足元にそっと届く優しいパス
規則的な並びで拡がっている茶畑の間を、自転車で走り抜けて行く。磐田原台地からは天竜川に沿って、海まで平野が拡がっている。
いつもの通学路よりも一つ手前を曲がり、高台から神社を巻くように延びる坂道を下っていく。風を切って走るとまだ肌寒さを感じる。
坂の下の道端に自転車を止めた。神社の社務所の脇の小径を抜けて、高台からのびる坂道の斜面に、隠れるように在る墓地の一画の墓前で、しゃがんで手を合わせる。
「地区予選、一回戦勝ったぞ!」
中学の制服姿の横山浩二が、墓石に向かって語りかけた。
「新体制で、まだ正直纏ってねーけど、二回戦も勝ってまた報告に来るからな、フミヤ」ぶっきら棒にそう言って立ち上がり、供えられたままで枯れている供花を手に取り、墓地を離れた。
水くみ場の所で、時々墓守の作業をしていた近くの小父さんが「浩ちゃんの自転車だったかい。今日も参ってきたかい」と、浩二に年配者の柔らかい笑顔で声を掛けてきた。
「こんちは、あ、これもお願いします」といって、枯れ花を手渡して処分を頼んだ。
「浩ちゃんはいつも手ぶらで、たまには花でも供えたら亡くなー」
「本大会決まったらそうするよ」と小父さんの言葉を遮って言うと、自転車に跨って走り出した。後から小父さんの「がんばれよー」が聞こえて、軽く手を上げた。
神社の墓地から、用水路沿いを山に向かい5分も走れば家に着いた。高台の方が風が吹き抜けていたけれど、下ではそれ程でもない。玄関の前に車が停まっていて、誰かが来ているのがすぐに分かった。
浩二が玄関を開ける前に、縁側から顔を出した佳織が「浩二お帰り、勝ったって?」と声を掛けてきた。
「負けていられないよ、今年こそ約束果たさねーと」と、玄関をくぐりながら返した。
「フミヤくん?」
「アイツはずっと一人で闘ってのに・・・・俺はもう5年も果たせてないからな」
そう言ってから、照れを隠して「まあ見てなよ、佳織センセ」茶化す様に言った。
「ちょっと、馬鹿にしてんの?」
田舎造りの急な階段を2階へ駆け上がる浩二に投げ掛けた。
「そうか、もう5年か」佳織は思いを馳せて、息をつく。
庭先に目をやると、今もボールを蹴っている二人の男の子の姿がそこにある様だった。
小学校のグラウンドに「サイド上がれー」と、監督が叫ぶ声が響いた。
その声に応えるよりも早く、浩二が左サイドを駆け上がった。丁度良く、その先のスペースに中央からパスが出てきた。パスを左足で止めて、サイド際をドリブルで上がろうとした所に、相手ディフェンスが詰めてきた。右に切り返して躱し、踏み込んでゴール前にセンターリングを上げた。緩く弧を描いたボールに、フォワードの木村が飛び込みヘディングで合わせた。ゴール左隅のネットが揺れた。審判が笛を吹いてコールする「ゴール」
保護者たちギャラリーの拍手が鳴り、小規模ながらも歓声が沸く。
4年生最初の練習試合が終わって、監督の前に皆で並んで座った。
「惜しくも負けはしたけど、悪くない試合だった。左サイドの突破はいい形だったな、横山、木村もいいシュートだった」
「はい」浩二と木村が元気よく返事をする。
「公式戦のレギュラーはまだ決まってないからな、調子の良い者をどんどん使って行くからな、いいな」
監督の言葉に、選手たちが揃って答える、「はい!」
解散して、選手たちが各々に「やったな木村」だの「浩二すごかった」とか言い出して、試合の余韻を共有して盛り上がっていた。
「待てよ、負けたんだぞ、全然良くねーよ」と浩二が釘を刺す。
「横山の言う通りだよ、Bチームなんて大敗だっただろう」サイドバックの永田が続いた。
騒いでた皆がしんとして、各々がばらけて行く。
「早野」先を歩くリュックに向かって、浩二が声をかけた。
「横山君、すごかったね」立ち止まって振り返った早野良紀は、4年生にしては身体が小さくて華奢だった、身体大きい浩二と並ぶと更に小さく見えるし、リュックもやたらと大きく見える。
「Bチームの試合観たよ、お前諦めるの早いよ、ヘタクソなんだからもっと球際くらいついて行けよ」浩二は、つい強めに言ってしまう。
「ごめん、僕ヘタだから」良紀が下を向く。
「何言ってんだよ、そんなの練習すればいいだけだろ、おれ、自主練始めたんだよ、お前も一緒にやろうぜ」
「う、うん、やりたいけどおばあちゃんが何て言うかなあ」
「そんなの関係ないって、毎日練習すればお前も絶対上手くなるよ、二人でレギュラー取ろうぜ良紀」浩二が力強く言う。
良紀はいつも浩二に押し切られて仕舞うのだけれど、そんな浩二の事が嫌いではなかった。
家も割と近くだったし、3年生も同じクラスだったのもあるけれど、引っ込み思案な良紀をリードするのは、いつも浩二の役目で、そんな浩二を良紀は頼もしく思っていた。
だから、二人で行動する事も増えて、よく一緒に帰った。
寺谷用水沿いの道を、公民館の所で別れるまで、並んで歩いた。
「ただいま」
玄関を開けて奥に声を掛けるっと、奥からおばあちゃんが片足を少し引きずって出て来て「おかえり良紀」と、柔らかく笑らって出迎えた。
「遅かったね、おやつあるよ、食べなさい」
壁に掛かった鳩の時計に目をやると、もう3時になるところだった。
縁側に出て神棚に手を合わせてからリビングに行くと、おばあちゃんが台所のテーブルにおやつを用意したので、良紀は席についてロールーケーキに手を付けた。
向い側の流しで、背を向けて洗い物をしていたおばあちゃんに、「ねえ、おばあちゃん」声を掛けた。
「なんだい良くん」と優しく答えが返ってきた。
「今日、横山君がね」と話し出した良紀の言葉を遮って「良紀、早く食べちゃいなさい」
きつく言われてしまい、続けて話せなくなり「はい」と答えた。
壁の鳩時計が鳴って、カラクリが動いて鳩が顔を出す。
横山君の話しをすると、おばあちゃんはいつも機嫌が悪くなるなと、考えたせいなのか、ロールケーキが苦く感じた。
終礼の挨拶が教室に響くと、生徒達が散り々に騒ぎ出す。
4月の末からの連休が、とうとう始まるのだから、その解放感から、いつもより騒がしい。
浩二が駆け寄り「行こうぜ良紀」背中を叩いて良紀を急かした。「待ってよ、横山君」慌てて後をついて行く。
浩二の家は兼業で農業もしていて、トラクターやトラックが奥の車庫に入れる様に、母屋の前は少し開けていた。最近では、その小スペースを使って、1対1やパス練習をしていた。
「左で止め時に、次に右で蹴りやすいところに落とすと、蹴り出しがスムーズに行くよ」
「こう?」良紀が言われた通りにボールを戻す。
「お、いいじゃん」浩二が受けて返し「次、高いボール上げて」
「え、高く?」良紀は慌てて、つんのめる様になりながらも、フワッと上げたが少し逸れてしまう。
浩二は咄嗟に横に回り、胸でボールを受けて落とした所を打ち返した。良紀も同じ様に胸で受けようとしたが「うわっ」と後逸してしまいボールが転がっていった。
玄関の方に転がって行ったボールを制服姿の女の子が拾い上げた。
「あれ、佳織姉ちゃん来てたの」
「浩二、こんな所で練習してるの」と、言いながらボールを投げて寄越した。
「こんにちは、えっと」考え込む佳織に浩二が「早野だよ」
「早野さんて、下の方の?」
「こんにちは、早野良紀です」良紀が挨拶する。
「あ、これは佳織姉ちゃんね、これでも高校生の従姉」と、浩二が茶化す。
「ちょっと、あんた、これって何よ」と、口を尖らせて浩二に文句を言うと、短めの髪をサラッと揺らして良紀に向き返り「佳織です、良紀くん、暫く居るからよろしくね」と大袈裟なくらい優しく言って「少し休憩したら?ジュース持ってきてあげるから」
「やったー、休もうぜ」
「うん」
4月の末ともなると、もうすっかり暑いけれど、縁側でジュースを飲んで休んでいると、時々風が吹き抜けて気持よかった。
「でもあんたたち何でこんな所で練習してんの?」佳織が縁側に寝転んでいる浩二に聞いた。
「公民館の広場使えなかったんだよ」浩二がふて腐れて、じいちゃん連中がゲートボールをやっていた事をグチグチ言い「本当はさ、天竜川の河川敷でやりたいんだよ、行ってもいいかな?」おねだりする様に佳織に訊いてみる。
「ダメだよ、子供だけで行ったら」
「じゃあさ、佳織姉ちゃん頼むよ」と浩二が佳織に向いて手を合わせて「どうせヒマなんだろ」
「あんたねー、それが人にものを頼む態度か」と、窘めるが、浩二の「お願い、お願い」と、手を合わせて拝み倒す攻撃に、折れた。
「わかったわよ、あんたのお母さんが良いって言ったらね」
「やったー、良紀、木村とかも呼んで皆で行こうぜ、あそこ芝生のグラウンドだぜ」
浩二はすっかり舞い上がる。
「うん・・・おばあちゃん、なんて言うかな」
歯切れの悪い良紀に「大丈夫だって、芝生のグラウンドだぜ」
浩二はもう興奮している。そんな浩二を見て、良紀も顔がほころぶ。
「行こうぜ良紀」
「うん」
平日を挟んでの、連休の後半最初の祝日、5月3日の憲法記念日に、子供達を連れて天竜川の河川敷へ向っていた。
休みに入ると早々に両親は旅行に出掛けて行ったので、連休中は叔母の家でお世話になっていた。だから、浩二が言った『どうせヒマだろ』と言うのも、まんざら嘘ではなかった。
飛び石の間を有給で埋めて、10連休を取って旅行に出掛けた両親に、くっ付いて一緒に行かなかったのは、受験を控えた高校生には有給が無いのと、雄介と遊びに行けるチャンスだと思っていたからだ。
しかし、佳織の思惑と違って、雄介は親戚のお店のが書き入れ時だとかで、バイトに駆り出されて行った。
連休中に世話になる事になった叔母の家で、受験勉強ばかリしていても気が滅入るだけなので、浩二達の相手も、丁度良いと言えたのだけれど。
先日叔母に「浩二が天竜川に行きたがってる」と、話したた時の事が気になっていた。
台所で夕飯の支度をしながら、叔母が言った。
「早野さんのところの良紀くんでしょ、あの子のところは『お爺さんと、お婆さん』だけだからね、なかなか出掛けられないだろうから、連れてってあげなさいよ」
「え、お父さんお母さんは?」
「亡くなったのよ」叔母がこちらを向いて、神妙な素振りをみせ「事故だって聞いたけど、可哀そうにまだ小さい時によ。東京からだったか、こっちに来たのは小学校からだったんじゃないかな」と、叔母は、鍋の灰汁を取りながら言った。
「あの子、大人しいでしょ、それでも、以前と比べたら明るくなったほうなんだけど、早野さんとこのお爺さんも変わり者だからさ、気になっちゃうよね」と、返しながら、鍋にカレー粉を溶かし入れた。部屋中に匂いが広がる。
「やった、カレーだ」
浩二がその匂いを嗅ぎつけて、大きな声で台所に飛び込んできた。
そんな話を聞いたのもあって、この天竜川までのちょっとしたお出掛けに張り切って望み、早起きして弁当まで作った。
やはり、大型連休でみんな家族と出掛けていて、結局は、浩二と良紀くんと、3人で出掛ける事になった。
天竜川までは15分位で行けるのだけど、そこから川沿いに走って3,40分程で大きなグランドの公園がある。
それほど遠い場所ではないけど、普段は子供達に『県道を渡って行かない様に』と、言い聞かせてあり、町内のルールになっていた。
佳織が子供の頃も、当時住んでいた米津の家から、国道を越えて海へ行っては行けない、というルールがあった。自転車に憲章が付けられて、その憲章の色で行動出来る範囲が決められていた。しかし、学年が上がるにつれてその範囲を無視して、度々海へ行き、見付かっては大人に怒られたのだ。それでもやはり、国道を越えて行く時は、いつも胸が高鳴ったものだ。
