魚を釣ることだけが目的でもない。海の息遣いを感じながら竿を振っていれば、それだけで今週の不平不満は幾分晴れていった。


 再びルアーを投げ入れた。漆黒の水面が小さく声をあげた。頃合いを見て、リールをゆっくりと巻き上げる。何遍かハンドルを回したところで、竿先が僅かに沈んだ。


 男の手が止まった。来たかと思い、少し強めにリールを巻き上げた。重い感触が手に伝わったが、その感触は魚のものには感じられなかった。


 根掛かりか、男はため息をついた。竿を軽く煽ってみた。一度……二度……。


 三度目に至って、突然抵抗が失われた。勢いの余り竿先が跳ね上がるほどであった。リールを巻いて仕掛けを手元に手繰り寄せると、銀色の小魚を真似たルアーが見当たらなかった。糸の先だけが目前で、所在なさげに夜風になびいていた。


 切れたらしい、小さな舌打ちを一つ響かせ、新しいルアーを取り出した。


 大方海中の岩にでも引っかかったのだろう、そう珍しいことでもない、そう思うことにして、新しいルアーを結び終えた時だった。


 ゴゴッ、と足元から音がした。硬いもの同士が肌寄せ擦り合うような、そんな音であった。


 男は手を止め、防波堤の下を覗き見た。微かな月明かりの下、暗い海がただ揺らめいているだけであった。


 小石が波に運ばれ防波堤に当たったのだろうか、それにしては釣りを始めて4年ほどしても聞き慣れないような、不可思議な音であったが……。


 それ以上を気に留めることはしなかった。男は改めて竿を手に取り、夜海の大口に稚魚を模したルアーを飛び込ませた。


 しばらくして、再び確かな抵抗を得た。今度こそと男は意気込み、竿を握る力を強め、リールを巻いた。


 しばしの格闘を経て、男は奇妙な事態に気づいた。明らかに魚の感触ではなかった。代わりに一定の間隔で下へと引く強烈な剛力を感じとり、その度に竿が大きくしなった。そしてその力と共に、先程と同じ、硬質な音が規則的に辺りに響き渡った。


 何かおかしい、どんな大物でもこうはならない、男は背筋に走るものを感じながらも、それに反して、その傑物を是非とも我が手中に収めたいという気持ちは留まるところを知らなかった。


 猛将と野心家の闘争の果てに、先に音を上げたのはまたしても釣り糸であった。男は反動で尻もちをつき、昂った心持ち冷めやらぬ間に防波堤の端へ駆け寄った。月明かりではあまりにも光量に乏しかったので、腰から懐中電灯を取り出し、闘いの跡地へ照射した。


 波と泡しか見えなかった。そんなはずはない、あの引きだぞ。男は糸が切れた辺りを追って光を動かした。


 やがて防波堤の壁面に、白っぽい何かが付着しているのを見つけた。そこに光を差し向けると、その詳細が衝撃とともに、白日のもとに曝された。


 四本ほどの細長い突起があった。それは懐中電灯の光を受けて、淫靡なほど艶やかな表面を反照させ、看取した限りでは雨上がりのナメクジのような質感であった。天へ腹を向ける昆虫の節足に似た動きを男の両眼に示していて、ぎこちなく、それでいてはっきりとこの壁面を登りきろうとする意図が窺えた。


 先刻まで背中に走っていた悪寒が、ついに全身へと行き渡った。男はほぼ反射的に後ずさり、防波堤の反対側へと達した。あれは手だ、何か巨大な獣の、そうとしか思えない。本能でそれを実感した。


 呆然としている男の視界に入ってきたのは、男が涜神的な節々を観測した所の右隣三メートルから登り出る、もう一つの節々であった。二秒して、左からもその冒涜が現れた。


 男は腰が抜け、気が狂いそうになりながらも、どうにか防波堤の出口の方へと身体を引きずった。この段になって、男の野心は綺麗に消え失せていた。あるのは現前する捉えがたき何かに対する畏怖であり、それが男の全細胞を一つ残らず支配していた。


