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11 選ばれない理由

 岡宮が帰ったあと、朗はひとりで事務所を出た。蒸し返すような熱気のなか、近所のドラッグストアまで歩くいく途中にある、自治会掲示板の前を通りかかった。


 その掲示板の一角に、ふと目を引く紙が貼られていた。


 《地域の安全を守るため、不審な外国人を見かけた場合は、最寄りの交番までご連絡ください》


 白黒の印刷。地味なフォント。けれど、その言葉は、妙に生々しく目に焼きついた。「不審な」という形容詞がついている以上、差別とは言えないかもしれない。だが、もし同じ文言が「不審な日本人を見かけた場合」だったら、果たして同じ受け止め方をされるだろうか。


 何が「不審」かを決めるのは、常に見る側の主観だ。だからこそ、無意識の偏見は恐ろしい。


 何日か前、朗は事務所の近所であったという話を耳にしていた。外国人労働者が深夜、コンビニの前でたむろしていた……そういう苦情が自治会の役員に寄せられ、やがて警察官まで呼ばれる騒ぎになったという。


 彼らが何をしていたかといえば、仕事帰りにコンビニで買った袋菓子をつまみながら、歩道の端で肩を寄せ合って話していただけだったらしい。声もそう大きくはなく、笑い声がときおり夜気に混じる程度。それでも、「怖い」「治安が悪くなった」という言葉が、まるで自動反射のように住民たちの口からこぼれ落ちたという。


 “選ばれない国” 


 そう岡宮に言ったのは、自分だった。それは、あくまで制度や待遇の話として口にしたつもりだった。けれど今、こうして自治会の掲示板を眺めていると、選ばれなくなっているのはそんなことではなく、外国人を避けようとする日本社会そのものなのではないかと思えてくる。


 深刻な人手不足だから外国人を採用する。これは事実だ。でも、彼らが街角にいると、なんとなく嫌だと感じる。雇用する企業も、受け入れる側の住民も、その矛盾にはっきりとは気が付いてはいない。だからこそ、「制度」が悪者にされる。入管がゆるすぎる。外国の送り出し機関のせいだ。というように。


 「そういう問題じゃないんだよな……」


 事務所に戻ると、山川恭子が手を止め、声をかけた。


「外、すごい暑さでしょ? さっき裏のコンビニでアイス買ってきましたけど」


「いや、ありがとう。あとでもらうよ」


 そう言いながら、朗は冷房の効いた室内で、ようやく暑さから解放された気分になった。しかし、心なしか、頭の芯にまだぼんやりとした痛みが残っていた。


「……さっき、自治会の掲示板に『不審な外国人を見かけたら通報を』って貼ってあってね。」朗は冷蔵庫から冷たい麦茶を取り出して、お客用に置いてあるガラスのコップに注いだ。


「この間近所で騒ぎがありましたからね。」


 山川は顔をしかめた。


 「“選ばれない国”って、岡宮さんに言ったときは、単純に日本の制度や待遇が海外から見ると見劣りしてきたという話のつもりだったんだけど。でも、ほんとの問題は、そこじゃないのかもしれない」


 「もしかして、社会そのものが問題?」


 「うん。たとえばね、今、日本語学校も減ってきてる。以前と比べると来日する学生が減ってるから。でも、それって裏返せば、日本に来たいって思う人が減ってるってことだよね。観光じゃなくて、暮らす場所として」


 山川は黙ってうなずいた。机の上に置いた冷えた麦茶のコップには、もう結露が浮かんでいた。


「選ばれなくなったのは、制度じゃなくて、外国人から見て“一緒に生きていけそうだ”って思える社会でなくなったから。でもそれは外国人が悪いわけでも、日本人が悪いわけでもない。たぶん、そのあいだにある“見えない壁”が、高くなりすぎてる」


 朗のその言葉に、山川は静かに言った。


「じゃあ、どうすればいいんでしょうね。壁を壊すのか、それとも、超える方法を探すのか・・・」


「ぼくらは、書類の中であがくしかないからね。」


 そう言って立ち上がると、朗はパソコンに向かい、チャンドラの在留資格変更の資料に手を伸ばした。

 

 すでにある程度の下書きはできていたが、今の自分の中にある感情……この国の空気に対する違和感、社会の見えない壁、そしてそれを少しでも超えようとする意思……そうしたものを、もう一度、文書の中に落とし込めないかと考えた。


 書類を整えることは、行政手続きであると同時に、社会との交渉でもある。自分たちは、誰のために、何のために、この仕事をしているのか。


 その日の午後、朗はチャンドラのための「雇用理由書」の再構成に取り組み始めた。


 その夜、かなり遅い時間になってから、今井が事務所に戻ってきた。朗が、昼間に岡宮が来て、育成就労の外国人について相談があったことを伝えると、今井はぼそっと何かをつぶやいた。


 「え、何ですか?」と朗が聞き返すと、今井は少し間を置いて言った。


 「もう……ファーストコンタクトは始まってるからね。」


 その言葉の意味は、朗にはまったくわからなかったが、聞き返す間もなく、今井は言葉を続けた。


 「そうか、岡宮さん来てたのか。知っていれば、横浜なんか行かずに、こっちにいたのにな。」


 朗が「でも、岡宮さん、今日は日帰りだって言ってましたよ」と答えると、今井はうなずきながら言った。


 「まあ、彼もなんとかして現場で働く人を見つけなきゃいけないからね。さすがによつばマートが潰れることはないと思うけど、これから人手不足で立ち行かなくなる企業は、これまでよりもっと出てくるよ。」


 そう言い残し、今井はドアの方へと向かう。


 「じゃ、朗くん、残業はほどほどにね。経営者には残業代出ないんだから。」


 冗談めかしたその言葉に、朗は苦笑しながら、静かにうなずいた。


 その後、数日間は慌ただしく過ぎていった。お盆休み前の駆け込み申請や、顧問先からの相談、在留カードの更新対応。山川と手分けしながら業務をこなしつつ、朗はチャンドラの申請に関する最終的な仕上げを、日々少しずつ進めていった。


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