浜松の国道と、磐田の県道では交通量も規模も違うけれど、浩二たちには、県道を越えてその先に進む事はちょっとした冒険だろう。
川沿いに出ると景色が開けて風が抜ける、広い河川敷で水辺まではまだ遠い。天竜川の川幅は下流の方だと千二百m以上にもなるのだけれど、実際の川幅は百m程度なので、川沿いの土手からでは、さほど見えない。
1㎞先の対岸の浜松まで、近いようで遠く、川沿いを走る車が薄っすらと見えている。 この広い河川敷を持つ天竜川が、南アルプスと中央アルプスの間を流れているのは知っていたけれど、長野県の諏訪湖が水源だというのを最近知った。諏訪湖が水源と言う事は源は八ヶ岳の赤岳と言う事になるのだ。
何年か前に、登山好きの両親に連れられて、赤岳登山に行った時には、山の険しさに参ってしまい、堪らず途中の山頂にほど近い山小屋で断念し、割と美味しい山小屋のご飯を食べて一泊して撤退した。
自分が登れなかった、あの赤岳から流れ出た水が、目の前を通って遠州灘へ流れ出て行く。思わず上流の山の方を向き、今度こそ山頂まで行って見せると、遥か彼方の見えない赤岳に想いを馳せる。
なにより、今日のような快晴に、この河川敷を自転車で走るのは爽快だ。
河口に向けて海まで行く、人気のサイクリングコースも悪くないけれど、今回は海とは逆に向かい、暫く走った先のグラウンドを目指した。
「なんだ、ダメだよ」グラウンドが、見えてくると、浩二が悔しそうに言った。
グラウンドを見ると、もう既にどこかの中学生くらいのチームが試合をしていた。
「あー、やっぱダメかー」
実は、おそらくは連休中はもう埋まっているだろうと、予想していた。平日などは空いていれば解放していたらしいのだけれど。
「とにかく、休憩しようよ」
自転車を止めて土手のところで座って休む事にした。
「ちょっと、端のとこでやってきて良い?」浩二がボールを持って、休憩もそこそこに、グラウンドの隣りの広場の方に走り出した。
「良紀、早く来いよ」呼ばれて慌てて追っていく。そんな二人を見ていた佳織が「ホントに好きだねー」と、つい呟いた。
体力には自身があったのだけど、小学4年生の勢いに推され気味で、ここに来るまでも二人が飛ばすので、ついて行くのが大変だった。
二人がボールを蹴っているのを眺めながら土手に座って、日向ぼっこしているのは気持が良かった。
小一時間も自転車を漕いで来た足で、すぐさまボールを蹴っているのだから、二人とも本当に元気だと、ふくらはぎを摩りながら感心する。あの子たちなら赤岳も登ってしまうかもしれない。
良紀が笑ってボールを蹴っている。あの子はサッカーをしてる時のほうが楽しそにしている。佳織は高校3年になってやっと手に入れた携帯を取り出して二人の写真を撮った。
どこかのチームが試合をしていて、隣りの端っこの空いてるスペースで、少しボールを蹴っていたけれど、これでは、せっかく此処まで来た意味が無いと、もう少し先の公園まで行くことにした。
自転車道をずんずん進み、橋を潜って、まだ暫く走って行くと、水浴び出来るような池がある親水公園に着いた。大きい広場があって、さっきよりは遠慮しないでボールが蹴れそうだ。
二人は着くなり走り出すので「良紀くん、まって」と、呼止めて駆け寄り、ペットボトルを渡す。
「ちゃんと水分とってね」と、言って、何の気なしに頭を撫でようと手を出すと、一瞬、良紀が目を閉じて強張った。
軽く頭を撫でると「ありがとう」とぎこちなく笑って駆けて行く。
佳織は良紀の後姿を見ながら「ちょっと、馴れ馴れしかったかなあ」と、溜息を着いた。
叔母からいろいろ聞いた事もあり、あの子はスキンシップに慣れてないのだろうかと、思いを巡らせる。
お昼ご飯を、公園のテーブルのあるベンチで食べる事にした。解放感のある河川敷の公園で食べるご飯は、とても美味しく感じた。お弁当にサンドイッチと、おにぎりと両方作ったけれど、あっと言う間に売り切れた。
陽も真上に来ると、5月にしては暑いくらいで、今日の気温はおそらく、夏日まで上がっただろう。
そんな陽気なので、弁当を食べた後で、二人は水浴びをしに行った。
公園には、小川で繋がった大き目の池が3つあって、噴水の辺りなどには子供たちが群がっていて賑わっている。
この場所からでも、二人がキャッキャと騒いで遊んでいるのが良く見える。
遊び疲れ、座って足で水をバシャバシャしながら、浩二が言った。
「良紀、上手くなってきたよな」
「全然ダメだよ、横山くんのボール全然取れないもん」自虐的に言う。
「そんな事ねーよ、この1か月で随分上手くなったって」
「そうかな」
「そうだよ」
静かに言葉を交わす。
「横山くんは誰に教えて貰って、そんなに上手になったの?」
浩二は、良紀が珍しく質問してきたのが嬉しくなって答えた。
「どうだろ、最初は父ちゃんが教えてくれたけど、小さい時だけだよ」
「そっか、お父さんか」良紀が俯く。
「なんだよ、とうちゃん居なくて寂しいの?」浩二は、良紀が下を向くのが嫌で、遠慮せずに訊いた。
「べつに、寂しい訳じゃない、けど」下を見たまま言う。
「けど、ってなんだよ、父ちゃん母ちゃんが居ないのは事故なんだろ、どうしようもないじゃんか、どうしようもない事言うなよ」
良紀が顔を上げないから、少し強く言ってしまう。
浩二には、いじけてる様に見えて、少しイライラした。
良紀が顔を上げた。涙が流れている。
浩二は、ドキッとした。泣くとは思わないから。
「どうしようも無くないよ、お母さんはいるもん」良紀が声を上げた。大きな越えになった
浩二は、良紀がこんなに大きな声を出すのを初めて聞いて、驚いた。というより、焦った。
「お母さんいるって・・・何それ」
「僕のお母さん、いるもん」
浩二が、泣きながら俯く良紀の背中を優しく擦る。
「何言ってんだよ良紀」
そう言った浩二の手を、良紀が払い除ける。
「ぼく、「よしのり」なんかじゃないよ「ふみや」だよ」と、泣きながら言い放つ。
「何言ってんだよ、なあ、泣くなよ」
背中を擦って声をかける。もう、その手は揺すっていた。
「どうしたの?」
離れてみていた佳織が様子がおかしいと思って寄ってきた。
「浩二、あんた何したの」
「違うよ姉ちゃん、コイツが変な事言うんだよ」浩二もすっかり涙目だ。
「良紀じゃないって言うんだよ、なんだよそれ」浩二が佳織に訴える。頬にも涙が伝った。
佳織は良紀と向かい合い、しゃがんで話しかけた「どうしたの良くん、大丈夫?」
「ごめんなさい」鼻を啜りながら良紀が口を開く。
「でも僕のお母さんは東京にいるもん。僕がいい子してないから迎えに来ないんだって、おばあちゃんが、言ってた」涙で声が震えている。
「僕は『フミヤ』なのに、お母さんが『フミヤ』って呼んでたのに、おばあちゃんはダメだって、僕の名前は『よしのり』だって」
もう、ひきつけを起こした様に泣いているのに、ちゃんと話そうとする良紀を、佳織は抱きしめた。
「もういいよ、分かったからね、大丈夫だからね」泣き止むまで抱きしめて「大丈夫だから」と続けた。
続けながら「何が大丈夫なのだろうか」と、我ながらいい加減な事を言っていると思い、目を瞑った。泣きながら鼻を啜る音と、池の水が流れる音がしていた。
良紀は水浴びをしていで濡れたままだったので、そのまま抱き絞めていた佳織の服も少し濡れた。弁当を食べていたベンチの所まで戻ってタオルを出して拭いた。
「ほら浩二も拭きな」と、大人しくなった浩二に渡した。浩二なりに何か考えるところがあるのだろう。
「良くんも」と言い、力なくしゃがみ込んでいるのを立たせてタオルで拭いた。頭から首を拭い、身体を拭こうとシャツを捲くると、脇腹の辺りに痣が見えた。ドキンと心臓が跳ねる。
「良くん、どうしたの、この痣」
そう訊くと、良紀は身体を捩って避けて「ちょっと転んじゃって、あと自分でできます、あ、ありがとう」そう言って、タオルを受け取り自分で身体を拭いた。
これは何の痣だろうか。背中を向けて痣を隠す様にシャツの下を拭っている良紀を見ると、濡れたシャツを透して、背中にも痣の様な痕がある。本人は気付いていないのだろうか、転んだって言ったけれど、どう転んだら背中にまで痣が出来るのだろうか。これって・・・勝手な推測していくと、思考に黒いものが重く纏わり付いて来て目が眩んだ。
後から、気落ちして大人しくしていた浩二が声を投げ掛けた。
「サッカーやろうぜ、フミヤ」
佳織が慌てて「ちょっと何言ってるの浩二」
「良いんだよ、こいつが『フミヤ』だって言うんだから」浩二が言い返す。
「な、フミヤ!」
「ダメだよ、おばあちゃんに怒られちゃうよー」そう言い返しながらも、嬉しそうに困ったフリをした。
「何だよ、フミヤなんだろ、行こうぜ」
「そうだけど、もー」照れくさそうに二人で走り出す。
「浩二、もう帰る時間だから少しだけだからね、フ、フミヤくんも」
佳織も、戸惑いながらも名を呼んだ。
「分かったよ」「うん」
二人が元気に返事をした。
浩二がパスを出しながら「二人でレギュラー取ろうぜ」
フミヤが左足で受けて返しながら「レギュラーなれるかなあ」
「大丈夫だよ、そんで全国行こうぜ」
「全国?」予想してな勝った言葉についトラップがずれた。
「そうだよ、ジュビロ入るには全国くらい行ってないとダメだろ」右足でボールを跨いで、裏側から左足で返した。
「だってうちのチームそんなに強く無いよ」
「だから強くするんだよ、今年無理でも来年には行こうぜ、だから先ずは今年は県大会だな」
「浩ちゃんが言うと行ける気がしてくるよ」足でトラップしてボール止めて立ち止まる。
「どうしたーフミヤ」浩二が手を上げる。
フミヤが浩二の蹴りかたの真似して「僕も、浩ちゃんみたいな『足元にピタッと届くパス』出せる様になるかな」と、照れながら言う。
「じゃあ、ココに出して来いよ、パス!」手を振り上げてパスを要求する。
「いくよ!」フミヤが声を上げて、高くフワッと蹴り上げた。
浩二は、笑って走り込みながら「約束だからな、絶対行こうぜ県大会」叫びながらジャンプして強烈なヘディングで返した。
ボールがバウンドしてフミヤの脇を抜けていき「もー」と言いながらボールを追いかける。
朝礼が始まってもフミヤの姿が無かった。浩二は朝礼が終ると教師に駆け寄り「先生、早野は?」と、勢いよく詰め寄る。
「まだ先生も聞いてないけど、早野君は身体が弱いから時々休む事あるでしょう。もう少しだけ横山君の元気があると良いんだけどね。横山君はもう少しだけ早野君みたいに大人しく出来るといいね」と、浩二に笑いかける古田先生は、子供たちに優しく話しをする大人の一人だった。
「もう今頃、連絡来てるんじゃないかな、心配してくれてありがとうね」
吉田先生は心配ないと言ったが、次の日の朝も、フミヤの姿はなかった。
「先生、早野君は?」手を挙げて浩二が言った。
「早野君はまだ少し熱があるので、お休みするそうです」
結局フミヤは3日休んだ。フミヤが休んでる間に練習ノートを書いた。これからどんな練習をしていこうとかを、浩二なりに考えたものだったり、休んでた間の、クラブ練習であった事などを書いたものだ。
4日目に、フミヤは浩二よりも早く学校に来ていた。
「浩ちゃん、おはよう」いつもより明るく、笑って挨拶してきた。