 やがて異形は三本目の手を現して防波堤を完全に捉え切り、鈍重な動きで上陸し、男の前にその全貌を見せた。


 それは、これまでに目にしてきたどの生物にも似ておらず、それでいてどの生物にも似ているようであった。


 最初に双眼に飛び込んできたのは、ひどく肥えた胴部であった。長さは男の背丈の優に三倍はあり、魚類のような鱗も、獣類の体毛も備えていなかった。灰白色の滑らかな皮膚だけが身体を覆い、それが海水を滴らせながら、月光を鈍く照り返していた。その表面には、細かな節を備えた何かが幾つも張りつき、皮膚の上を這うように動いていた。


 その胴から先ほどの手が伸びていた。三本に留まらなかった。胴の下方からは同じ突起が何本も垂れ下がり、勝手気ままに曲がり、伸び縮みを繰り広げ、コンクリートの上を探るように撫で回していた。その一本一本が、男の語彙と認識の体系ではやはり手としか形容しようがなかった。


 そのそれぞれの手の先から、四つに分かれて長い指が生えていた。幾つもの節があり、先端には黒ずんだ爪のようなものが備わっていた。掌に当たる部分は異様に小さく、そこから腕とも脚ともつかぬ細長い肉が胴部へと続いていた。


 一本が男の方へ伸びた。ゴゴッと、もう一本がコンクリートの地面を捉えた。それまで男が耳にしていた音が、目の前で一つ一つ再現された。


 異形はその手どもを地面へ押し付け、巨大な胴を僅かに持ち上げてみせた。次いで後方の手を前へ運び、またコンクリートを掴む。その度にゴゴッ、という音とともに、重さも知れぬ肉塊がずるりと前へ滑り出た。


 男はようやく理解した。あの剛力も、あの音も、こいつが海底から防波堤をよじ登っていたために生じていたのだと。そしてその理解へと至った時、男はもう一つの事実に気がついた。


 頭がなかった。少なくとも、男が頭と認識できるようなものはどこにも付いてはいなかった。胴の先端も後端も同じように丸みを帯び、眼も、鼻も、耳もなく、海水を吐き出すエラや噴出口のようなものすら見当たらない。ただ肥大した肉塊の至る所から、あの手ばかりが生えていた。


 なのに男には分かった。あれは、こちらを見ている。この結論に至る理由などなかった。眼などないのだから、そう感じる道理も存在しなかった。それでも怪物のすべてが、自分だけを見据えているように見えた。


 男が一歩後ずさった。すると怪物の手が一斉に止まった。男も止まった。しばし、波の音だけが両者の間を通り過ぎていった。


 やがて男がまた一歩、出口へ向けて足を引いた。


 怪物も一歩、進んだ。


 こいつが来る、こいつが、こいつが……


 男はついに狂乱して、一切を放り投げ車へ飛んでいった。


 背後からゴゴッ、ゴゴッ、とあの音が追ってきた。振り返らなかった。振り返れば、それだけで追いつかれるような気がした。


 気がつくと、男はアパートの駐車場にいた。


 帰ってこれた、男は安堵して車のハンドルに上体を預けた。


 車を出て、震える足取りで居室のある三階へ向かった。エレベーターを使う気にはどうしてもなれず、階段で上がった。


 帰ってこれた、ああ帰ってきたんだ。


 部屋の前に着いた。鍵を取ろうとして掴み損ね、廊下に落とした。拾い上げ解錠し、愛しの我が家にやっとのことで、帰ってきた。


 部屋は惨めなほどに荒れていた。物が散乱し、辺りには粘液が飛び散り滴っていた。窓は割れていていやそんなまさかあいつは小さくとも確かにあれは――――――


 朝日を迎え、部屋に男の姿はなかった。ただ床の上で肉塊がゆっくりと動いていた。

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