2 チャンドラの決断②
驚いたことに、チャンドラは東京情報科学大学の大学院に入学する前、アメリカの有名大学を卒業していた。
「ダミタさん、チャンドラさんはすごく優秀じゃないですか。こんな優秀なエンジニアを採用するなら、給料も相当出さないと。」と、朗は冗談めかして言った。
ダミタは笑いながら手を振って
「いえいえ、甥っ子だし、博士にもなれなかったから、給料はそんなに出せないですね。でも、年収600万円くらいは考えてます。」
朗は少し考えてから口を開いた。
「それなら、チャンドラさんは『高度専門職』のビザが取れるかもしれませんね」
「高度専門職」とは、優れた学歴や高い給与水準が条件の、外国人の中でも特に優秀な人材を対象とする在留資格だ。朗はその制度について、二人に丁寧に説明し始めた。
話を進めていくうちに、チャンドラはぽつりとつぶやいた。
「結局、日本はすぐにお金を稼いでくれる外国人だけが欲しいんですね」
皮肉とも本音とも取れるその言葉に、朗はわずかに肩をすくめた。
「確かに、そういう面は否定できません。しかし、日本は今、深刻な高齢化と人口減少の真っただ中です。若い労働力が不足し、社会保障の負担は増す一方。働く力と消費していく力がどちらも圧倒的に足りていない、その現実をどうにかするには、もう外国人の力を借りるしかない状況なんですよ」
朗は続けた。
「でも、その現実を素直に受け入れられない日本人も多い。生活が苦しくなっている原因を、外国人のせいにしたがる人もいます。結局、現実を直視せず、他人のせいにして安心しようとしているだけなんです」
そう言いながら、朗は窓の外に目をやった。新宿の高層ビル群の向こうに、夕暮れの空が広がっていた。
日本はこれから、どこに向かっていくのだろうか・・・朗はそんなことを考えながら、目の前の現実的な手続きを進めていくしかなかった。
「ところでチャンドラさん、具体的にはどんな仕事をされるんですか?」
朗がノートを開きながら尋ねると、チャンドラは少し表情を和らげた。
「おじさんの会社では、自動運転関連のソフトウェア開発を担当します。私はAIのアルゴリズムが専門なので、その部分を任される予定です」
「今、日本でも自動運転技術は注目されていますからね。しかも、あなたみたいに海外と日本、両方の科学技術や文化を理解している人材は貴重です」
朗の言葉に、ダミタもうなずく。
「実はね、村嶋先生。私の会社はこれまで、AIの活用といっても実際にはシステム開発の下請けばかりだったんです。でも今後は、自社製品として自動運転のソフトウェアの一部分を開発し、国内外のメーカーに売り込みたいと考えてる。そのためには、チャンドラの力が必要なんですよ」
「なるほど、それで急いで就労ビザへの切り替えを考えたわけですね」
「はい。奨学金の停止が決まってから、ビザの残りの期間もそんなにないですし、今の『留学』の在留期限が切れたら、日本にいられなくなるので」
チャンドラの表情に、一瞬、焦りがにじんだ。朗は冷静にペンを走らせる。
「心配しなくて大丈夫ですよ。あなたの学歴、職務内容、給与水準、どれも『高度専門職』の要件を満たせそうです。しかも、アメリカの大学卒業、日本の博士課程での研究歴、それに企業の先端技術開発……審査上のポイントは高い」
「そんなに簡単にいきますか?」
「簡単、とは言いませんが、書類と説明をしっかり準備すれば大丈夫です。私もこれまでたくさんの外国人技術者のビザを手掛けてきましたから」
朗の力強い言葉に、チャンドラの顔からわずかに緊張がほどけた。
しかし、チャンドラはふと真顔になり、少し考え込むように言った。
「村嶋先生、もし僕がビザを取って働き始めても、日本人は僕たち外国人を本当に歓迎してくれるんでしょうか」
朗はしばらく沈黙し、窓の外に広がる夕暮れの街を眺めた。高層ビルの隙間にオレンジ色の光が射し、行き交う人々の姿が小さく見えている。
「正直に言いましょう。日本人の全員が歓迎しているわけじゃない。でも、日本には、あなたのような人材を必要としている企業や仲間もたくさんいる。それが現実です」
チャンドラは頷きながらも、視線を落とす。
「昔、僕が初めて日本に来た時、コンビニでレジのアルバイトをしていた留学生仲間がいました。彼は一生懸命日本語を勉強して、接客も上手だった。でも、ある日、お客さんから『外国人なんかいらない、出ていけ』って言われて、彼すごく落ち込んでたんです。あの時、私も日本に来てよかったのか、本気で考えました」
その言葉を聞き、朗は静かに答えた。
「あなたの気持ちはよくわかります。私も、外国人の在留資格などの業務をしていると、そういう現実にたくさん直面しますから」
しばらく沈黙が流れた。だが、ダミタが少し明るい声で言葉を挟んだ。
「だけどチャンドラ、日本が全部ダメだと思わないでくれ。おじさんも、日本で会社をやって、家族を育てて、いい思いもたくさんしてきた。嫌な人もいるけど、助けてくれる人はたくさんいる。おじさんは、日本に来てよかったと今でも思ってる」
チャンドラは小さく笑い、「わかってるよ」と呟いた。
朗は話を戻すように、ペンを持ち直した。
「さて、手続きの話を続けましょうか。まずはチャンドラさんの最終学歴、アメリカの大学卒業証明書、それから日本での在籍証明と研究内容の概要書を準備してください。企業側は雇用契約書と、業務内容の説明。それと、ダミタさん、会社の財務状況を示す書類も必要です」
「わかりました。早めに準備します」
「あと、これは個人的な意見ですが……」と朗は少し声を落とした。
「日本社会は確かに、変化してきています。でも若い世代を中心に、価値観は少しずつ変わっています。グローバルな視点を持つ企業も増えているし、外国人と一緒に未来をつくろうという動きもあります。そういう人たちと、少しずつでも繋がっていけば、日本での生活も、もっと良いものになるはずです」
チャンドラは、じっと朗の言葉を聞き、静かに頷いた。
「僕も、その未来を信じてみます。おじさんの会社で、ちゃんと結果を出して、日本の社会に貢献したいです」
朗は微笑み、「それならきっと大丈夫ですよ」と言った。
「先生、今日はありがとうございました。」と言った後、ダミタは思い出したように
「あ、お願いしているベトナム人エンジニアのビザは大丈夫ですか?」と聞いてきた。
朗は少し考えてから答えた。
「彼はベトナムの大学で工学を学んでいますし、学歴に問題はありません。大丈夫ですよ。」
そうして、その日の打ち合わせは終わった。
会議室を出ると、窓の外はすっかり夜になっていた。
朗は二人と別れ、駅に向かいながら、ふと足を止めた。新宿の街はとてもにぎやかで、様々な国の言葉が飛び交っている。外国人観光客、留学生、ビジネスマン、誰もがそれぞれの理由でこの街に集まっていた。
新宿の雑踏の中、外国人の姿は確実に増えている。かつての「単一民族国家」という幻想は、とっくに崩れているのに、その変化を認めたくない人々もいる。外国人を目の敵にし、排除を叫ぶ声も根強い。しかも、その声は確実に大きくなっている。
駅のホームに立ち、朗はなんとなく落ち着かない気持ちを抱えながら、遠くのビル群を見上げた。