12 黒い太陽への招待
近年は休みの取り方も分散してきたとはいえ、それでも8月の中旬は夏休みを取る企業が多い。行政書士法人ベントスでも、お盆を中心に交代で夏休みを取るようにしているが、8月11日から15日までは職員全員を休みにしている。
とはいえ、申請や対応を完全に止めるわけにもいかず、資格者である朗と山川のふたりだけは、通常どおりに事務所に出ていた。
電話や来客も少なく、外回りの予定もほとんど入らないこの時期は、ふだんは手が回らない業務に腰を据えて取り組める貴重な期間でもある。事務所の空調はよく効いており、夏の午後特有のけだるさのなかにも、どこか落ち着いた静けさがあった。
朗は、ダミタの会社で採用されることになったチャンドラの在留資格変更許可申請の準備をすべて整え、最終確認を終えると、送信ボタンをクリックした。電子申請の完了通知が画面に表示されると、小さく息をついて背伸びをする。
「……あとは入管しだい、か」
つぶやいた声に、モニターから目を離した山川が反応した。
「チャンドラさんの申請、終わったんですね? おつかれさまです。今回、かなり書類の量、多かったですよね」
「うん。これまでなら、ここまでは出さなくてよかったかもしれない。でも、最近の入管の審査を見てるとね。慎重に進めたほうがいいと思って。雇用理由書も、ちょっと力入りすぎたかもしれない」
山川は少し笑って、「いや、あの文書、読みましたけど……本気出してましたよね」と言った。
「まあ、突っ込もうと思えばどこでも突っ込めるから。だったら、こっちから全部先回りして、書いてしまったほうがいい」
「伝わりますかね? あの熱量」
「伝わるかどうかじゃなくて、伝えるしかないんだよ。手を抜いた後悔のほうが、ずっとあとまで残るからね」
朗はそう言って立ち上がり、肩を軽く回した。
「コンビニでも行ってこようかな。コーヒー切れたし」
ちょうどそのとき、事務所のドアが開き、今井が扇子をバタバタさせながら入ってきた。
「まったく……役所ってやつは、お盆でも平気で動いてるんだよな。地獄の釜の蓋も開くって時に、こっちには書類を書いて持ってこいっていうんだから、罪深い連中だよ、まったく」
今井は汗をぬぐいながら、カウンターに荷物を置いた。たしかに、行政機関には「夏休み」という概念はなく、カレンダーどおりに動いている。今井の気持ちもわかるが、罪深いというのもいいすぎじゃないかと、朗は思った。
「今井先生、来週からまた長野に行くんですよね? しかも完全にプライベートで」
山川が茶化すように言うと、今井はニヤリと笑って返した。
「君たちが言えないことを、代わりに口にしてあげてるんだよ。僕が」
そして、声のトーンを少し弾ませた。
「朗くんと恭子ちゃんも、9月3日は休みだろ? 夏休み。しかも、僕が長野までご招待するって話だったよね?」
「それって、仕事と変わらないじゃないですか。9月1日から3日まで、ずっと顔を合わせてるんですよ。長野なんか行かないで、家でのんびりしたいです」
朗も
「ご招待って言っても、交通費は自分で出すんじゃないですか。」と笑いながら抗議した。
「まあまあ。日本で皆既日食が見られるなんて、一生に一度しかない話だよ。見ておいたほうがいい。絶対、後悔しないから」
今井の口調には、いつもの皮肉っぽさではなく、どこか少年のような純粋な興奮がにじんでいた。
「9月1日は道路が混むかもしれないから、8月31日に仕事が終わったら、そのまま来たほうがいいかもしれないよ」
すでに彼の意識は、空に浮かぶ黒い太陽のほうへと向かっているようだった。
今井はもともと天文現象に強い関心があり、さまざまな天体イベントにも詳しかった。なかでも日食は特別だった。2009年には船に乗ってどこかに観測に出かけ、アメリカでの皆既日食にも足を運んだという。
そして今年……2035年9月2日。日本で見られる皆既日食を、今井は長いあいだ楽しみにしていた。その熱意のあまり、とうとう長野県に小さな別荘まで購入してしまったほどだった。
晴れれば、空は真昼にして夜となり、星まで見える。今井にとって、それは単なる天文現象ではなく、言葉のいらない「確かな時間」なのだった。