第7章 衝動
アジトを出て、夜風を吸い込む。
雨はやみ、冷たい空気は頭を冴えさせるはずなのに、胸の奥のざらつきはそのままだった。
(……シオンは、まだ寝てるよな。)
さっきまで隣で眠っていた姿が浮かぶ。
腕の重さも、体温も、まだ肌に残っている。
ユウはポケットからスマホを取り出す。
— 新規メッセージ:ボス案件。
任務入った。
ヴァレリオ関係。
詳細はざっくりまとめた。
添付した資料、起きたら見てくれ。
アジトは不明。
とりあえずさっきノアと会った店へ向かう。
ネット経由の痕跡探しは、起きてからでいい。
ゆっくりで構わねぇ。
そこまで打って、ユウはしばらく画面を見つめた。
眠っている顔を思い出すと、胸の奥がほんの少しだけ温かくなる。
体まだ辛いだろ、無理すんなよ。
送信を押し、スマホをしまう。
(……今は寝かせておいてやろう。)
街に出てノアと出会った場所……あの雨宿りの路地を抜ける。
向かうのは、三人が初めて出会ったBAR。
ノアの気配が残っていなくても、何か拾えるはずだ。
ユウはふぅ、と息を吐き歩き出した。
胸の奥のもやは晴れない。
シオンの体温も、ノアの瞳も髪色も、どちらも脳裏から離れない。
ユウは夜の闇に沈み込むように、あのBARへ向かった。
◆
廃墟のように静まり返ったBARの前に立つ。
雨上がりの冷たい匂いと、焦げた木材の残り香が鼻をかすめた。
(……ここで戦ったな。)
数時間前まで温かみのあったカウンターは跡形もない。
崩れた梁からは水滴がまだ落ちている。
ユウの瓦礫を踏む音だけが、広い空間に孤独に響いた。
なのに——
胸がざわついて仕方ない。
(……人の気配。)
期待でも希望でもない。
ただの気のせいかもしれない。
それでも足は勝手に中へと進む。
半壊したカウンターの前で立ち止まり、周囲を見回す。
何もない。誰もいない。
(…やはり気のせいか。)
帰ろうと踵を返しかけた、その時。
視界の端に“直線”が引っかかった。
瓦礫の影。
黒い折り畳み傘が、まるで宝物のようにそっと置かれていた。
ユウはその直線に近づき、手を伸ばす。
雨で冷えた布。
指先に残る、微かな温度。
持ち手には、小さく刻まれたイニシャル。
《N》
——ノア。
胸が一拍、激しく跳ねた。
「……馬鹿か。こんなとこに、わざわざ。」
低く漏れた声は、叱るというより、呆れるというよりどこか苦しげだった。
ノアはここに来た。
壊れたBARの前で、ひとり立ち尽くした。
(もしかしたら……あの人が来るかもしれない。)
その淡い期待を胸に。
そして叶わなかったから、傘だけを残していった。
痕跡ではない。
忘れ物でもない。
——“印”。
ここにいた。
ここで待った。
あなたに、もう一度会いたかった。
そう刻むように。
ユウは傘を握りしめる。
布の冷たさが手のひらにじんと染みた。
(……あいつも、俺を探していた?)
胸の奥が、ひどく軋んだ。
自分の反応に、自分がいちばん戸惑う。
「こんなもん置いてくな……余計、意味が分からねぇ。」
舌打ち混じりに呟きながらも、手は離れない。
むしろ、強く握りこんでしまう。
まるで“これは俺のものだ”と刻みつけるように。
風が吹き抜け、ユウは目を閉じる。
「……十五分前、くらいか。」
気づけば、半獣の姿に変わっていた。
衝動が先に走り、理性が追いつかない。
すん、と鼻を鳴らす。
ノアの残した匂いが、雨の湿度に溶けて薄く漂っていた。
短く息を呑む。
(……まだ、近くにいる。)
ユウは踵を返し、夜の街へと駆け出した。
理由なんて考えたくない。
ただ胸の奥の衝動が、ひとつの言葉だけを叫んでいる。
——追え。
静かな夜に、ユウの足音だけが響き渡った




