18 影の果て、光の先
朗が玄関からリビングに戻るのとほぼ同時に、スーツケースを引く音とともに、石崎が部屋に入ってきた。
「村嶋さん、いろいろお世話になったわね。いろいろあって、とても楽しかったわよ」
明るい口調だったが、目元に一抹の名残惜しさが滲んでいた。
「今夜の便でホーチミンに戻らなきゃいけないの。また機会があったら、ぜひベトナムにもいらしてね」
朗は、ふと思い出して問いかけた。
「昨日の日食のとき、今井先生があなたに向かって『君はダイヤの輝きだね』って言ってたの、あれってどういう意味なんですか? あのとき、少しイラっとされてましたよね」
石崎は軽く笑った。
「今井さんの言うことなんて、私にだってわかんないわよ。でも少なくとも、私が“ダイヤのように美しい”って意味じゃないことだけは確かね」
そう言い残して、石崎は玄関のドアを開けた。外からは、今井の声が聞こえてきた。どうやら車まで見送りに出たらしい。
二人の笑い声が混じるそのやりとりには、わだかまりが消え、もとの関係に戻ったような柔らかさがあった。
やがて、車が走り去る音が遠ざかっていった。
今井が部屋に戻ってきて、ゆっくりと朗に語りかけた。
「彼女が今やっていることは……おそらくこの国の、最後の輝きなんだよ。だから、ダイヤの輝きって言ったのさ。彼女は君に“わからない”って言ったみたいだけど、誰よりも、それをよくわかってる」
そ の言葉が、まるで最後のパズルのピースのように、朗の中で“カチリ”とはまった。
ぼんやりと霧がかかっていた思考に、はっきりと光が射し込んできた。
点と点がつながり、線になり、輪郭を持ち始める。
今井が日食に重ねていたのは、朗がずっと感じてきた、社会のどこか歪んだ違和感そのものだった。
空に雲ひとつないのに、陽がかすかに翳り始めるような、不穏な空気。
まだ何も起きていないのに、世界がゆっくりと何かに覆い隠されていくような、あの不安。
あの日、初めて体験したその感覚と、朗が日々感じてきた社会のゆがみは、どこかで重なっていたのだ。
となると……石崎の進めているクロレリゾートの計画が、「ダイヤの輝き」だとすれば、それは皆既日食の直前、一瞬だけ輝く「ダイヤモンドリング」。
その直後に訪れるのが、セカンドコンタクト。そして闇。
まるで何もかもが、一瞬のきらめきの後に、深い夜に包まれるかのように。
「そう。そして……空には、妖しく光る黒い太陽と、昼間の星が現れる」
朗が何かを理解したことに気づいて、今井は微笑みながら言った。
「朗くん、独り言が心の声みたいに漏れてたよ。
そのとき、いつの間にか隣に来て黙っていた山川が、ゆっくり口を開いた。
「……なるほど、“最後の輝き”ね。
なんだかロマンチックな物言いだけど・・・・そう言ってる時点で、もう負け戦って自覚してるようなもんですよね」
今井が小さく笑った。「うーん、そう来たか」
「だって “共生”って、そういう刹那の煌めきみたいなものじゃなくて、もっと地味で、耐える日々の積み重ねで作っていくものじゃないかと思うんですけど。」
朗は、少し言葉に詰まって頷いた。
「……でもまあ、たまにはロマンも必要だよ。……さあ、君たちは明日から仕事だろ。僕らの仕事でできることなんて、たかが知れてる。でも、それでも、もっとあがいてみよう。悦子が言っていた、本当の“共生”ってやつが少しでも形になるようにさ。……あ、君たちは明日からだけど、僕はもう少しここでのんびりするけどね」
そう言って窓を大きく開け放つ。乾いた高原の風が、薄く汗ばんだ肌をすっと撫でていく。
その匂いには、夏の名残と、これから訪れる長い秋の気配が混じっていた。
今井の「……あがいてみよう」という言葉が、朗の胸の奥で静かに反響する。
あがいた先に、また闇が待っているかもしれない。
それでも……昨日の空に一瞬だけ現れたあの光を、忘れたくはなかった。
午前の光は少しずつ角度を変え、部屋の床を黄金色に染めていく。
窓の外には、白くふくらんだ雲がいくつも浮かび、その影が時おり牧草地を流れていった。
(完)