7 水面下の流れ
衆議院議員総選挙の結果は、外国人への規制を強めるべきだと訴えていた日本忠政党が、議席を倍以上に伸ばして大勝した。
朗から見れば、外国人政策なんかよりも、何十年も改善されない景気や、働く世代に過大な負担を強いている社会保障制度の立て直しのほうが、よほど優先されるべきだと思える。
だが、景気がよくならないのも、給与が上がらないのも、すべて外国人を安く働かせているからだと考える人が多いのかもしれない。あるいは、自分が生きづらいのは外国人のせいだと、無意識に思い込んでいる人が、それだけ増えているということなのかもしれなかった。
夜、スタッフが誰もいなくなった静かな事務所で、そんなことをぼんやり考えていると、ドアが勢いよく開き、今井正樹が入ってきた。
今井は、35年前にこの事務所を個人で立ち上げた創業者である。現在も行政書士として登録はしているが、実務からはほぼ引退し、今はどこまでが仕事なのかわからないくらい悠々自適に過ごしているように、朗からは見える。
この一カ月ほども、ベトナムのホーチミンに出張していたが、いったい何をしていたのか、朗にもよく分かっていなかった。
「いや、選挙がなければ、もう少し向こうにいたかったんだけどね。あ、これお土産」
そう言って今井が渡してきたのは、赤い箱に入ったベトナム産のインスタントコーヒーだった。
「じゃあ先生、日曜日に帰ってきたんですか?」
朗がその箱を持ってキッチンに運びながら聞くと、
「うん、日曜の朝に成田着の便でね。『よつばマート』に入社する育成就労の子たちと一緒に帰ってきたよ」
と今井は答えた。
よつばマートは、長野県須坂市に本社があり、甲信越を中心に東北地方にも展開する、30店舗ほどのスーパーマーケットチェーンである。各店舗の店内キッチンで製造される弁当や惣菜の製造工程には、特定技能や育成就労など、さまざまな在留資格を持つ外国人たちが関わっている。その在留資格に関する手続きを、朗の事務所が担っているのだった。
とはいえ、今井がそこまでこの現場に関わっていたとは、朗も知らなかった。
「先生、ホーチミンではいったい何をされてたんですか?」
朗が尋ねると、今井は笑いながら、
「今回の育成就労で来る子たちの実家を回ったり、送り出し機関の様子を見たり、まあいろいろね」
と答えた。
「そうそう、ダミタから電話があったよ。バンさんの申請、ダメだったんだって?」
その言葉を聞いて、朗は思い出した。今井は、ダミタが日本に来たばかりの頃からのつきあいで、かなり親しくしているのだった。もしかすると、小言でも言われるかと、朗は少し身構えた。
「はい。どうしてダメだったのか、今でも納得できていません」
朗がそう答えると、
「実は、バンさんにはベトナムで会ってきたよ。本人も、日本で働くよりコロンボの方がいいかもしれないって言ってたな。あ、そうそう、彼と飲んだ分は事務所の経費で頼むよ。ダメだった人のフォローなんだから」
と今井は、カードの利用明細をひらひらさせながら、おどけた口調で言った。
朗は思わず笑ってしまったが、その後の沈黙はやや重たかった。
今井は自分の机の上にある小さな象の置物に目を落としながら、少し声のトーンを落として続けた。
「朗くん、バンさんの件もそうだけど、これからの審査はもっと厳しくなるかもしれないよ。きみは、納得できないって言ったけど、これまで『大丈夫』と思っていたようなケースでも、通らなくなってくるかもしれない。
法律は変わっていないのだから、制度そのものは大きく変わっていないように見える。でも、その内側では、判断の“重心”が少しずつ移り始めている。外からは見えないけど、確実に変化してる。今はまだ断片的でも、その兆しははっきりとある。今回の選挙みたいにね」
「……それは、肌で感じるようになってきました」
朗が静かに応じる。
「審査が厳しくなるだけじゃない。雰囲気の問題なんだよ。社会全体が、少しずつ“選別する側”に傾いてきている。いい外国人は受け入れ、悪い外国人は拒否する。そういう問いに、もっと感情的なものが持ち込まれるようになるかもしれない。だって、いい外国人と悪い外国人なんて簡単には区別つかないんだから。僕らが見ているのは、単なる制度だけじゃない。空気の変化なんだよ」
朗は言葉を返せなかった。
しかしその重みを、正面から受け止めようと背筋を伸ばした。
静かな事務所に、電気ポットのお湯が沸いたことを知らせる音が明るく響いていた。




