第8章 揺れる想い
ユウは柄にもなく全力で走る。
ほんのわずかのノアの匂いを辿って。
(……なんで、ここまで必死なんだよ。)
走りながら胸がざわつく。
息苦しいほどの焦り。
理由が分からない。
ただ、
“会わなきゃいけない”
その感情だけが、胸をかき乱していた。
◆
ノアは高架下の影に身を隠し、濡れた前髪を押さえながら小さく震えていた。
ひどく疲れていた。
ヴァレリオに蹴りを入れられた腹は鈍く痛み、息をつく場所すらない。
(……助けて。
でも……言えない。言ったら、ヴァレリオに——)
そのとき、足音が近づく。
ノアの瞳が大きく見開かれる。
「お前は……。」
暗闇から現れた影。
半獣の姿のまま、ユウが立ち止まる。
息が荒い。
まるで命を削ってここまで走ってきたようだった。
けれどノアには、彼の目が
“ようやく見つけた”
と語っているように見えた。
◆
ユウは数秒、言葉を発せなかった。
ノアの姿を見た瞬間、胸のざわめきが痛みに変わったからだ。
「……なんで、こんなとこにいんだよ。」
低い声。
だが怒りではない。むしろ何かを抑えた声。
ノアは一歩後ずさる。
「アルカディア……どうして……」
「傘、置いてっただろ。
あんなもん残して、何がしたかった。」
ノアは息を詰める。
(会いたかった、助けて欲しい。
……なんて言えない。)
言ったら壊れる。
自分が。
そして、ヴァレリオとの“鎖”も。
ノアは唇を噛み、俯く。
「……ただの、忘れ物だ。」
震える声。
「嘘だな。」
ユウの視線はノアの腹で止まる。
少し見えるノアの素肌。
わずかな腫れ、痛みで引きつる呼吸。
誰かに蹴られた痕だと、見ただけで分かった。
(誰だ……こんな……)
喉の奥が、低く唸る。
「……俺以外の誰かと戦って、やられたか」
ノアは首を振る。
何故かノアの瞳が“助けて”と言っているように見えた。
声にならない悲鳴を抱えたまま、ノアはただ震える。
ユウはノアに一歩近づく。
触れられる距離。
でも、触れない。
理由は分からない。
ただ、触れたら壊れてしまう気がした。
「……ノア。」
「……何だ。」
「もし……お前が困ってんなら。」
ノアの心臓が跳ねる。
その声音が、あまりにも優しすぎて。
「……俺がどうにかしてやる。」
その瞬間、ノアの目が揺らぐ。
涙が滲む。
だが——
端末が震えた。
ヴァレリオからの短い命令。
ノアの顔が青ざめ、身をすくめる。
ユウはその変化を見逃さない。
「……ヴァレリオか。」
ノアは小さく首を振る。
「……お前には、関係ない。」
「関係ある。」
ユウがあと半歩近づく。
ノアは後ずさり、壁に背中を打ちつけた。
逃げ場がない。
ユウは眉間に皺を寄せ、ノアの震えた表情を見つめる。
(なんでだ……
なんでこいつがこんな顔してんのを見て……
こんなに、イラつくんだよ。)
喉の奥から、言葉がこぼれる。
「ノア。」
「……何だ。」
「行くな。」
命令ではない。
懇願でもない。
ユウ自身も理由を知らない、ただの“願い”。
ノアの胸が痛むほど跳ねた。
けれどヴァレリオの影が喉を塞ぐ。
「……でも、行かないと……俺……」
“殺される”の一言を飲み込み、ノアは黙った。
その沈黙が、ユウの胸を焼く。
ユウは残りの半歩を詰め、壁に手をつく。
手放さないようノアを塞ぐ。
触れられない距離。
でも、逃がさない距離。
「ノア。」
怯えた瞳を捕らえた瞬間、ユウの口が勝手に動いた。
「……俺は……お前が欲しい。」
ノアの呼吸が止まった。
「……ノアが……どこに行くかとか……
誰に縛られてんのかとか……
察してるようで、何も分かってねぇけど。」
ユウは苦しそうに眉を寄せる。
「それでも……お前が欲しいと思った。
理由なんか……知らねぇ。」
ノアの喉が震える。
(……助けてほしい。
でも言えない……
言ったら、ユウまで——)
ノアは涙をこらえ、首を振る。
「……その手、退かしてくれ。
俺のボスは……あんたじゃない。ヴァレリオだ。」
ユウの指先がわずかに震える。
掴みたい。
止めたい。
誰にも渡したくない。
でも触れたら壊れる気がして、手を引いた。
ノアはユウの腕を払い、背を向ける。
急ぐように歩き出す。
「ノア!!」
ユウの声が夜を裂く。
ノアの肩が震える。
振り返れば、戻れなくなる。
「俺の組織のボスから……
お前らを監視するように言われてる。
俺が、その任務を与えられてる。」
ノアの足が止まる。
「だけど……俺はお前が欲しい。」
ユウの声が震える。
「だから言え……
助けてって!!!」
ノアは振り返らないまま、歩き出した。
(言えない……
言えないよ……
だってあなたまで死ぬ……)
冷たい風が吹き抜け、
ノアの姿は闇に消えた。
ユウはその場に立ち尽くす。
胸が痛い。
理由はまだ分からない。
ただひとつだけ確かだった。
もう二度と、あんな顔をさせたくなかった。




