9 あのころの忙しさ
翌朝、朗が事務所に着くと、今井はすでに来ていて、お土産だと言っていたコーヒーをまた自分で淹れていた。
「それ、やっぱり自分用じゃないですか?」と思わず笑いがこみあげる。
「朗くん、何がおかしいの?」と今井が問いかける。
「いや、そのコーヒー、僕たちへのお土産だったはずでは?」
「まだまだいっぱいあるよ。一人一回は飲める計算だ」と今井は平然と言う。
やがて、事務所のスタッフも出勤してきた。
「あら、今井先生、お帰りなさい。もうベトナムから帰ってこられないのかと思ってましたよ」
「本当は帰りたくなかったけどね。ビザがないから、不法就労になっちゃうし、仕方なく」と今井が真顔で言うと、
山川がふくれたように言った。
「朝からビール飲んでても怒られないし、どうせあっちふらふら、こっちふらふらしてたんじゃないんですか?」
「実際、ベトナムのほうが暮らしやすくなってきてるかもよ。景気が良くなって物価はかなり上がったけど、まだまだ日本より安いものも多いし、飲食店のレベルも上がってる。何より、日本で働いたことのある人が多くなって、日本語が通じる店も増えてきたし。」
「へぇ、そんなに変わってきてるんですか。また行ってみたくなりました」と山川。
ふだんは冷静でやや皮肉っぽいことを言いがちな彼女だったが、どこか素直にそう感じたようだった。
ずっと前に、ベトナム人の技能実習生や特定技能の申請に追われていた日々が、ふと山川の頭をよぎる。
「そういえば、あのころ……5年くらい前までですかね、ベトナムから本当にたくさん人が来てましたよね。朝から晩まで手続きに追われて、大変だったけど、なんだかんだでやりがいもあったというか……」
「“あのころ”って言葉が出るくらい、時代が変わったんだなぁ」と自分で言いながら、山川は少し遠い目をした。
「今はずいぶん減りましたよね。制度も変わったし、彼らも多くが帰国して……」
「今だって十分忙しいよ」と朗が抗議をするように付け加えた。
ただその口調には、あの混沌とした時期に少しだけ感じていた充実感が、いまの忙しさとはまた違っていたことへの、複雑な思いも滲んでいた。