夜の舞踏会
あの夏の夜の最高の時間を、劇場でいつまでも見ていられたら…..。僕は所詮、操り人形に過ぎないのかも知れない。あの夜を、あの場所を越えることは出来ない傀儡だ。
大人はみんな、嘘つきだ。
「真面目に生きていれば、いつか報われる」
なんて、そんなのただの綺麗事。
僕たちはみんな、誰かが作った窮屈な型紙に押し込められて、個性を消したロボットみたいに、代わり映えのしない朝と夜を往復している。
この街は、”すれ違いばかりの不思議の国“。誰もが隣の人の顔すら見ず、スマートフォンの画面に映る偽物の光だけを追いかけている。だから、僕も嘘つきになることにした。
真面目なフリをして、従順なフリをして、心の中でずっと「その時」を待っていた。
もしも、この退屈な世界のすべてを引っ繰り返せるような、圧倒的な『一等星』が目の前に現れたなら。
その時は、この、鎖で縛られた象みたいな日常をかなぐり捨てて、聡明で壮大な午前零時の大脱走を仕掛けよう。
ボリュームを最大まで上げて、世界が驚くような、僕たちだけの秘密の夜を開演するんだ。
──これは、そんな嘘つきな僕が、本物の光を見つけるまでの、たった一晩の物語。
あの黄昏を折り畳めば、世界は僕らのものになる。
時計塔の針が午前零時を指す直前、街は深い藍色に沈んでいた。昼間の退屈な喧騒、誰かが決めた窮屈なルール、押し付けられる「普通」という名の重圧。そんな泥のような日常が、夜の帳によって静かに覆い隠されていく。
少年・ルイは、冷たいアスファルトの上で息を潜めていた。
いつも通り、何も変わらない、死んだような一日が終わるはずだった。彼のそんな退屈な日常を、文字通り「木っ端微塵」に壊したのは、一人の少女だった。
「ねえ、いつまでそんなところで縮こまっているの?」
小気味いいジャズのステップを踏むように、路地裏の影から軽やかに現れた彼女。
夜空のグラデーションをそのまま溶かし込んだような、鮮やかな青い髪。その瞳は、暗闇の中でも一際きらめく翡翠の色をしていた。
彼女の名前はヒナ。この街の、夜の街の支配者にして、圧倒的な歌姫。
「ヒナ、本当にいくの? 見つかったら……」
「見つかったら、その時はその時。もっと速く走って、逃げ切っちゃえばいいだけでしょ?」
ヒナは不敵に笑うと、きらめく星屑が散りばめられたような藍色のドレスの裾をキュッと持ち上げた。
「ほら、午前零時の鐘が鳴るよ。私たちの『夜の公演』の開演合図だ」
ゴーン、と重厚な鐘の音が夜空に響き渡る。
それを合図に、ヒナはルイの手を強く引いた。
「さあ、大脱走を始めよう!」
街灯の明かりが、まるで僕らのためだけのスポットライトのように、次々と路面を照らし出していく。
背後からは、昼間の世界の番人たちが、僕たちを連れ戻そうと影のように追いかけてくる。
「リズムを合わせて! 1Aは軽快にね!」
ヒナは走りながら、まるでステージの上で踊るようにターンを決めた。
彼女がハミングを漏らした瞬間、彼女の纏うドレスが、街のネオンの光を吸い込んで形を変えた。銀色のエッジの効いたシャープなジャケット。変幻自在のドレスチェンジ。彼女が動くたびに、夜の空気にきらきらとした青い光の粒子が舞い散る。
「──逃げ出したいなら、今がその時さ!」
ヒナが鋭く歌い上げる。その歌声は、夜の風に乗って疾走感を増していく。
彼女のステップに合わせて、街の景色が万華鏡のようにぐるぐると回り、追いかけてくる退屈な影たちを置き去りにしていく。
ルイの心臓は破裂しそうだった。恐怖からではない。生まれて初めて、自分の足で、自分の意志で、この退屈な世界から抜け出しているという、圧倒的な全能感のせいだ。
路地裏を抜け、視界が一気に開ける。
目の前に現れたのは、街で一番高い時計塔へと続く、長い長い一本道だった。
「慢心しないで、ここは【夢の国】。油断したらすぐに現実に捕まっちゃうよ!」
ヒナは速度を落とさない。むしろ、さらに加速していく。
時計塔のふもとに、大人たちが仕掛けた「現実」の防壁が立ち塞がる。
「前書き(プロローグ)はここまで。ルイ、ボリュームを最大にするよ。ついてきて!」
ヒナが大きく息を吸い込み、夜空に向かってその圧倒的なハイトーンを響かせた。
三度目のドレスチェンジ。
今度の衣装は、漆黒を基調とした、燃えるような紅いラインが走るシックなロングドレス。背中には、星の光で編まれた大きな翼が羽ばたいているようだった。
「──響け!!」
彼女の大サビの絶唱が、夜の街の静寂を粉砕する。
歌声の振動に合わせて、夜空を覆っていたどんよりとした雲が、綺麗に吹き飛ばされた。遮るもののなくなった宇宙から、満天の星空が降り注ぐ。
ルイはハッとした。
今、目の前で世界を塗り替えているのは、自分がずっと求めていたものだ。
(ああ、そうだ。僕は知っていたんだ。大人が嘘つきなんじゃない。僕らが、自分自身の心に嘘をついていたんだ)
退屈な日常に甘んじて、諦めたフリをしていた自分こそが、本当の『嘘つき』だった。
だけど、もうその嘘は必要ない。
ヒナの頭上に、夜空で一番眩しく輝く『一等星』が、本物のスポットライトとなって真っ直ぐに突き刺さる。
「ヒナ! これが、僕たちの、本物の大脱走だ!!!」
『あははは! ほらほら、もっと踊ってよ!』
ヒナの歌声に合わせて、夜空から無数の本物の流れ星が地上へと降り注ぐ。それは、退屈な現実を壊すための祝福の砲撃のようだった。
僕たちを縛り付けていた、目に見えないすべてのルールや抑圧が、そのきらめく光の中に溶けて消えていく。
時計塔の頂上。世界で一番高い場所で、ヒナは歌い終え、最高のポーズを決めた。
街の夜景が、まるで僕たちのステージを讃えるペンライトの海のように、眼下できらめいていた。
しんと静まり返った星空の下。
ヒナは少しだけ肩を上下させ、ふう、と小さく満足そうな息を吐き出した。
そのドレスは、いつの間にか最初の、藍色の星散るドレスへと戻っている。
「完璧な星天への亡命だったね」
ルイは息を切らしながらも、心の底からの笑顔を浮かべていた。もう彼の目に、諦めの色は一切なかった。
「うん。最高の観客がいてくれたおかげ」
ヒナは嬉しそうに微笑むと、ルイに向かって、綺麗なカーテンコールの礼をして見せた。
東の空が、ほんの少しだけ紫色に変わり始めている。折り畳まれていた黄昏が、再びゆっくりと開いて、現実の朝がやってくる。
でも、もう怖くはなかった。心に嘘をつく必要も、もうない。
「それじゃあ、また次の夜会で。午前零時に、また私と大脱走しようね」
青い髪の歌姫は、悪戯っぽくウインクをすると、朝の光に溶けるように静かに姿を消した。
ルイの耳には、今もまだ、あの軽快なジャズのリズムと、圧倒的な一等星の歌声が、心地よく鳴り響き続けていた。
劇場では今でも歌声が消え去った藍色の夜の中で、その熱量だけがまだ空気を震わせていた。
(終)
。。。




