9.諦めないヘンリエッタ
その翌日、ヒクソン伯爵となったセストとティーナはレイール公爵家を訪問し、売買契約と最初の納品を無事に終わらせた。
この後、セストは一週間ほど子爵邸に帰ることになっている。
「こんなときに不在にしてすみません」
謝罪を口にするセストにティーナは首を振った。
「急がせてしまったのはこちらですもの、どうぞしっかりと引継ぎなさってきてください」
急な婚姻となった為、セストが子爵家で抱えていた案件が宙ぶらりんになっており、彼はその引継ぎの為に一度、里帰りすることになったのだ。
「お義父様、お義母様によろしくお伝えください」
「いってきます」
ふたりは礼儀正しく別れの挨拶をし、セストを乗せたヒクソン家の紋の入った馬車は門を出て行った。
ティーナはそれを見送ってから屋敷に入り、溜まっている仕事を片付けることにした。
セストがヒクソン伯爵になったのだからこれから執務室を使うのは彼だ。
その為、ティーナの仕事部屋は別の部屋に移すことになっていたのだが、今は大量の書類を運ぶ時間すらもったいない。
セストは一週間は帰ってこない予定で、今すぐ引っ越しに取り掛かる必要はない。
ティーナはそう考えて今までの執務室を使って、仕事をすることにした。
そうなると寝室も今まで使っていた部屋のほうが都合がいい。
「寝室は今までの部屋に戻すわ」
「ですが、主寝室の改装は今日にでも終わりますよ?」
家令の言葉にティーナは、
「セスト様がお戻りになったら部屋を移しましょう、今は時間が惜しいから」
と言った。
改装が終わり、家具が運び込まれた主寝室をこっそり訪れたのはヘンリエッタだった。
「ヘンリエッタ様、なにか御用ですか?」
家令の厳しい口調に、声をかけられたヘンリエッタの肩はびくりと跳ねた。
「どんなお部屋になったのか、見に来ただけよ」
ヘンリエッタはしどろもどろに言い訳をしているがそれに騙される家令ではない。
この娘はあろうことか新婚夫婦の初夜にその寝室に押し掛けるという非常識をしでかしたのだ。
ヘンリエッタがセストに熱を上げていたのは家令も気づいていたが、セストとティーナの結婚は彼女の実母であるラネッタが賛成したのだ。
ならば、娘であるヘンリエッタもそれに従うべきだというのに、彼女は未だにセストを諦めていないようで、今もこうして用もないのに夫婦の部屋を覗きにきている。
「こちらはティーナ様とセスト様の私的な空間。無関係なヘンリエッタ様が入室してよいお部屋ではございません」
風通しの為に開け放っていた入り口を家令はさっと閉めてしまう。
「無関係だなんてひどいわ、わたしはお姉様の妹なのよ?!」
「姉妹だとしても淑女は互いの部屋に勝手に入ったりはしないものです」
家令はそう言ってヘンリエッタの目の前でしっかりと鍵をかけるとさっさと仕事場へと戻っていった。
彼の背中に向かってヘンリエッタがなにやら騒ぎ声をあげていたがそれを気にする家令ではない。
しかしあの様子ではまた侵入を試みるだろう。彼は、使用人全員に注意喚起の通達を出しておくことにした。
セストが子爵家に帰って六日目の夜半過ぎ、彼は数名の護衛騎士と共に馬に乗ってヒクソン家の屋敷に帰ってきた。
「おかえりなさいませ、旦那様」
もうそろそろ寝ようかと思っていた家令のところにセスト到着の先ぶれが届けられた。
時間は深夜を回っており、ティーナは既に眠りについている時間だ。
連日業務に追われていたティーナだったが、ようやく目途がつき、今日は久しぶりに早い時間に自室に引き取っていった。
今頃は疲れ切って眠っているはずで、そんな彼女を起こすのは気の毒になり、家令は自分だけでセストを出迎えることにしたのだ。
「ただいまもどりました、深夜にすみません」
セストの謝罪に家令は微笑んでみせた。
彼はきっと、早くティーナに会いたくて帰ってきたのだろう。
