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14 日輪の神

 翌朝、外が明るくなると、この別荘は牧場の端に建っているのがわかった。すぐ近くには今井と石崎の母校、望洋大学の研修施設が見える。標高1,300メートルの高原は空気が澄み、周囲には遮る高層建物もない。夏の終わりの空は既にわずかに秋の色を帯び、トンボが低く飛び交っている。


 森に囲まれた静かな場所で、鳥の声が風に混じって聞こえてくる。


 昼前には大学の施設から何人かの学生がやって来て、翌日の皆既日食について今井や石崎に相談しているようだった。


 望遠鏡を何台も並べ、ノートパソコンを開いて、準備に余念がない。


 「……分経過」とカウントする女子学生の声も風に混ざって聞こえてきた。


 「彼女のカウントに合わせて、日食の進行がリアルタイムで把握できるんだ」と今井が言った。


 「まあ、僕たちはそんなに真面目に観測するつもりはないけどね」


 その晩、四人はゆっくりとテーブルを囲み、ワインと食事を楽しんだ。


 高原の夜は涼しく、窓の外では虫の声が静かに響いている。

 「今井さんは学生の頃、天文サークルで“ご教祖さま”って呼ばれてたのよ」と石崎がワインを片手に言った。


 「えっ、なんでですか?」と朗が笑いながら聞くと、石崎はすっと顔を近づけ、声を落とした。


 「望洋大学のこの研修施設ができたばかりの頃、合宿で来たの。夜に飲みすぎて、酔った今井さんが、何枚も重ねた座布団の上にのってね……」


 「今井先生がそんなに酔っぱらうなんて、ちょっと想像できませんね」と山川が驚くと、


 「本人は、翌朝まったく覚えてなかったの。でもね、座布団の上で両手を広げて、こう言ったのよ……“神はラーにあらず、アトンのみである”って」


 「僕は、そんなこと絶対言ってないと思うけどなあ……」と今井が苦笑まじりに反論する。


 「覚えてないだけでしょ? まあでも、当時の今井さん、そういうところがあった。やたらと理屈っぽいくせに、急に詩的になるっていうか……。ほら、“世界は言葉で変えられる”とか真顔で言っちゃうタイプだったから」


 石崎は、どこか懐かしむように、でも少し突き放すように言った。


 「ラーって……エジプト神話の太陽神ですか?」と朗が聞くと、


 「そう。エジプトのファラオはラーの子とされていた。鷹の頭をした神としても描かれる。多神教のなかの太陽神の一柱だね」と今井が答えた。


 「じゃあ、アトンって?」と山川が興味を示す。


 「アトンは太陽そのもの、日輪を神格化した存在で、エジプト史上、唯一神として信仰された。アメンホテプ四世による短期間の宗教改革だよ」


 「太陽を唯一神とした王は、たぶん、社会の“仕組み”そのものを変えようとしてたんでしょうね」と山川がつぶやいた。


 「たぶんね」と石崎が応じる。「そういう変革って、えてして短命だし、悲劇的に終わることが多いけど、時々“風向き”が変わって、突然世の中を大きく変えることもある。良くも悪くも……」


 そう言って、ワイングラスを掲げたその目は、何か思い詰めているようにも見えた。


 朗は静かにグラスを持ち上げ、何かを感じながらそれを口に運んだ。


 そのとき石崎が、ふっと目を伏せた。


「私、大学を出てすぐ就職して、ずっと走りっぱなしだったのね。立ち止まったら崩れそうで……怖くてね」


 ぽつりと漏らしたその言葉は、これまでの彼女の印象とは少し違って聞こえた。


 「役員としてクロレリゾートに入った最初の年、うまくいかないことばかりで、自分のやってることに意味があるのか分からなくなった時期もあって。でも……夜中にホテルの屋上から星を見て……ああ、私まだ昔みたいに空を見上げることもできるんだって、なんだかそれだけで救われた気がして」


 そう言って、石崎は小さく笑った。ほんの一瞬、その表情が少女のように見えた。


 「……今でも時々、夜空に話しかけるの。誰かが聞いてくれてる気がして」


 今井が、何も言わずにグラスを揺らした。その静かな仕草に、彼なりの応答が込められている気がした。


 しばらく沈黙が流れたあと、朗がふと気になっていたことを口にした。


 「今井さん、ずっと石崎さんのこと、“悦子”って呼んでますよね」


 「ああ、そうか。そうだね」


 今井はグラスの縁に指を滑らせながら、少し照れくさそうに笑った。


 「私が一年のとき、今井さんが講義ノートのコピーをくれたの。どこの誰とも分からない新入生に。天文サークルの説明会のあとだったかしら」


 「そんなこと、あった?」


 「覚えてないでしょ? でも私は、あのとき“ああ、この人から私を名前で呼ばれてもいいや”って、勝手に思ったの」


 「……どうして?」と朗が重ねると、石崎は少し遠くを見ながら答えた。


 「普通なら、先輩後輩とか、男とか女とか、そういう距離感がまず出るでしょ。でも今井さんは、そんなの全然気にしてなくて。私を“仲間”みたいに扱ってくれた。そういう人、誰もいなかったから」


 少し間を置いて、石崎は続けた。


 「私、わりと勝ち気に見られるけど、あの頃は、大学に馴染めてるかどうかも分からなくて……。だから、名前で呼んでくれる人っているんだなと、思わず思ったの。誰かとちゃんとつながってる感じがほしかったんだと思う」


 石崎は、グラスの中でゆっくりとワインを回した。


 「大学でも、職場でも、“石崎さん”とか“本部長”とか、役職や肩書きばっかり。でも、“悦子”って呼ばれると、自分に戻れる気がするの。不思議よね」


 今井は少し黙っていたが、やがてぽつりとつぶやいた。


 「俺も、“悦子”って呼ぶと、少しだけ君の本音が聞ける気がするんだよ」


その言葉に、石崎はふっと目を伏せて、グラスをひと口飲んだ。


神話や歴史の話をしているようでいて、それが今井や石崎の人生、あるいは翌日見る皆既日食とも、不思議と重なって見えた。



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