熱が引くと、君も遠のく
熱は、静かに、しかし確実に引いていった。
三日目の朝、目を覚ました和也は、汗をかいたパジャマを脱ぎ捨てて、シャワーを浴びた。
熱のぼせた感覚も消え、体の重さも抜けていた。頭も冴え始め、体調は明らかに回復に向かっていた。
鏡の前に立ち、タオルで髪を拭きながら、ふと思う。
――あれだけ欲しかった“回復”が、今は少しだけ寂しい。
ベッドルームを覗くと、美咲はまだ寝ていた。
小さく寝息を立てて、無防備に丸くなっている。
その姿を見つめながら、和也の中にふと違和感が浮かぶ。
昨日まではあんなにも「好き」だった。
でも今は――何かが、少しだけ遠い。
午前10時、美咲が目を覚ました。
「おはよう。もう熱、どう?」
「……うん。ほとんど下がった。もう平気」
「よかったぁ」
そう言って笑う彼女に、和也も微笑み返した。
けれどその笑みは、どこか曖昧だった。
美咲が台所で朝食を用意する間、和也はリビングでソファにもたれかかりながら、自分の心を探っていた。
なぜだろう。体は元に戻ったのに、心はまた“何もない場所”に戻ってしまったようだった。
あの熱の中で確かに感じていた温もりが、今は現実感を失っている。
食卓に並んだトーストとスープ。
ふたりは向かい合って座り、ゆっくりと朝食をとった。
会話は普通だった。ぎこちなさも、喧嘩もない。
ただ、和也の中にはずっと、ぼんやりとした距離感が残っていた。
「仕事、明日から行けそう?」
「たぶん、大丈夫。ありがとな、色々」
「ううん、当然でしょ。彼女だもん」
その“彼女”という言葉が、どこか遠くで響いた。
鼓膜ではなく、ガラス越しに聞こえるような――現実から一歩引いた音。
和也は笑って頷いたが、言葉はなかった。
昼過ぎ、美咲が帰る準備をし始めた。
バッグを肩にかけ、マフラーを巻く姿は、いつも通りの美咲だった。
「じゃあ、また連絡するね」
「……うん」
玄関で見送るとき、ふと彼女が振り返る。
「ねぇ、和也」
「ん?」
「風邪が治って、また気持ちが遠くなってない?」
一瞬、心臓が跳ねた。
彼女は微笑んでいた。でもその目は、確かに“わかっている”目だった。
「……そんなこと、ないよ」
和也はそう言って笑った。
でも、自分の声がどこかうわずっていたのを、彼女も感じていたはずだ。
美咲は小さく頷き、ドアを開けた。
冷たい外気が流れ込んで、和也の体温をほんの少し奪っていった。
「また、ね」
「うん」
ドアが静かに閉まる。
その音が、やけに重く響いた。
和也はしばらく玄関に立ち尽くしていた。
彼女の背中を追いかけたい気持ちと、追いかけても仕方がないという気持ちが、せめぎ合っていた。
ソファに戻り、カーテンの隙間から外を見る。
冬の空は高く、遠く、澄んでいた。
そして、ふと思う。
風邪をひけば、また彼女を好きになれるのだろうか。
熱にうなされれば、あの温もりはまた戻ってくるのだろうか。
けれど、そう思っている自分が、すでにもう――“本当の恋”から遠ざかっているのかもしれない。