家令は、態度をはっきりさせないセストを不審に思っていた時期もあったが、結婚が決まってからの彼は誰の目にも明らかなほどティーナに溺れていた。
手続きもあったし、彼の引っ越しもあったから毎日のように伯爵邸を訪れていたセストだったが、彼は寸暇ですらティーナと共に過ごしたがった。
セストはいつも午前中のうちに屋敷に入っていたのだが、ティーナが出かけていて不在だと知った時の落胆ぶりはひどいものだった。
「もう間もなく帰ってこられるかと思いますが」
家令の気遣いの言葉もセストには届かないようでずっとため息をついていて、思いがけない彼の情けない姿に家令は内心で笑ってしまったほどだ。
セストの身の内にはこれほどの情熱が隠れていたとは。
どういう意図があって隠していたのかはわからないが、ちょっとしたことで足元をすくわれる恐れもあるのが社交界だ。
彼のクールな態度が案外ティーナを守っていたのかもしれない。
「申し訳ございません、奥様は珍しく早めに就寝されましたので、この時間に起こすのは忍びなく」
家令の言い分にセストもうなずいた。
「わかっています、わたしがいなかったからティーナひとりに負担をかけてしまった」
「子爵家への引継ぎは?」
家令はセストの外套を受け取りながら聞いた。
「きちんと済ませました、これからはヒクソン家の仕事に集中できます」
自信に満ちた物言いに家令は、ありがとうございます、と礼を言い、控えていたメイドにセストを寝室に案内するように言った。
ティーナが今、使っているベッドは彼らの為に新しく用意したものよりは狭いが、それでもふたりが眠れるだけの広さは十分にある。
今夜、セストが初夜を決行するかはともかく、ティーナに会いたいがために深夜にもかかわらず馬を飛ばして帰ってきた一途な男の恋心を無下にするような家令ではなかった。
メイドの案内で屋敷の奥に消えていったセストの背中を見送った彼は、預かった彼の外套をランドリールームに持っていき、自分も自室に引き取ったのだった。
しかし翌朝。
「キャーーーーーーーー!」
女性の大きな悲鳴が早朝のヒクソン邸を支配した。
家令は飛び起きて寝巻のまま、騒ぎのほうへとかけていくと、様子を見ようと自室から出てきたティーナと遭遇した。
「なにがあったの?」
「わかりません、ですが、ご心配なく。旦那様もお疲れでしょうから、どうぞもうひと眠りしてください」
家令の気遣いにティーナは首をかしげた。
「セスト様がお戻りになったの?」
ティーナの言葉に家令も首をかしげた。
「こちらのお部屋にいらっしゃるのでは?」
「いいえ。彼は明日、帰ってくるはずよね?」
ティーナの確認に家令は返事をするより早く走り出した、嫌な予感がしたからだ。
案の定、騒ぎの中心には泣きじゃくるヘンリエッタが廊下に座り込んでいて、セストが必死に、違うんだ、と弁解していた。
家令の前には目を真っ赤にして項垂れているメイドがいる。
彼女は昨夜、帰宅したセストを部屋に案内したメイドだ。
伯爵邸で働き始めてひと月ほどしか経っていないこのメイドは昨日が初めての不寝番だったのだ。
使用人たちには昼も夜もなく、雇い主の貴族がベルを鳴らしたら飛んでいかなければならない。
とはいえ人間なら、朝に起きて、昼に活動し、夜は寝る。それは貴族だって同じだ。
だから大抵の貴族の家では数人の使用人を交代で不寝番にしているのだ。
このメイドが初めて当番になったのが昨日だった。
彼女はティーナの寝室が婚姻前に使っていた部屋に戻っていることを知らなかった。
改装が終わった夫婦の寝室への荷物の運び入れを数日前に手伝った彼女は、その日からティーナがこの部屋で生活することになったのだと勝手に思い込んでいた。