連休中は、天竜川に行った後も、ほとんど一緒に過ごして、二人は以前に増して親しくなっていた。
「フ、良紀、もう大丈夫なのかよ」と駆け寄る。
「うん、もう平気だよ」と言うフミヤの頭をクシャクシャとやると「やめてよ浩ちゃん」
フミヤが笑う。
練習ノートを渡すと「おーっ」と、最初のページの『全国大会出場』の文字に興奮して、嬉しそうに読みだしたけど「浩ちゃん、これ本当にやるの?」と、練習メニューを見て顔をしかめた。
「でも、何で算数のノートなの?」
「使ってないノートっていったら、算数しか無かった」
「使わないのー」
フミヤが笑う。
暫くは爽やかな晴れ間が続いたかと思えば、すぐに梅雨に入った。
じめじめした雨の日が続くと、グラウンド練習が減り、体育館や室内練習が増えて、浩二はうずうずとしていた。
玄関を入ると「おかえり浩二」と佳織が出迎えた。
「ただいま」と、明らかに機嫌の悪い浩二に「どうしたのよ、久し振りに姉ちゃんが来たのに」素通りして行こうとする浩二に文句を言った。
「先週も会ったよ、一週間じゃ久し振りって言わないよ」と浩二が呆れて返した。
「何よ、反抗期なのあんた、今日はもう練習終ったの?」
「練習は今日も休みだよ、体育館も今日はバスケの日でダメ」と階段を上がりながらボソボソ言った。
「それじゃあ、ボソボソとも言いたくなるね」と、後をついて行きながら言う。
「サッカーは大雨だって試合するんだぜ、ちょっと降ったくらいで中止なんてさ」部屋の戸を開けながら後の佳織に向かって言う。
「風邪引いたらどうすんのよ、それにグラウンド状態悪い時に練習して怪我でもしたら元も子もないじゃない。あんたらは、まだお子ちゃまで成長途中なんだから無理しないの」と、説教しながら続いて浩二の部屋に入った。
「なんだよ姉ちゃん」部屋まで入って来た佳織に言った。
「いいから、ちょっと座んな」と、浩二を座らせ、自分も浩二の勉強机の椅子に座った。
「良紀くんは元気なの?」
「フミヤな」と、強調して「元気だけど、最近は時々休むよ」
「休むってどれくらい」
「どうかな、今週も休んだよ、先週は休んでなかったかな、でもその前は休んだかな」と、思い出してみせる。
「2週間に一回くらいかな、何日くらい休むの?」
「1日だったり2日だったり、姉ちゃん何なのこれ」何を言わされているのか分からず、思わず訊ねた。
「この間の様子じゃ、心配するにきまってるでしょ」と、連休の時のフミヤの様子を思い出させ「フミヤくんは大きな傷抱えて頑張っているんだから、あんたが、気に掛けてあげないとでしょう」
「分かってるよ」そう言いながらも、どの程度分かっていたのだろうかと、浩二自身も、佳織も、疑わしく思う。
フミヤ君の言った事が事実なのかは分からない。でも、あの子が嘘を言っているとは、とてもじゃないが思えない。両親の死を受け入れられずに思い込んでいるのか、とも考えたけれど、確かな事は分からないし、こんな繊細な事に、踏み込んで良いものなのか、とか、佳織はいろいろと思索する。
どうにせよ、フミヤ君が深刻な問題を抱えてい事には変わりない。
浩二が、意を決したかの様に話し出す。
「佳織姉ちゃん、フミヤのお母さんて、どうしたの?迎えに来ないって、フミヤのこと、捨てたって事なの?そうだとしたら、おれ許せないよ」
ずっと、聞きたくて聞けなかった事を、浩二なりに察していたタブーを、佳織にぶつけたて訊いた。
「捨てたなんて、適当な事言っちゃダメだよ、きっと、事情があるんだよ」と、叱ったが、『捨てた』という言葉を口にしただけで、ずしりと重く、黒い塊みたいな物が圧し掛かった。
この得体の知れない重さを、フミヤくんはあんなに小さい身体で抱えながら、信じて待っているんだと、待ち続けているんだと思うと、何とも言えない悔しさを覚えた。
「とにかく、フミヤくんに良くしてあげるんだよ、相手を良く見て『優しいパス』出すみたいにさ。あんたのプレースタイルでしょ」
うやむやにした答えに多少の心苦しさもあったが、そう言うと席を立って部屋を出ようとする。戸口で振り返って、もう一つ質問した。
「浩二、フミヤくんの身体に痣あった?」
「アザ?知らないけど、俺なんて痣どころか傷だらけだよ」と言って足を前に突き出して太ももの痣を見せつけ「でも、なんで?」
そう訊かれて「いや、この前、痣があったから、もう治ったかなあって」と、誤魔化しながら言った。
あの痣は転ん出来る様な痣ではない。医者ではないが、佳織にでも見て分かる程だった。
佳織は部屋を出ながら「浩二、ちょっとは部屋片付けなよ、勉強しないから机の上だけはキレイだけどね」
梅雨がまだ明けきらないうちから、晴れ間を探して、プールの授業が始まった。
暦は7月に入り、気温が25度近くまで上がってはいるけれど、水に入るとなると、まだまだ心許ない日差しで、鳥肌が立ちそうではある。
しかし、大半の子供たちは、プールの授業を心待ちにしていて心躍らせている。浩二も大半の子の方だ。
そんな子供たちが、変に高まったテンションの中プールサイドに並らぶ。肌寒さも感じ、タオルを羽織って並ぶ子もチラホラ居たけれど、いよいよ授業が始まる頃、皆、羽織っていたタオルを脱いだ。
「うわ、なにこれ、早野」生徒の一人がフミヤに言った。
その横に並んでいた生徒も「何これどうしたの」となると、近くにいた生徒が近寄って「なになに」「どれどれ」「見して見して」と集まって来て、フミヤを囲んで騒ぎ立てる。フミヤは堪らずその場にしゃがみ込んだ。
離れていた所で並んでいた浩二も、この騒ぎがフミヤの事だと気付いて近づこうとするけど、狭いプールサイドではなかなか近づけない。
プールサイドの異変に気付いた教師が「ほらそこ、どうした」と駆け寄る。フミヤに近づけない浩二が前の生徒を押しのけた。押された生徒はバランスを崩して、隣りの子に掴まろうとして引っ張った。二人が連なってプールサイドから「バシャーン」と派手な音と飛沫を立てて落ちた。
駆け寄て来ていた教師がすぐさまプールに飛び込んで、落ちた生徒に向う。
フミヤに集まっていた注目は、プールの中の出来事に移り、フミヤが取り残され、浩二はフミヤに近寄った。
フミヤは身体を隠す様にしゃがんでいて、その背中から脇腹にかけて、細長く痣が見えた。背中の方はとても隠せず、色が黒く、特にその周りの紫色が目立って目を引いた。浩二も目にした時は一瞬怯んだ。二の腕の辺りにも薄茶色の痣があった。
天竜川のの親水公園で見た、あの痣が浩二の頭を過る。
「大丈夫か」浩二が横にしゃがんで声を掛ける。
「浩ちゃん」フミヤの声が震えていた。
「横山、ちょっと来い」教師の遠藤の怒声が響いた。
遠藤先生に経緯を訊かれる中で、フミヤは「昨日家の農作業の手伝いで踏み台に乗って、そこから落ちてぶつけた」と、説明した。
「横山、お前が早野を心配するのは分かるけど、プールに落とすなんて絶対ダメだ、急に落とされたらどんなに泳げる子でも、意識失ったり、溺れる事だってあるんだぞ」と、叱りつけた。
幸いプールに落ちた生徒に、大事はなかったけれど、浩二は「はい、ごめんなさい」と、素直に謝る他なかった。
遠藤先生は生徒を集めて「早野は踏み台から落ちて痣が出来ただけだ」と説明し、「痣なんてすぐに治れば消えるもので、人が痛めた傷口を開いて覗く様な真似は絶対にしてはいけない」と、生徒たちに注意した。
一度注目されたからか、遠藤先生の言葉もあってか、もう誰もフミヤの痣を気にしなくなり、近寄って「ごめんな早野」と、声を掛ける者もいた。
やっと、授業が遅れて始まろうとした時に、
「早野、少し腫れてるから保健室で診てもらって来い。横山連れっててやれ」
遠藤先生にそう言われて、「はい」と、カラ元気で返事をして、フミヤと保健室に向った。遠藤先生が気を回してくれたのか分からないけれど、あのまま授業に出るのもバツが悪かったので助かった。
授業中で静まり返った廊下を二人で歩いた。授業中に廊下を歩くなんて、そうそう経験できることではない。
ときどき教師の冗談に笑う生徒の声が静かな廊下に響く。
「痛いか」浩二が訊く。
「痛くないよ、ごめんね、せっかくのプールの授業なのに」申し訳なさそうにフミヤが言う。
『フミヤくんの身体に痣あった?』
佳織の言葉が思い出されて、教室から聞こえる笑い声に混ざって消えた。
次の日も、その次の日もフミヤは学校を休んだ。先生は「熱が出たから」と説明した。
土曜日のクラブの練習日にも。まだ来ていない。
いつもなら、フミヤは割と早く来ているから、ギリギリの浩二に「浩ちゃん遅いよ」と、注意して来るくらいだから、もう恐らく、今日は来ないのだろう。
「横山」フォワードの木村が声を掛けてきて、「午後からの練習試合、早野がスタメンだってさ、来てるの見た?」
「ああ、まだ来てないみたいだな」ストレッチをしながら、振り返って答えた。
「早野って、昨日も学校休んでたよな、大丈夫なの?。そろそろミーティングやるってよ」
「ああ」返事をして、皆が集まっている方に行った。
ミーティングが終って各々にアップを始めだした頃に、フミヤが「遅れました」と言いながら駆けて来た。
監督にお辞儀してアップに加わろうと、浩二の方に来た。
並んで腰をおろして足を伸ばしてストレッチを始めた。
同じ恰好で並んでストレッチをしながら「もう大丈夫なのか?」フミヤを見て言った。
「うん、大丈夫」フミヤが伏し目がちに答える。
「フ、良紀、午後の試合で」先発だってよ」
珍しく帽子を被っているフミヤを見て言った。
「本当に、やった!」嬉しそうだ、ただ、目を伏せたままだ。
「良紀」フミヤを見て言った。
「なあに、浩ちゃん」目を伏せたまま、視線を合わせないで答えた。
「フミヤ」近づいて、帽子のツバを少し上げた。目の横に、いかにも痛々しく、青紫の痣があった。
「なんだよ、どうしたんだよ、これ」声を殺して訊いた。
「転んだんだよ」声が震えていた。
「嘘つくなよ」小さい声だった。
「嘘じゃないよ」絞り出したような声が返ってくる。
「嘘つけ、殴られたんだろ」浩二は、立ち上がって大きな声を出していた。
「違うよ、転んだんだよ」フミヤが浩二を見上げて、大きい声で言い返した。
「誰に殴られた」浩二がフミヤの肩を掴んで叫んだ。
二人の声に、周りの皆が一斉にこちらに向き直った。監督が何事かと近づいてきて、フミヤの顔の痣に気付いた。
「どうした」と監督が触れようとするのを避けて立ち上がり、その場を立ち去ろうとした。
浩二がそのフミヤの手を掴んで止めた。
フミヤは浩二の手を払い除ける。
ちょっと揉みあいになった所を、監督が止めに入った。
「横山、ちょっと向う行ってろ」
「なんで」浩二は不満を隠さず返す。
「いいから、わかってるから、な」と、短い言葉だけど、言い聞かせる様な言い方だったから、仕方なく監督に従った。
監督は離れた所までフミヤを連れて行って、話しをしている。周りはそのやり取りを見守っていた。監督は少し話してから、一人で戻ってきて「よーし、パス連からやるぞー」と号令をかけた。
「監督」と言い寄る浩二の肩にに手を置き、「心配すんな、今日は帰って休む様に言ったから」そう言うと、浩二の背中を押して「ほら、始めるぞ」とセンターサークルの方へ促した。
サークル付近からサイドにパスを出し、ゴールに向かい走り込んで、折り返しのパスを受けてサイドの選手が走り込み易いスペースに再びパスを出す。サイドの選手がディフェンス役の位置で判断してシュートに行くか、ゴール前に折り返すか、といった流れの練習だった。
