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8 背中が見えるうちは

 今井は、自分でベトナムから買ってきたインスタントコーヒーを淹れると、マグカップを片手に席へ戻ってきた。 


 「今回、ダナンにも行ってきたんだ。日系の『クロレリゾート』ってあるだろ。あそこに、僕の大学の後輩がいるんだよ。」


 「ものすごく高級なホテルですよね、クロレリゾート」と朗が言うと、今井は首をすくめて笑った。


 「行っただけで、泊まったわけじゃないよ。ただ、彼らは今、ベトナムで何か『次の一手』を考えてるみたいでね。それがいいことかどうかはわからないけど、広い土地ももう押さえてたよ。」


 朗は興味をそそられ、少し身を乗り出して聞いた。


 「どんな“手”なんでしょう? 新しいホテルでも?」


 「はは、それは今は言えないな、というより、僕にもよくわからない。」と今井はどこかごまかすように笑い、続けてぽつりと言った。


 「8月20日くらいから、またしばらく居なくなるよ。」


 「今度はどこに? インドネシアですか?」


 「いや、今回は長野。9月8日くらいには戻るつもりだけど」と、まったく悪びれる様子もなく言う。


 「長野ですか……また何か新しい話を仕込んでるんじゃないですか?」


 「うーん、どうかな。たまには日本で静かに過ごしたくなることもあるよ」と今井は笑ったが、朗には その言葉も本気なのか冗談なのかよくわからなかった。


 今井はいつも突然どこかへ行ってしまうが、単なる気まぐれとも言い切れない。今回も、いつの間にかよつばマートの外国人たちと連絡を取り合っていたし、在留資格の申請が不許可になったバンさんにも現地で会ってきたという。以前も、中国に長く滞在していたと思ったら、いつの間にか日本で子会社を作ろうとしている中国企業の社長を連れてきたりしたこともある。

朗にとって今井は、「なんだかつかみどころのない、ふわふわした人」だ。


 朗が今井と初めて会ったとき、朗はまだ二十代半ばだった。


 自分よりも20歳近く年上のはずなのに、不思議と年齢の隔たりを感じなかった。いや、正確に言えば、年齢という“距離”ではなく人としての“落差”を感じた。


 朗は、人一倍勉強していたはずなのに、司法試験には受からなかった。

 苦い挫折だった。「法に関わる仕事がしたい」・・・そう思って進んだ道だったが、結局まっすぐには行けず、仕方なく学生時代に合格していた行政書士の道を選んだ。しかし、行政書士の世界だって、そんな投げやりな気持ちで仕事がとれるほど甘いものではなかった。


 そんな朗に今井は言った。


 「司法試験なんて、そんなものに合格したかどうかで人の価値が決まるわけじゃないよ」


 20歳近くも年上の人間に、そんなふうに言われたら、普通は反発したくなるものかもしれない。

けれど、朗にはできなかった。


 その言葉の後ろに、今井が歩いてきた時間の積み重ねが、静かに見えたからだ。


 「いいじゃん、遠回りでも。ここまでちゃんと歩いてきたなら」

 あるとき、今井がそう言った。


 それが、どれほど朗を救ったか、たぶん今井自身は気づいていない。


 その背中に追いつきたいとは思わない。たぶん、一生追いつけないこともわかっている。


 でも、その背中がまだ見えるうちは、自分は歩きつづけられる。


 そんな気がしていた。


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