だから帰宅した彼女の夫を夫婦の寝室に案内したし、別にティーナが室内にいなかったとしても当主となったセストがそこで眠ってもなんの問題もないはずだった。
しかし実際には室内にひとがいた。そう、ヘンリエッタだった。
「だって、せっかくお部屋を綺麗にしたのに誰も使わないなんてもったいないでしょう?」
夫婦の部屋を勝手に使っていたヘンリエッタを問い詰めれば彼女は悪びれもなくそう言ってのけた。
「もったいないというのはわかるけど、勝手に使うのはいけないことよ?」
ティーナは幼子を諭すかのようにヘンリエッタに言って聞かせるが、彼女は反論をした。
「わたしだってびっくりしたんですよ!朝、起きたらセスト様が隣で眠っていらっしゃるんだもの」
なにを勘違いしているのかヘンリエッタは少しばかり頬を赤らめている。
そんな彼女にセストはもちろん、彼の想いを知った家令も冷ややかな視線を浴びせている。
「ヘンリエッタ様は先日も勝手にお部屋に入ろうとなさいましたので、わたくしが注意いたしました」
そう証言する家令をヘンリエッタはギロリと睨みつけるも、彼はどこ吹く風だ。
「ヘンリエッタ嬢にはマナー講師をつけましょう」
セストの提案にヘンリエッタが悲鳴のような声を上げた。
「勉強なんて嫌です、もう絶対にこんなことしませんから」
「ヘンリエッタ嬢はいずれ他家に嫁ぐのですよ?そのときに困るのは貴女だし、そもそも非常識な令嬢を引き受けてくれる家があるかどうか」
必死の言い分にもセストはきっぱりと言った。
非常識なんて酷いです、とヘンリエッタは大声で抗議しているが、その声量もマナー違反だとティーナは言いたかった。
にしても、セストも随分と突き放すものだ。彼とヘンリエッタは想いあっているはずなのに、いったいどうしたというのだろう。
「だったら、ヘンリエッタはずっとこの家にいればいいわ」
涼しい声でそう言ったのはラネッタだった。
彼女の提案にティーナは驚いた。ラネッタはヘンリエッタを可愛がっており、彼女の幸せを願っていたはずだ。
しかし、そう考えるとおかしな点もある。
セストとティーナの結婚を後押ししたのはラネッタだ、ヘンリエッタが彼と結婚したがっていることは彼女も知っていたはずなのに、である。
この国は宗教上の理由で離縁は認めておらず、ヘンリエッタが彼と結ばれることはもうできない。
まさか、彼女を一生結婚させる気がないのだろうか。
ヘンリエッタがそれでいいのならティーナにも反論はないが、姉としては良縁を見つけてやりたいと思う。
「貴女はそれでいいの?」
「わたしは」
ティーナの問いにヘンリエッタは言いよどみ、チラチラとセストの様子を伺っている。
先ほどの発言はなんだったのかとも思う程、セストもその視線を真っすぐに受け止めてふたりは長く見つめあっている。
ヒクソン家の為に仕方なく政略結婚を選択したとは言え、想いあう二人を引き裂いてしまったことは申し訳なく思う。
書類上だけの妻であるティーナのことなど気にせず、この屋敷で仲睦まじく暮らしてもらってかまわないのだが、それはヘンリエッタに愛人になれと言っているのも同義でおいそれと提案できることではない。
ともかく、今はヘンリエッタの教育だ。彼女がセストの愛人になるにせよ、どこかに嫁ぐにせよ、マナーを学んでおいても損はない。
「マナー講師の先生に来てもらうことにしましょう、学びは無駄にはなりませんから」
ティーナの決定にヘンリエッタは文句を言っているが、本来ならこれも彼女がデビュタントを迎える前にやらなければならないことだった。
義理の関係であることに加え、仕事に忙しかったティーナは彼女の教育をないがしろにしてしまった。
「ヘンリエッタ、貴女はきっと素敵な淑女になれるわ」
ティーナはそう言って義妹を励ましたのだった。
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