後から「おい、横山の番」と、声掛けられて慌てて、パスを出して走り出すが、ちょっと走って止まってしまう。折り返されてきたボールが転々と転がっていく。
「何やってんだよ横山」サイド役の木村が言う。
浩二が、ゴールとは逆に向かって走り出す。
「どこ行くんだよ横山」木村が大声で呼ぶ。
「わるい、ちょっと行ってくる」浩二が大声で返す。
ボールを拾ってきた永田が、木村に寄って来て「何、アイツ便所?」
「さあ?て言うか、試合大丈夫なのか?」
浩二はグラウンドを抜けて走った。校門を出て、寺谷用水沿いの道を走った。
フミヤの家までは何度か来たことがあったけど、敷地の中に入った事は無かった。
平屋の造りで、浩二の家と同じ様に古い家だった。
門柱と玄関の間の、小さな作業小屋にフミヤの自転車があった。
玄関のチャイムを押した。浩二の心臓が高鳴る。返事がない。
もう一度チャイムを鳴らす。返事がない。
「よーしーのーりーくーん」大声で呼び掛ける。
もう一度チャイムを鳴らして呼び掛ける。
「よーしーのーりーくーん」返事がない。
「良紀」呼び掛ける。返事がない。
家の中で何かが倒れる物音がした。
玄関の戸をバンバンと叩く。
「フミヤ、おい、フミヤ居るんだろ」
「フミヤ」バンバン「俺だよ浩二だよ」バンバン「どうしたんだよフミヤ、試合始まっちゃうよ」バンバン。
玄関の扉を叩き続ける浩二の後から声が響く。
「横山」大きな声が聞こえた。浩二は構わず戸を叩いて叫んだ
「フミヤ」
「横山やめるんだ」浩二の後を追ってきた監督が、浩二を羽交い絞めにして玄関の扉から引きはがした。
「フミヤあ」浩二の上げた声は、もう家の中まで届くものじゃなくなった。頬を涙が伝た。
「やめるんだ横山、わかったから、な、横山」監督に抑えられて、もう浩二は抵抗しなかった。
フミヤは日曜日の試合も来なかった。翌日も浩二はフミヤの家に行ったけと、返事は無かった。
フミヤが読んでくれればと、玄関のポストに『練習ノート』を入れて帰った。
月曜日の学校も休んで、火曜日に登校してきた。何て声を掛けるべきか悩んだけど、とにかく声を掛けた。
「良紀」フミヤはいつもより明るい声で「浩ちゃんおはよう」と答えて「練習試合どうだった」とか、「僕も出たかった」とか、いつものように普通に会話してきた。
声はいつもより明るく元気だったけど、表情がほとんど無かった。まるで機械みたいに話すので、堪らず「良紀、大丈夫か?」と訊くと「え、何が?変なの、浩ちゃん」と笑うので何も言い返せなかった。
週末から暑い日が続いていて、梅雨明けの発表はいつだろうかと、誰しも夏本番を待ちわびていて、気分も徐々に上がってい行く様な陽気なのに、浩二の気分は梅雨雲が懸かったままだった。
3時間目の授業が、2クラス合同で屋上に出て行われた。
普段は屋上に上がる事が出来なくなっているので、その貴重な体験は、解放感と共に楽しい気分にさせた。
屋上は陽射しもあったけれど、初夏の風が抜けていくので気持よかった。
社会の地形の授業で、天竜川の扇状地や、磐田原台地の蓄積についてとか、天竜川が蛇行していた頃の足跡がわかる旧河道を屋上から確認したり、点在する古墳の説明をする授業だった。
地元の事の授業だったし、この辺りが、昔は度々氾濫するエリアだった、という話しは面白かった。
面白い授業は例外なく、あっと言う間に終了し、すぐに教室に戻る時間になる。非日常の終了時間だ。
古田先生が屋上の出入口の扉を開いて「教室にもどりますよー」と生徒を送り出す。
出口で見回して、フミヤを探したけど見えなかった。「ほら、横山君も出て」と、古田先生に押し出される。
しゃべり声が重なって、ざわざわと反響している中、階段を密集になりつつ下りて行く。
後では「ほらそこ、遊ばないで早く出てー」と、古田先生の声が聞こえる。滅多に入れない屋上が名残り惜しく、もたもたとする連中が注意されている様だ。
「ほら、そっち行かないで」「戻って」先生の口調が強くなる。
「ほら、危ないから、何してるの」
「キャーー」
古田先生の悲鳴に、みんな一斉に足が止まり、振り返る。
物凄い悲鳴に生徒が戸惑う、上の方の出入口辺りからざわつき始める「うそ」「落ちたの」「誰が」「わかんない」「早野じゃない」そう聞こえて、耳を疑い、階段を戻ろうとするけど進めない。胸がざわつく。
上にいる生徒に向って投げ掛ける「おい、何があったんだよ」上の方の生徒たちは緊迫していた「横山?わかんねーけど、誰か落ちたって」震えた声だけ返ってくる。
「永田か?落ちたって誰?」声を張り上げる。
「わかんねえよ」返された声から、焦りと、戸惑いが伝わってくる。
永田の横にいた女子生徒が「私見たよ、早野が手摺りの所にいたの、そしたら先生が早く出なさいって」と、喋ってるうちに恐くなって来て早口に答えた。
「先生は?」
「扉開かないんだよ」そう言って扉を叩いて「先生」「先生」と呼びかけた。
「このドア一度閉まると鍵がないと開かないヤツだよ」
「横山、早野と仲良かっただろう、一緒じゃないの?」誰かが訊いてきた。
浩二は、屋上に戻るのをやめて、生徒を搔き分けて階段を下りた。
下の方では何が起きたか知らない生徒ばかりで、通常の休み時間の風景があり、その日常を走り抜けて昇降口を出た。
裏の方でざわざわと声がして、校舎の裏側に回った。
花壇の辺りに人だかりが出来ていた。
心臓の鼓動が、破裂しそうなくらいに早く強くなっていく。
「ちょっとどいて」
「なんだよ」押し除けられた生徒がムッとする。
「どいてくれよ」「押すなよ」人だかりを掻き分ける。
花壇に横たわる男子生徒が見えた。
その前で教師の遠藤が、横たわる生徒を掻き分ける隠すように、守るようにしていた。
浩二が近づこうとすると、遠藤に身体で塞いで止められた。
「先生アイツは?大丈夫なの?」遠藤は答えない。
「放せよ」遠藤が見せない様に隠しながら浩二を抑える。
「放せよ、友達なんだよ」遠藤は無言だ。
「通してくれよ、アイツには俺しかいないんだから」遠藤は無言のままだ。
「頼むよ、通してくれよ、なあ、大丈夫なのかよ遠藤先生」
後から他の教師が来て、浩二を遠藤から引き剥がした。離れさせられた時に、横で携帯電話を片手に持つ6年生くらいの生徒が見えた。
最初は何をしてるのか分からなかったけど「カシャ」というシャッター音がした。
「おまえ、何やってんだよ」
咄嗟に飛び掛かって胸ぐらを掴んで、ヘディングの要領で頭突きをした。
揉みあいになったが、6年生の力には敵わなくて、突き飛ばされる。立ち上がって向って行こうとした時に、教師達に地面に抑え込まれた。
「はなせー」振りほどこうとして、手足をバタバタと藻掻いて暴れた。
まるで駄々っ子みたいに叫んで、泣きじゃくっていた。横になったままのフミヤの前で。
浩二は離れた場所に連れて行かれて、生徒たちは教室に戻された。救急車のサイレンが鳴っていた。パトカーも来たようだった。
慌ただしく、ていった。
誰もいない職員会議室の端の椅子に座って、フミヤが運ばれていくその音を聞いていた。
目を瞑っていないと、いや、瞑っていても、花壇に俯せで横たわるフミヤの姿が、瞼に焼き付いている。
実際には、先生が妨げていて、全容を見た訳では無いのだけど、とうにも頭から離れなかった。
どのくらい時間が経っただろうか、遠藤先生がガラガラっと、戸を開けて会議室に入ってきた。
「先生、フミヤは」浩二が飛び上がる様に立って訊いた。
「今、救急車で搬送したよ」と、息をつくように言って、「まあ、座れ」と、仕草で座らせ、その隣りの椅子を横に向けて、浩二の方を向いて座った。
「横山、今は信じよう」遠藤が言い聞かすように言う。浩二が小さく「うん」と頷いた。
「古田先生は暫く来れそうもないから先生と居よう。それより、お前は怪我してないか?突き飛ばされてただろう」
「平気・・・です」ボソッと答える。
「6年生に突っ掛かってくなんて、無茶しやがって」そう言って浩二の頭をツンと突いた。
「だって」言い返そうとする浩二を遮って、「わかってるよ、お前のした事は間違ってないよ、4年生が6年生に向って行くなんてなかなか出来ないよ、ただ、『暴力』は絶対ダメだろ。わかるよな」
遠藤に言われて力なく「はい」と返事した。
「じゃあ、謝りに行けるな」
返事を渋っていると「相手の子、目のところ、少し痣になってたぞ」そう言われて、フミヤの、あの痣のある顔が一瞬過ってゾッとし、頷いて答えた。
「早野は、暴力なんてしないだろ、笑われちゃうぞ」
「はい」と力なく返事をした。フミヤの名前を出されて目頭が熱くなった。
『暴力』って言葉が重く刺さった。
「6年の子が撮った写真は、先生が消しといたからな」
「ホント」と、顔を上げた浩二の頭を、遠藤が片手でクシャクシャとしながら「きっと大丈夫だよ、きっと」と、自らにも言い聞かせるように言った。
その日は授業に戻らずに、母親が迎えに来た。
問題を起こした生徒は充分言い聞かせて反省させた上で、保護者がに迎えに来てもらう。という規則通りの対応だった。
授業も通常通りに行われていた。休み時間には笑い声も聞こえていて、本当に何もなかった様に時間が流れた。
母親は、浩二が隔離されていた会議室に入るなり、先生に頭を下げた。浩二の頭を上から抑えて、一緒に何度も下げさせた。
学校からの帰り道で、母親は左程怒っていなかった。「早野君、心配だね、学校でそんな事故が起こるなんてねえ」と言っていた。
浩二は、母親の言葉が引っ掛かった。母は『事故』と言っていた。
フミヤが「落ちた」という事実で取り乱していて、「なぜ」という事に考えが行かなかった。はじめて知った「なぜ」は「事故」だった。
家に帰って、部屋で浩二はその事を考えた。大人が「事故」って言うのだからその通りなのだろうけど、ただ「事故」と言われてもよく分からない。ベットに横になってあれこれ考えていたがモヤモヤしたものが消えない。
「浩二入るよー」声と一緒に佳織が入ってきた。
「佳織姉ちゃん、来たの?」浩二が驚く。
「そりゃ、来るよ、あんた大丈夫?」そう言って、椅子に座って浩二の顔を覗き込む。
「聞いたよ、頭突きしたんだって」と、ニヤけて言った。
浩二はもう勘弁してくれと言わんばかりに「もう謝ったよ」と、情けない声を出した。
「いいんだよ、浩二、あんた間違ってないよ、そんな奴、浩二がやらなかったら姉ちゃんが蹴とばしてたよ」と、勇ましい事を言ってから「気持はね」と付け加えた。
「フミヤくん、連絡が無いって事は大丈夫って事だよ」察した様に佳織が言った。
「下で聞いたけど、『屋上から生徒が誤って落下するという事故があって、そこに集まってきた生徒とトラブルになった』って、電話があったんだって」
「そうだよ」またそのトラブルの話かと、うんざりして答えた。
「学校の屋上って、誤って落ちるかな?」
佳織が思っていたのと違う話しを始めた。胸がドクンと鳴り、慌てて起き上がる。
「柵を乗り越えて遊んでたなら分かるけど、フミヤくんだよ、浩二じゃあるまいし」
「何が言いたいんだよ」佳織が淡々と話すのが怖かった。
「あんたも屋上にいたんでしょ、間違えて落ちる様な場所なの?」浩二に詰め寄る。
「わかんないよ、そんなの」そう答えたけれど、確かに身体の小さいフミヤなら尚更、わざわざ乗り越えてでもしない限り、落ちるなんて難しい、子供の浩二にも分かった。
「浩二、心当たり無い?」佳織が真顔で訊いた。
