16 誰のための街か
さっきから、石崎と今井は、別荘のリビングの奥で話し込んでいた。グラスを片手に、ときどき言葉を切りながら、低い声で応酬している。テーブルには半分空になったワインボトルと、手つかずのままのチーズ。
今井はソファに深く腰を沈め、石崎はその向かいで、クッションを抱えて座っていた。
朗は最初、今日の感動について語っているのかと思ったが、二人の張り詰めた表情を見て、それが誤解だとすぐに気づいた。
「それって、聞こえはいいが、ただの“姥捨て山”じゃないか!」
突然、今井が声を荒らげた。部屋の空気が一瞬、凍りついた。
「それ、本気で言ってるの? 私たちは施設だけじゃない。ダナンの道路、病院、商業施設、ビーチの整備までひとつずつ丁寧にやってる。街全体に投資して、市民にも喜んでもらえるよう真剣に取り組んでいるのよ。日本人の高齢者が利用するのが多いというのは確かかもしれない。でも、それがどうして“姥捨て山”になるの?」
石崎の声も次第に熱を帯びていた。
「君たちは、イノベーターのつもりなんだろう。でも、現地の人間から見ればインベーダーだ。道路も病院も、商業施設も……全部、日本人の快適な老後のために作るんだろ?そんなものが、いきなり、自分たちの街に現れる。気づいたら、知らない国に住んでるみたいになってる。現地の人たちにとってそれは、知らぬ間に侵食されるってことなんだよ。」
椅子の背に身を預けたまま、今井は深く息を吐いた。
「ベトナム語はおろか英語だって話せない高齢者が、どうやって地域に溶け込むんだ? 結局、日本の生活文化をそのまま持ち込むだけじゃないか。」
今井は声のトーンを落としながらも、言葉には鋭さがにじんでいた。
「今井さんはそう言うけど、この国の中だけでは、もはや日本の高齢者を支えきれないのよ。そういう現実は、分かってくれていると思ってた。」
石崎は、軽く唇をかみしめた。本当はもっと強く言いたいようだったが、冷静さを保とうとしているのが伝わってきた。
「“姥捨て山”が気に入らないなら、“棄民政策”とでも言い換えるよ。快適な施設で丁寧に迎えられたって、それは“追い出され方”が上品になっただけだろ? 本当は、もう日本という社会に居場所がないってことじゃないか。日本にいられなくなった高齢者のために、もう一つの日本を海外に作るってことだ。知らぬ間に、街の風景が変わっていく。現地の人たちが、それを望んでいたかどうかなんて、誰も気にしていない」
今井はそう言うと、水割りの入ったグラスに口をつけた。
「……もう、やめましょうよ。せっかく楽しい一日だったのに。」
その言葉に、今井は何も言わず、しばらく目を伏せていた。
やがて、椅子を静かに引いて立ち上がると
「……そうだな」
短くそれだけ言い残し、背を向けて外に出て行った。
朗と山川がじっとこちらを見ていたのに気づいた石崎は、「大丈夫よ。珍しいことじゃないから」と小さく笑った。
気になっていたことを、朗は思い切って口にした。
「クロレリゾートは、ダナンに高齢者施設を作るんですか?」
「こんな大声で話しておいて言うのもなんだけど……ここだけの話ね。」
石崎はそう前置きして、クロレリゾートを中心とする企業グループとJICAが一体となって進めているダナンでの高齢者施設開発計画の概要を語り始めた。羽田空港と関西空港からは、それぞれ日系航空会社が毎日2便就航する予定で、クロレリゾートが建設する施設の近くには日系資本による高度医療が可能な病院が建ち、商業施設やビーチの運営もすべて日本企業が手がけるという。まるで、日本の都市インフラをまるごと持ち込むような構想に、朗は思わず息を呑んだ。
そのときふと、今井が口にした「姥捨て山」という言葉が胸に引っかかった。極端な言い方だとは思ったが、決して的外れとも言い切れない。自分自身も、今聞いているこの構想にどこか違和感を抱いているのを感じていた。
「今井さんの言うこと、実はよく分かるの。どれだけ雇用を生んだとしても、現地の人たちが“外からの押しつけ”と感じれば、必ず反発は起きるし、日本語しか話せない高齢者が現地になじまないで生活し続ければそれはもっと大きくなるかもしれない。だからこそ“共生”が本当の意味で必要なの。でもそれが一番むずかしい。街をつくるよりも、ずっと。」
そう言って、石崎は手にしていた白ワインを一気に飲み干した。
「でも、それでも今やらなきゃ、間に合わなくなる。今のうちに形にしないと、あなたたちやその下の世代が、高齢者を支えきれなくなる日が来るのよ。これは社会保障の延命策じゃなくて、この国の生き残りの戦略。ベトナムのダナンから始めて、インドネシア、ミャンマー、タイへと広げていくつもり。もちろん、何も起きなければの話だけどね。」
石崎の目には、これから先に待つ困難がはっきりと映っているように見えた。朗は、答えの出ない問いを抱えながら、そのまましばらく言葉を失っていた。