「なんだよそれ」と言いながら、フミヤの痣が過ったけれど、それを搔き消して「誤って落ちたんじゃ無いなら、なんなんだよ、怖いよ姉ちゃん」声が震えた。
「ごめんね、怖がらせるつもりは無かったんだよ、姉ちゃんには心当たりがあったから」そう言って席を立った。
「でもね、浩二は知らなきゃいけないんじゃないかな」
次の日、朝礼で「早野良紀くんが昨日病院で亡くなりました」と古田先生が言って、フミヤの机に花を飾った。
「ご冥福を祈りましょう」と、皆で黙とうした。
浩二は教室を出て走り出していた。
後から古田先生の声がしたけど、良く聞こえなかった。
用水路沿いの道を走った。息が切れるくらい全力で走ったのにきつくなかった。
陽射しがジリジリと照っていたけれど、全然、暑く感じなかった。
蝉の声がうるさいくらいで、もう、やっと梅雨が開けるなあと思って空を見上げたら、快晴だった。
何度か、浩二の試合を観戦しに来た事があったけれど、校舎の中に入るのは、確か初めてだった。
私が卒業した浜松の小学校とは、だいぶ造りが違うけれど、歴史は古く、明治の同じ年の創立だそうだ。
私の小学校は、構内に森がある様な、ちょと変わった小学校だったので、比べるには、そぐわないかもしれない。
当然、校舎は建替えられていて、その後も改修などで手入れされているので、古さはまったく感じない。
来客用の玄関から校舎に入ると、ワックスの効いた床が、昼下がりの陽射しに反射してピカピカに光っている。子供たちがツルっと滑ってしまいそうなほど、それ程にキレイに清掃されていた。
玄関がキレイだと気持ちが良いものだ、こんな用事で来たのでなければだが。
廊下のトロフィーや、盾が並んでいるショウケースを横目に、休日の独特な静けさのある校舎の廊下を進み、職員室の扉を開ける。
まだ夏休みに入ったばかりだからなのか、思いの外、職員室には人が居た。近くにいた先生らしき人に声を掛けて、遠藤先生に取り次いで貰うと、すぐに奥から手を上げて出てきた。
「ご無沙汰してます。遠藤先生」
「いやー、久し振りだな、見違えたよ」
「先生は、変わらないですね」
笑顔で、ありきたりな挨拶を交わし、懐かしむ。しかし、この後の笑顔がお互いに続かない。これから話す事を考えると、やはり気が重い。
応接室に通されて、向かい合う。
「いやあ、もう何年になるかな」
「卒業してからだから、もう5年、6年近いな。しかし、まさか、横山浩二の従姉が、横山佳織だったとはな、驚いたよ」
「本当に、遠藤先生が浩二の小学校に転任してらしたなんて」
佳織が卒業した浜松の新津小学校で、五、六年生の時の担任だったのが遠藤だった。
当時は、新任のお兄さん先生と言った感じで、親近感があって生徒たちにも人気があり、好意を抱く生徒は少なくなかった。佳織も友人から淡々しい悩みを聞かされた事もある。
もう30歳になる筈だが、相変わらず、日焼けした褐色の肌が印象的で目を引き、年齢よりも若さがある。当時よりも教師らしい雰囲気を纏っていて、改めて見ても信頼が持てそうな印象だ。
この学校で、あんな事故が起きていなければだ。
「浩二の様子はどうだ」遠藤が笑顔を消して「終業式まで、何日かは登校していたけど」と、心配している様子を窺わせる。
「家で、ゴロゴロしてます。以前なら、休みになるとボール持って飛び出して行くのに。別人みたいです」
本当に別人の様だった。あれから浩二がボールを蹴っていところを見ていない。叔母に訊いたら、何度か庭で見かけたけど、すぐに止めてしまっていだらしい。「以前は毎日々ボール蹴って、止めろと言っても止めなかったのに」と、溢していた。
「そうか」と、目を瞑り小さく二度頷いた。
会話の途中に、目を瞑って話す人が苦手だった、テレビのワイドショーなどで、高速で瞬きをして目を瞑り、専門外の事を得意げに語っている、良く分からない肩書の人がいるが、あれはとても見ていられない。だが、遠藤のそれは、さほど印象悪くなかった。
話しながら目を瞑るか、話した後に瞑るかの違いだと気付いた。
「早野君が亡くなって、今日で10日経ったけど、浩二に何て声を掛ければいいのか、正直分かりません。」
「そうだな」
遠藤は聞き役に回るつもりのようだ。
「葬儀もお身内だけで済まされた様で、お別れも出来ていないんです。早野さん宅に伺おうと思ったんですけど、お婆さんが、寝込んでしまっているそうなんです」
叔母にも、とても伺える様な状況じゃないから、今は止めておきなさいと、言われていた。
「お婆さんは、早野のお母さん代わりだったから。それは気落ちされる事だろうな」遠藤が、良紀の祖母を想い計る。
「良紀君は、お婆さんと仲良かったんですか」
「今は担任じゃないから、しばらくお会いしてないけど、とても優しいお婆さんだよ。話してると、早野の事をすごく大事にされているのが伝わったよ、早野は身体が弱いから、いつも心配されてたよ」遠藤が、自分が担任だった頃を思い出して話す。
「お爺さんとはどうですか」佳織が真顔で訊く。
「お爺さんは、挨拶くらいしかした事ないけど、すごく、厳しいって聞いてるけど、どうした、何が聞きたいんだよ、尋問みたいにして」遠藤が怪訝そうに見る。
「先生は、良紀君の痣、見たんですよね」
遠藤が思わず、他に誰もいない応接室で左右に目をやる。少し前に乗り出したが、背もたれに寄りかかる。少し起きて腕を組む。ちょうど3秒使って答えた。
「ああ」
室内の空気が変わった。重く尖っている。
「あの痣は、転んだとかじゃ無いですよね」
「いや、あれは」遠藤の言葉を遮り、佳織が続ける
「顔に痣が出来ていた時もあったそうですよ。あの子、身体に触れようとすると、怯えて、身体を竦めるんですよ。知っていますか?」
「いや」
「あれは、殴られた痣ですよ」
佳織が、まるで殴った本人を見るような視線を向ける。
遠藤は少し考え「そうかもしれないな」と、答えるのが精一杯だた。
「それなのに何故『事故』なんですか?学校では調べないんですか。担任の、古田先生でしたっけ、目撃してるんですよね」と、佳織が捲し立てる。
「古田先生は、ちょっと、今はダメなんだよ。要領を得ないというか、曖昧模糊としていて、どうとでも取れる言いようなんだよ」
「そんな、担任ですよね、自分の生徒が亡くなってるて言うのに」そう言いながらも、もしも自分が、目の前で浩二やフミヤが落ちるのを目撃したと思うと、鳥肌が立って、想像に至らなかった。自分なら間違いなく発狂してしまった事だろう。それでも古田先生を攻めるしかなかった。
「古田先生は、目撃していて、知ってるんですよね。私は見てないけれど『事故』ではなくて『自殺』だと思います。先生はどう思いますか」
ハッキリと言い切った。頭にはあったけれど、『自殺』という言葉を口に出したのは初めてだった。不覚にも頬を涙が伝った。
佳織の言葉の余韻が棘をもって残り、間が開いた。壁掛け時計の針の音が聞こえる。
「俺は、担任じゃないからと、遠慮しているところがあったのは確かだ。今は、教頭と学年主任の先生が対応しているんだけど、ただの痛ましい事故が起きてしまった、としか思っていないんじゃないかな、同じ様な事故が起きないための対策のガイドラインを作成してる様だし」遠藤が決まり悪そうに言う
「そうだな、まだ、ハッキリと決めてしまうのは良くないけれど、ただの『事故』では無いと思ってるよ。早野に何かが起きていたのは事実だろう。それが、もしイジメなのだとしたら、事実関係を明確にする調査を行うべきだ」
「私は、いじめは無いと思っています」佳織が涙を拭って言う。
「えっ」遠藤が驚き、「じゃあ佳織は、何だって言うんだよ」
佳織が、まっすぐ遠藤を見る。
佳織が訊いてきた事を思い返す。
「嘘だろ・・・」遠藤が言葉を飲み込む。
室内が静かになり、エアコンの動く音が目だち、窓の外から蝉のの声がうるさく聞こえてくる。
佳織は、そういえば、今日は30℃を上回るとか天気予報で言っていたなと、思い出していた。
8月に入ると陽射しは更に強さを増して、音を立てて容赦なく照らして来るけれど、時折吹く風が縁側を抜けると心地よい。
浜松の自宅では味わえない、縁側の空間が結構気に入っているのだけれど、風が止むと流石に暑いので、図書館に避難して勉強することにした。
最近は浩二も練習に行くようになったけれど、それ以外の日は自室に籠り気味で、夏休みを持て余している。気になって仕方がない。
「浩二、入るよー」
扉を開けると、ベットに横になって漫画を読んでいる。
「姉ちゃん、図書館行って来るけど」
漫画から顔を上げる事無く「うーん」と、空返事だ。
「浩二、漫画くらい、もっと楽しそうに読みなさいよ、まさかの、感動巨編ものとかなの?」
「えー、銀魂」
「じゃあ、少しは笑えよ」
佳織は溜息を漏らして「宿題やった?図書館行って一緒にやろうよ」
「ええー嫌だよ」
「なに、あんた、休み中ずっとそうしてるつもり?お昼ご飯奢ってあげるから行こう」
「姉ちゃんの運転だろ、おっかねーよ」少し表情を見せた。
「あんた、喧嘩売ってんの?」
佳織は密かに、自動車の運転免許を、夏休み前に取得していた。浜松ならともかく、磐田では車が無いと何かと不便だし、自宅と行き来するのにはやはり都合が良いので、今回も親の車を借りて来ていた。
あわよくば、雄介とドライブでもと、思ったけれど、8月に入って、またバイトに駆り出されて行った。
「浩二、観念して、早く支度してよ」
浩二は仕方なく、嫌々、準備をする事にした。学校のカバンも、休みに入ってからは、しばらく放置したままで、机の上に積み上げたままだった。
何の宿題が出ているのかも分かってないけど、適当にカバンに詰め直す。カバンから出した中に、下手な文字で名前が書かれた、あの算数のノートがあった。
開いた最初のページには、『全国大会出場』の文字がある。ページを開くと練習メニューが書いてある。腹筋100回3セットの箇所には、まるで囲んで線を引っ張って『先ずは1日100回から』と、書き込んである。フミヤの文字だ。
涙が溢れてきた。ページを捲って行くと、下半身のイラストを書いて、トラップの仕方を図で分かり易く解説してあった。
そうだ、フミヤは、絵がうまかったもんな。涙が溢れて止まらない。
ノートは途中までしか使ってない。本当なら、このノートいっぱいにサッカーの事を書き綴るはずだった。その後、何冊も書いていく筈だった。最後のページがドッグイアで折り曲げてある。開くと、端の方に、フミヤの文字で書いてある。
「お母さんごめんなさい」
「お母さんたすけて」
胸を抉り取られた様な痛みが走った。
「浩二、準備できたの」佳織が呼びに入ってきた。
浩二が椅子に座ったまま、ノートを手に、声を殺して泣きじゃくっている。
「どうしたの浩二」佳織が心配になり近寄る。
「姉ちゃん、これ」浩二が顔をグシャグシャにしてノートを見せた。
後から鈍器で殴られた様な衝撃が佳織を襲う。誰に対してか分からない怒りがこみ上げてきた。
9歳の子供が「たすけて」と書き残している。
9歳の子供が、何年も会っていない母親に「ごめんなさい」と謝っている。
なぜ、あの時、あの河川敷の公園で、もっと踏み込んで話しを聞いてあげなかったのだろうか。私は気付いていたのに。私のせいだ。
なんて事をしてしまったのだろう。自責の念にかられる。
浩二を見ると、泣き崩れている。この子もきっと、同じ様に自分を責めてるんだろう。なぜあの時、あの時自分がと。
浩二の肩を掴んで起す「浩二、行こう」
「何処に」涙を拭いながら言う。
「フミヤ君の家だよ、説明してもらおう」浩二を、立ち上がらせて、算数のノートを手にして部屋を出る。
助けてあげられなかった。だから、必ず、何が起きていたのか、ウヤムヤにさせないで、はっきりさせる。
早野の家は知っていたけれど、敷地の中に入った事は無かったが、浩二は勝手知ってる感じで中に入っていき、庭先で自転車を止めた。
玄関の扉の前煮立ち、緊張したけれど、浩二が躊躇なく呼び鈴を押した。
佳織は、浩二の思い切りの良さに脱帽して、この期に及んでビビッている自分に腹が立つ。
長いメロディーの呼び出しは、止まったけれど応答がない。もう一度押すけれど、やはり返答がない。
「留守か」また、後で来ようかと、浩二に言おうとしたが、浩二が庭へ入っていく。
「ちょっと、どこ行くの」
「姉ちゃんは、ちょっと待ってて」と、裏手へ廻って行く。
ソワソワと落ち着かなかったが、仕方なしに待った。
暫くして、玄関で物音がして、玄関が開いた。中から浩二が出て来た。
「誰もいないよ。台所の小窓のカギ開いてた」と、悪ぶれもせずに言う。
「ちょっと、あんた何やってんのよ、と、声を抑えて叱る。
「早く出なさいよ」と、手を引くけれど、浩二がその手を払い除ける。
「フミヤが何かされてた証拠を見つけるんだよ」
「ダメだよ、出て」
「いやだ、もう後悔したくない」そう言って、家の中へ戻て言った。
「ちょっと」と、佳織も仕方なしに入っていく。
玄関を入ると、正面に広間があり、右手に居間と台所が奥に見えた。中途半端な高さに、確かに子供なら通れるであろう小窓が有った。おそらく、浩二はあそこから中に入ったのだろう。
玄関の左には廊下が延びていて、突き当りに扉があった。
「浩二、どこ」声を抑えて呼び掛ける。
「こっちー」突き当りの部屋のほうから声がした。
「すいません。お邪魔します」と、誰にとなく断わって、脱いだ靴を手に持って入っていく。
佳織は子供のころから、キチンとルールを守る子だった。廊下は走らないし、給食も残さなかった。学校帰りに寄り道だってしなかった。高校生になっても、報告して許可を取ってから寄り道していた。
そうしてルールを守ってると褒められるのが嬉しかった。嬉しいから、ずっと、優等生らしくしていた。男女交際だって、周りの子に比べたら清すぎる交際だ。
そのうち、うるさく言われる事も無くなってきた。だからバイトを始める時も何も言われなかったし、車の免許を取るのも許してもらえた。
そんな佳織が、今まさに、ルールを破っている。しかも、結構な違反をしている。子供を連れてだ。落ち着かない。お腹の辺りがスースーする感じだ。
しかし、ルールーを守って、立ち入らない様にしたら、救えなかったのは事実だ。浩二が言った、『もう後悔したくない』を言い訳にして、足を踏み出した。
廊下の突き当りの部屋は、6帖ほどの子供部屋だった。フミヤの部屋だろう。
窓際の勉強机には教科書などがきれいに並べられていた。その横のベットはまだきちんと布団が敷いてある。
小学生の部屋にしてはキレイ過ぎるけれど、今日もこの部屋にフミヤが、いつもの様に帰ってきそうな、そんな部屋のままだ。
勉強机の椅子に腰かけて、浩二がノートの様なものを開いていた。
浩二の、あの算数のノートよりも、しっかりとした表紙で、厚みもある。ノートの表紙に子供が精一杯丁寧に書いたであろう字で日記と書かれている。下の隅に、早野良紀とあった。
浩二の目が涙で濡れていたけれど、優しく笑っていた。
「姉ちゃん、俺の事書いてあるよ」嬉しそうに言う。
つられて佳織も、涙が溢れた。
「人の日記なんて読んだらダメじゃない」言いながら隣りに並んで読んだ。
『1月1日 はれ きょうから日記をかくことにしました。きょうはお正月なので先生に新しい年から新しいことをはじめるといいといわれたので書くことにします。ちゃんとつづけるようにがんばります。ぞうにがおいしかったです。』
最初のページは、いかにも普通の小学生といった感じで始まっていた。
『1月2日 くもり きょうは親せきの人がたくさんきました。知らない人もいました。お年玉をもらいました。みんな、よしクン、よしクンって言います。ぼくは本当はよしクンじゃないのに。たくさん人がきたけどお母さんはこなかったです。』
『1月3日 くもり きょうは、はちまんぐうに初もうでにいきました。人がいっぱいでした。おじいちゃんがお金を入れてくれて
おいのりしました。お母さんが許してくれるようにお願いしました。』
『1月7日 はれ きょうから学校でした。
学校が終わってから横山君と遊びました。サッカーをしました。横山君はいわ田のサッカークラブに入るっていっていた。いっしょに
入ろうって言われた。お母さんおやすみなさい。』
『2月3日 くもりのちはれ きょうは節分でした。豆まきをしたけどオニの人はいなかった。8つぶ豆をたべました。たりなくてたくさん食べたらおばあちゃんにすごくおこられました。こわかった。お母さんもぼくの
ことおこってるの?』
『3月15日 くもり きょうは日曜日で家にお客さんがきていた。名前をきかれたのでふみやと言ったらおばあちゃんにおこられ
た。おばあちゃんはおこると棒でぶつのでこわいです。でも終わったらやさしいです。ぼくが名前をまちがえたからいけないです。お母さんぼくは良紀なんて名前じゃないよね。』
『3月30日 あめ きょうはお父さんの命日でお墓まいりにいきました。しんせきの人がたくさんきました。みんな帰ってからおばあちゃんにおこられました。なんでかわからないです。さいきんよくおこられます。いい子にしていないとお母さんがきてくれないのできをつけます。』
『4月6日 晴れ 今日から4年生です。また横山君と同じクラスだった。よかったです。家に帰ったらおじいちゃんがサッカーボールを買ってくれました。おばあちゃんはごちそうを作ってくれて優しかったです。』
『4月19日 晴れ サッカークラブのれんしゅうの日です。横山君はレギュラーチームだけど僕はBチームになった。横山君はとても上手です、横山君にへたくそって言われた。横山君は二人で毎日れんしゅうしたらうまくなるからって言っていた』
『5月3日 くもり 横山君と自転車で天竜川まで行きました。けっこうじょうりゅうのほうまで行ったみたいで、水が冷たかった。横山君が僕の事をふみやって呼ぶようになった。僕が本当はふみやって名前だって言ったからだ。僕も横山君を浩ちゃんてよぶことにした。おばあちゃんにばれないようにしないと。でも帰りがおそくなっておこられた。』
『6月21日 はれ 今日も浩ちゃんにへたくそって言われたけど、そのあとのゲーム練習で点を入れた。浩ちゃんがほめてくれた。でもなかなかリフティングが浩ちゃんみたいにうまくできない。家に帰ったらおばあちゃんにまたおこられた。最近はなんでおこるかよくわからない。でも僕がわるいみたい。お母さんごめんなさい』
『7月4日 晴 学校でプールの授業があった。楽しかった。友達がが僕の背中が青くなってるって言ったのでみんなに見られた。転んだっていった。浩ちゃんが練習がんばってるなってかん心してた。おばあちゃんに言おうとおもったけどまたおこられるからやめた。お母さん早くむかえに来てよ』
『7月5日 くもり きょう学校を休んだ。きのうおばあちゃんに怒られた時に、背中を棒でたたかれるのが嫌でよけたら顔に当たった。
目の横がはれた。浩ちゃんが学校が終わってから来てくれたけどお婆ちゃんが寝てるからって帰した。今日はおばあちゃはすごく優しくしてくれた。でもまたきっとおこられる。たすけてお母さん。』
『7月6日 雨 きょうも学校を休んだ。僕は行こうとしたけど、はれがひかないのでおじいさんに休むように言われた。浩ちゃんが今日も来てくれたみたいだった。おばあちゃんは今日も優しかった。』
『7月7日 くもり 今日は土曜日で学校は休みだった。顔ははれてないけど少し青くなっていたので家にいるようにいわれた。おばあちゃんは優しかった。でも今日はサッカーの日なので家を抜けだして練習に行った。帽子をふかくかぶってたけど浩ちゃんに、どうしたその顔、って聞かれた。ぶつけたって言ったら、ウソつけ、なぐられたんだろって言われた。ちがうって言ったけど、誰になぐられた、ってこうふんしてた。違うって言って練習の途中だったけど逃げだして家に帰った。帰ったらおばあちゃんにおこられた。たたかれてる途中で浩ちゃんが来た。玄関のチャイムが鳴って、良紀くーん、て呼んでいた。返事をしないから何回も良紀くーん、てよんでいた。そのうち浩ちゃんが、ふみやーってさけんだ。おばあちゃんがそれを聞いてたたいた。浩ちゃんが、ふみやーって呼んだ。またたたかれた。僕は声をださないようにした。お母さんもういやだよ』
『7月8日 雨 お母さん早く迎えにきてください。僕はこの家の子じゃないでしょ。僕は、おいかわふみや、でしょ。お母さん』
最後のページに書かれた日付の日記は書きかけの様にも読めたが、この日でこのノートは終わっていた。
「早野さんのお婆ちゃん、入院してるんだって、やっぱり良紀君の事が、ショックだったんだろうね。お爺さんが病院に通って世話してるらしいのよ、あそこのお爺さん、偏屈だと思っていたら、意外に優しいんだね、驚いたよ」
叔母が、台所で夕飯を造りながら言った。という事は、近所ではもう周知の事なのだろう。
浩二と早野の家に行った時も結局帰って来る事は無く。見つからずに済んだのはそれが理由だった様だ。
遠藤先生に連絡を取って、先生の勤務日に合わせて学校に伺った。
早野の家での事は伏せておいたけれど、天竜川の河川敷での出来事と、フミヤが「お母さんがいる」と、泣いて話した事。それから、浩二がフミヤに宛てた、算数の練習ノートを渡した。
「お母さんごめんなさい」
「お母さんたすけて」
遠藤は、フミヤが残した、このメモを見て、「こんな事って」と、涙を流した。
そのノートを遠藤に託して、きちんと明らかにすると約束をした。
何故、その算数のノートが浩二の所に戻っていたのか不思議だった。けれど、あのノートは屋上に落ちていて、横山浩二と、名前が書いてあったので、翌日に届けられたが、浩二は朝の会で飛び出して行ってしまったので、置いて行かれたカバンに入れて、自宅へ届けられたのだと、後で聞いた。浩二が夏休みに入っても、カバンを整理しなかったからだ。
夏休みの最後に、衝撃的なニュースが駆け巡り、小学4年生の転落死は、ワイドショーの恰好の的になった。
『事故』が起きてから、実に1か月以上経ってからの報道だった。
「静岡県磐田市の小学校で、4階建ての屋上から小学4年生の男児(9歳)が柵を越えて1階まで転落、全身を強く打ち、搬送先の病院で死亡する痛ましい事故が起きた。当時は屋上での体験授業が行われた後の移動時間だった。緊急で開かれた保護者説明会では、学校側の安全管理の杜撰さが問題に上げられた」
学校の管理責任を問い、連日、批難し続けた。屋上の見取り図を書いたパネルで、事故の原因を、何の専門家だか、よく分からない人達が解説した。
視聴者が飽き出して、ワイドショーがそろそろ違う事件に興味を移そうとした頃、転落した「少年が残した文章」が見つかったと、報道され、この転落事故がまた再加熱した。
少年が残した文章にはこうあった。
「お母さんごめんなさい」
「お母さんたすけて」
算数のノートの最期のページにそう書かれていた。
ワイドショーは無責任に自殺の疑いを語り。増加していく若年層の自殺を特集した。
更には、いじめがあったと、根拠もなく発言しだした。いじめを隠蔽しようとしていたとして、教育機関を口撃した。
9歳の男の子の残した「たすけて」という言葉は、それほど衝撃だった。
見覚えのある学校の校舎が、連日テレビ画面に映し出されて、再び報道は熱を帯びていった。
「両親が他界して、祖父母が引き取って育てている可愛そうな子」というレッテルがフミヤに張られた。
その他でも、小学5年生の女児が「学校で死ねと言われた」というメモを残して自宅マンションから飛び降りて亡くなったというニュースが続いた。学校側は「いじめがあったとは断定できない」と判断した。
そう言った痛ましいニュースが続き、社会的に「小学生の自殺」「いじめ」が取り扱われる事が増えて、大概の場合に、学校側がいじめの事実を隠すので、教育機関のいじめに対しての考え方や取り組み方が問題視されるようになっていった。
社会問題になり、浩二の小学校だけの事ではなくなったので、学校は次第に落ち着きを取り戻してきた。
そんな頃に、佳織は、古田先生と話しをする機会が持てた。遠藤がセッティングしてくれたのだ。
古田先生は、優しい語り口の若い女性だった。優しく話すのは波風が立たない為に習得した話し方に聞こえたのは、こちらが快く思っていないからだろうか、核心に迫ると表情が急に消えたので、やはり武装したものだったようだ。
「先生は、良紀君の最後を目撃してらっしゃるんですよね。どんなだったか、教えて貰えますか」と、切り出した瞬間に、古田先生の顔は強張って笑顔が消えた。
「あの子はフラフラと、出口と反対の手摺りの方に歩いて行きました。自分の意思で手摺りに近付きました。でも、それは景色を見る為だったのかも知れません。柵を越えたのは、躓いた様にも見えたし、自ら乗り越えた様にも見えなくも無かったです。一瞬の事だったので。ただ、目の前から彼が消えたんです」
聞いてはいたけれど、どちらとも言えない言い回しだった。
「先生はどちらだと思いますか」と、ハッキリと質問したけれど、響かなかった様で、「私にはわかりません」と答えた。
驚いたのは、報道が出る数日前に、フミヤの母親と名乗る女性が訪ねてきたそうだ。
古田先生は「良く知らない保護者の方だったので、説明を求められましたけれど、詳しい事は話しませんでした。ただ、学校ではどんな様子だったのか聞かれたので、「元気で明るい子でした」とだけ伝えました」と、平然と話した。
フミヤは「元気で明るい子」というよりも「大人しくて優しい子」の方だったはずだ。
「母親は亡くなっていると聞いていたので、俄かには信じられませんでした。どこかの記者の方か何かだと思っていましたので、その女性が泣き崩れた時には驚きました、もしかしたら本当の母親かもしれないと思い直しました」
驚いた、という言葉をつかっていたけれど、彼女が驚くところが想像出来ない程に、抑揚のない話し方で、この会話から何も感じ取れない、というより、取られない様にしている。
ガイドラインに基づいて、予め決められた回答で対応している感じだ。何度も同じ様な会話を繰り返し、求められて来たのだろう。
学校に話しを聞きたいと考えた時に、ネットで小学生自殺と学校について、似たような事故の事例や遺族の事など、いろいろ調べていて、文科省の『学校事故対応に対する指針』に行きついた。
有識者会議で検討された時のもので、緊急時の各種マニュアルの素案や、子供の自殺が起きたときの背景調査の指針だとか、遺族や保護者への関わり方、報告書の様式やフロチャートまであった。
こんな事が起きてなければ、感銘を受けたかもしれないが、フロイト信者が作った様な細かくカテゴライズされた心理分析には腹が立ち、報告や体制などやたらとガバナンスを意識させる、心の通っていない文面に怒りを覚えた。
古田先生と話していて、この時の気持ちを思い出した。しかし、彼女も、見たくもない最悪な場面を目撃してしまい、何度も説明を求められたのだろう。責任も追及されたに違いない。対応はフミヤを良く知らない他者が決めて、言葉は制限され、私の様な小娘にまで対応させられている。
『なるほど、この話し方にもなるな』と、同情のようなものも感じたけれど、フミヤの変化に気付けなかった、この教師を許さない。
そうではない、プールの件で、遠藤から報告を受けていた筈だから、彼女は知っていた筈だ。
遠藤も同じだし、気付いていて何も出来なかった自分が一番許せない。
古田先生と話しをして、『先生』というのはただの呼称にすぎないと実感した。この人は『教師』ではない。
私は、絶対に、この人よりもまともな教師になれる。敵意だったかも知れないけれど、唐突に思った。
そもそも、遺族でもない私が話しを聞く事など、いくら遠藤の口利きでも異例なのだろう。それほど、あの算数のノートの存在が大きかったのだろう。
それから暫くして、遠藤先生が尽力してくれて、算数ノートは公になった。公になり過ぎだったけれど。
春を待ちわびている市民公園のグラウンドに、「サイド上がれー」と監督の声が大きく響いた。
その声よりも早く、浩二が左サイドを駆け上がると、中央からパスが出てきた。そこに相手ディフェンスが詰めて来る。左足でパスを受けて反転して背中でディフェンダーを抑えて、ボールを右に持ち替えてキープする。
右サイドから中央に走り込んでくるのが、視界に入ってきた。サイドライン側に反転すると、背中で抑えていたディフェンダーがつられて付いて来る。すかさず左足でボールを右に捌き、逆側に躱して抜き去る。走り込んでくる木村に向けて蹴り上げたボールが、緩やかな弧を描いていき、木村の足元に優しくそっと届いた。後は木村が振り抜くだけで、ゴールネットが揺れた。
「ゴール」歓声が沸く。
木村が駆け寄って浩二とハイタッチをする。その腕には黒い喪章がある。掲げた手で天を射した。選手達が駆け寄りそれに習い、皆で天を指した。
来年度のゴールデンウィークに開催される全国選抜の地区予選の初戦を、見事に快勝で突破した。浩二は、U12のカテゴリーで上級生の中に混ざって活躍してみせた。
佳織は、受験が終わったのもあって、久し振りに浩二の応援に駆けつけた。
暦は3月に入ったけれど、まだまだ肌寒い。浩二が楽しそうにサッカーをする姿を見ていると、気持ちも晴れやかになる。そして、フミヤがボールを追っている姿を思い出させる。
偶然に居合わせて、隣りで観戦していた遠藤も似たような気持ちだったのだろう。
「早野も喜んでいるだろう」勝利に湧きあがる浩二たちを見て言った。
「そうですね、きっと一緒にプレイしたかったと思います」
カテゴリーが上がると競争は厳しくなっていくけれど、フミヤなら食らい付いて、試合に出たかもしれない。そう思った。
「1か月ほど前に、早野さんが亡くなったの知っているか?」
突然訊かれて驚いて、遠藤の方を一度見たが、向き直り「はい、聞きました、叔母から」と、答えた。
早野のお爺さんには、話しを聞くべく、タイミングを窺っていたけれど、お婆さんが入院中だったのと、私が受験の只中で、時期を逸していた所だった。
「心中って聞きましたけど、本当なんですか?」叔母の噂話を鵜呑みにするのも憚れていた。
「どうやら本当だそうだよ。早野のお婆さんはね、認知症を患っていて、思い込みや妄想が強かったんだ。早野の事は、亡くなった自分の息子だと思い込んでいたらしいんだ。『良紀』って名前も亡くなった息子さんの名前なんだよ。思い込みや妄想は脳障害から来る事だから修正は不可能なんだ」
焼けた肌に微笑を交えて、遠藤が優しく説明する。認知症は知ってはいるが、理解まで出来てはいないので「何を勝手な」と、遠藤に食って掛かりそうになる。
「認知症がいつ頃からかは分からないけれど、早野は幼稚園の頃には引き取られて来ていたそうだ。その頃から厳しく躾けていたのを、疎遠になった親戚の方が見ているんだ。どうして子供を引き取ったのかと、揉めた事もあったそうだよ。ただ、早野を引き取るに当たって、お爺さんが弁護士を使って、半ば強引に連れてきたんだそうだ。母親は子供を取り戻す為に奔走していて、お爺さん側の弁護士と揉めて通報される事もあったくらいで、戦っていたんだ。事故を知って学校に来たんだけど、子供を見つけた時には、もうそこに、子供は居なかったんだ」
古田先生から母親が学校に来た事は聞いていたけれど、聞かされていた登場人物に血が通ったようで、母親の無念が伝わってきた。
「それから、先月の早野さんが亡くなる前に、母親、うん、お母さんは、早野さんの家に行っているんだ。何をしに行ったのか、どんな話しかは分からないけど、穏やかな話しじゃ無いのは想像つくだろう」
想像すると、血液の流れが早くなった気がした。
「私だったら、殺します。絶対に」
自分で恐ろしい事を口にしてる自覚はあって、心臓が早く動き出した。
「そうだろうな」と、遠藤が、さも理解者だというように細く笑った。
「実際に最初は疑われてお母さんの身元も調べられたんだけど、遺書があった。お爺さんのものだ。早野、違うな、えーと、確か及川史也と言うんだ。早野良紀の本名は」
絶対に及川史也の方が恰好が良いと、咄嗟に思う。
「及川史也くんにまつわる一連の事、弁護士に無理強いして早野の戸籍に移した事、母親の事に出生の事まで書いてあった。史也くんは、早野さんの亡くなった息子さんの子供と、及川さん、つまり史也くんのお母さんとの間に出来た子供。早野さんは曾祖父母に当たるんだ。その、曾お爺さんの遺書は、及川さん、お母さんへの謝罪で締めくくられていたそうだよ」
「そんな謝罪で許されるものじゃない」と、怒りを露わにしたけれど、疑問に思って訊く。
「でも、先生、何でそんなに詳しいんですか?」
遠藤は頭を書きながら「実は、第一発見者なんだ」
「えっ」予想していなかった返答に、思わず聞き返した。
「先生が、早野さんの遺体を発見したんだよ。あの日、早野さんに、史也くんの事を話してもらおうとして伺ったんだ。玄関が開いていて呼び掛けても返事が無かったから、中を覗いたんだ。そしたら、もう、思い出したくもない光景だったよ」と、遠藤が目を閉じて首を振って見せる。
「心配なのは、早野さんの家を訪れた後の、その後の及川さんの消息がつかめないそうだよ。両親も事故で亡くなっていて身寄りがないんだ。その日の夜に浜松の海岸の方に向かうのを見たって情報もあるらしいけど、行方がわからないんだ」
確かにお母さんが心配だ。ふと、浩二よりも及川さんの方が歳が近いと気付いた。そう思うと、勝手に親近感が増してくる分、心配になる。
「でも先生が、早野のお爺さんに、話しを聞きに行ったなんて、そんな行動を起すなんて、見直しました」
「尊敬出来るだろ」
「尊敬はしません」キッパリと言って切り捨てる。
「なんだよ、俺に憧れて教職目指したんじゃないのか」
遠藤は心外だといわんばかりだ。
「反面教師でしょ」と、笑って返す。
気付くと、ねーちゃんと、浩二が呼ぶ声がした。ベンチ前の輪の前から、浩二がこちらに手を振っている。
立ち上がって手を振り返す。浩二が腕の喪章を指さして、次に天を指した。
「フミヤ見てるかな」
「うん、見てるよ」と、手を振った。
風が抜けると、気持ちは良いのだけれど、まだ冷たい。まだまだ、桜が咲く気配は無い。
「ただいまー」
横山佳織は学校から帰宅して、家に居るだろう母に声をかけた。
返事がなかったので居間を覗くと、母は近所のお母さん達と、話に夢中になっていたようだ。
「あら、お帰り、早かったのね」と、そこで佳織に気付いた。
テレビのワイドショーを見ながら何やら言い合っていた様だ。
増加する若年層の自殺について適当な事を言っているコメンテーターに、こちらも適当な事を言って返している。
「嫌ねー」とか「嫌だわー」と、対岸の火事を傍観していたおばさん達に、一応「こんにちは」と挨拶した。
「あら佳織ちゃん、おかえり。きれいになったわねー、すっかり先生ねー」と、割と頻繁に顔を合わせているのに、毎度言われるフレーズに苦笑して、さして興味もないのに訪ねた。
「何の話題?」
「ほら、磐田のほうの小学校で自殺があっ
たじゃない。知らないの?」
知っていた。小学生の自殺は衝撃的だったし、原因が苛めだったのが問題だった。佳織が勤める浜松の小学校にも通達があったりして、職員会議の議題になった。
「あんたの学校大丈夫なの?」と、母は心配したが、仮に何かあったとしても、新任の佳織にどうこう出来る事など無かった。
それでも「大丈夫よ」と、答えた。
母が思い出した様に「母さんたち出前取ったけど佳織もたべるかい?」
「随分遅いお昼ね。私はいい」そう言って自室に入った。
着替えて出て行くと、「あら、出掛けるの?」と訊かれて、「うん、ちょっと」とだけ答えた時に、携帯の着信が鳴った。
「もしもし、うん、ごめん今行くね」
「雄介君?」と、電話を切った佳織に母が訊いた。
「うん、ちょっと行ってきまーす」
足早に玄関に向かう佳織の背に向けて、母が「あんた晩ご飯は?」と投げ掛けた。
玄関でブーツを履きながら「いらなーい」と答えた時に、玄関のチャイムが鳴った。
玄関を開けようとして握手を掴もうとした時に不意に扉が開いたので、驚いて「わっ」と、声を出してしまった。
「ごめんなさい、大丈夫ですか?」
そこには男が発泡スチロールの箱を抱えて立っていて、すぐに出前の人と分かったけれど、変な声を聞かれてしまって、一瞬恥ずかしさで顔を上げれなかった。
「だ、大丈夫です、すいません。あ、ちょっと待って下さいね」そう言って振り返り、奥に向かって「お母さーん、来たよー」と投げ掛けた。
母はすぐ出てきたが「なに、佳織まだ居たの?」玄関に立っている佳織に言った。
「居たのってなによ、もう、行ってきます」
佳織は配達の男に軽い会釈をして玄関を出た。
「あんまり遅くならないのよ」と外に出た佳織に言ったが、返事は聞こえなかった。
そのやり取りを横で立ったまま見送っていた男が「賑やかですね」そう言って微笑みながら玄関の上がり框の上に、箱の中の物を並べた。
「もう落ち着きのない娘で、あれでも先生なのよ。困っちゃうわ」
「そうなんですか」
「ええ、今年から小学校の。そう言えば知ってます?磐田の小学生が自殺したの」
「ええ、テレビで」
「嫌よねー、今もテレビでやってたけど、その小学校で、以前にも同じ様な事があったのよ」
「そうなんですか?」
「そうなのよ、確か5年くらい前よ。ちょうど親戚の子供がその学校通ってたから、大変な騒ぎだったのよ、最初は転落事故だったんだけど、後から自殺って事になってね、その事を学校が隠したりしてて問題になったのよ」
「そうなんですか」
「それでね、その後自殺した子の家族が心中したのよ」
「心中ですか・・・」
「最初は殺人とか、強盗とかいろいろ言われてたけど、なんだかお婆さんが、もう呆けちゃってたみたいでね、無理心中って事だったみたいなのよ」
「そんな事あったんですか・・・」
「これは噂だけど、そこの家の身内の人もなんだか行方が分からないらしくてね、心中したんじゃないかってね、なんだか御不幸の続く家だったみたいでねえ、可哀そうに」
「心中ですか・・・」
「嫌ねー、学校も大変みたいだから、娘の所でそんな事にならないといいけど」
「ご心配ですよね」
「お子さんはいらっしゃるの?」
「はい」そう言って男は伝票を差し出した。
「じゃあ、これ、丁度あると思います」
「有難うございます」と、言って代金を受け取った。
「あの、これ春の新メニューなんですけど良かったら試してみてください」そう言って小さな包みを差し出した。
「桜と芽キャベツのタリアッテレです」
「あら、すいません、頂きます」
男は満面の笑みで「有難うございました。またよろしくお願いします」深く頭を下げて玄関を出た。
佳織は遅れてしまい急いでいた。
浜松の駅から少し離れた所にある店で、雄介と待ち合わせていた。佳織の家と駅のちょうど中間くらいだろうか。
何年か前に開店したその店の事は、佳織も知っていて、パスタ料理が美味しいとわりと評判だったけれど、一度も入った事がなかった。
「mare dunes」と書かれた小さな看板を見つけて中を覗くと、雄介の姿があった。
扉を開けると、扉についたカウベルがカランカランと鳴り、その音に気付いて雄介が佳織のほうを向いた。
「いらっしゃいませー」と、声をかけた女性の店員に、雄介のいるテーブルを指して、待ち合わせと仕種で示して席に着いた。
「ごめん、遅れちゃった」
雄介は佳織を一度睨んだが、その仕種で怒っていない事を覚ったけれど、佳織はもう一度「ごめんね」と言っておいた。
その一言で雄介は笑顔になって言った。
「久し振り」
佳織は、1週間が久しいのか、久しくないのか、微妙だったが笑顔で「久し振り」と返した。
「いらしゃいませ」可愛らしい声につられそちらを向くと、小さな女の子がメニューを持って来た。
「ありがとー」そう言って佳織は女の子からメニューを受け取った。自然と笑顔になる。
「何歳?」
女の子は照れくさそうに笑って、指を4本立てた。
「偉いねー」そう言って、佳織は女の子の頭を撫でた。
女の子はカウンターの中の女性の所に戻っていき、体当たりの様に足に抱きついた。女性は女の子の頭を撫でて、小さい声で「ありがとう」と言った。笑顔で見ていた佳織と眼が合った女性は微笑して返した。
「かわいいね」と、雄介に言った。
「子供好きだね、佳織は」と笑った。
「お母さん、だよね多分。きれいな人だね」
幾つだろうか?30代半ば位だとは思うけれど、年齢より若く見えるようだ。
店内は明るく、無垢の木調と石張りの内装は落ち着く感じがして、木のいい香りもいい。
BGMには昔の曲が流れていた。
「ねえ、何て言うんだっけ、このピアノの人」と、言って指を上に指した。
メニューを見ていた雄介が、佳織の指を見て察して答えた。
「ああ、なんだっけ?ビリーなんとか」
「わかった、ビリー・ジョエル」
「違った、ジョンだ、何とかジョン」
「ジョン・レノンは、違うでしょ」
「あ、エルトン・ジョンだ」
「そうか、そうか、エルトン・ジョンね」
二人とも、すっきりした顔で笑った。
それからお互いパスタを注文して、雄介はすでにコーヒーを飲んでいたので、そのお代りとミルクティーを頼んだ。
「学校はどう?」雄介が訊いた。
「今日、お母さんにも同じこときかれた」
そう言ってため息をついた。
「やっぱり磐田の学校の?」
「そうね、うちの学校もなんだかいろいろあったけど、『いじめ、虐待、体罰問題が起こった時の対応の確認』とか、『現状把握の調査』とか、それなりに議題にはあげるけど、ただ議事録に記録する為にやってる感じで、対外的に言い訳出来るようにってね、私たちはちゃんとやってます、その『証拠作り』みたいな感じの事ばかりでさ」と、佳織は疲れた顔で言った。
「そんなもんなんだね」
「うん、『気をつけましょう』『注意しましょう』とかで、具体的にどうするって事は無いに等しい。まだ大阪とかでやってる『エンパワーメント』とか、『CAPプログラム』とかのほうが目的がしっかりしてる。学校でどう取り入れていくのか問題はあるだろうけど」
「難しくて良く分からないけど、佳織先生としては、学校の体質にもう嫌気がさしてる訳だね」
「私だって理想と現実の区別くらいはついてるつもりだけど、こう明らさまだとね、あの子に笑われちゃう」そう言うと無意識に溜息が出た。
「あ、また溜息だ」と、雄介が笑った。
その雄介の笑顔を見て胸がすっとした。
「ごめんね、愚痴っちゃった」そう言って微笑した。
「お待たせしました」
丁度いいタイミングで、料理が運ばれてきた。
「あの失礼ですけど学校の先生でいらしゃいますか?ごめんなさい聞こえてしまって」
女性店員が訊ねた。
唐突な質問に驚いたけれど、女性の感じの良さに疑念も無く、笑顔で答えた。
「はい、そうです。今年の春からで新米ですけど」
「じゃあ、もしかして東小ですか?」
「ええ、はい。」
「そうなんですか。うちの子も東小の学区なんです。まだ先ですけど、その時はよろしくお願いします。」そう言って頭を下げた。
「そんな、こちらこそ、よろしくお願いします。それまでにはちゃんと一人前になって待ってます」佳織も笑顔で返した。
「はい。期待してます。いろいろ大変でしょうけど頑張って下さいね」
そう言われて佳織は嬉しかった。担任も持っていない新任の佳織が「よろしくおねがいします」など言われるのは初めてだった。晴々した気分になっていた。
「そうだ、春の新メニューがあるんです、良かったら試してみて下さい」
「いいんですか?」
「はい、是非。フミちゃんそこのお皿持って来て。そう、そのお皿」
カウンターの奥に向かって呼びかけると、さっきの小さな女の子が、小さなお皿を両手で持て来た。
「桜と芽キャベツのタリアッテレです。麺に桜の芽が練り込んであるんです」
「おいしそう、頂きます。本当かわいいですねお嬢さん。よくお手伝いして」そう言って女の子の頭を撫でた。
「手伝いたがるんですよ。本当は御転婆で、困ってます。お父さん子で、主人のマネばっかりして」
「そうなんですか、そんな風に見えない。お父さんはどんな方なんですか?」
お父さんの事までと、少し立ち入った質問だったけれど、この女性と女の子のお父さんがどんな人なのかと、とても興味をもった。
女性は悪戯を思いついた子共の様に笑って言った。
「泣き虫です」
「え?」
「みんなでご飯を食べてる時に急に泣き出したりするの・・・内緒ですよ、そろそろ配達から戻って来る頃だから」
佳織は想像した。『笑顔で旦那さんの秘密を話すこの女性と、その家族が食卓を囲んでいる時に、不意に涙を流す旦那さん。
何でもない日常に感激したのだろうか、急に涙を流す旦那さんに女性は戸惑い「どうしたの?」と訊ねるけれど、その顔は笑顔でとても幸せそうだ。
その食卓は明るく優しさに包まれていて、「苛め」などとは遠いところにあって、みんな笑っている食卓』勝手な想像をして思った事が口をついて出た。
「素敵」
「そういえば」と、雄介が割って入った。
「お店の名前mare dunesってどういう意味なんですか?」
「あ、私も気になってた」
「イタリア語で、『砂丘の海』です。ちょっと無理やり読ませているんですけど、主人が海の近くで生まれたので」と言って、女性は微笑した。
「なるほど」と言う、佳織と雄介の声が重なって、言った後に笑ってしまった。
「あら、ごめんなさいお水なかったわね」
「あ、すいません」
「フミちゃん、お水持って来て」そう女の子に言うと、女の子は舌っ足らずでワザとらしく答えた。
「はいはい」
エルトン・ジョンの流れる店内に緩やかなピアノの音と笑い声が響いた。
了