8.ラネッタの思惑
突然の婚姻にもモルガリー子爵は驚くこともなく、セストの婿入りを承諾してくれた。
「ティーナ様にセストをお任せできるとは。これほど心強いことはありません」
彼はそう言って上機嫌でサインをし、ラネッタも当主代理としての最初で最後の『結婚契約書へのサイン』という仕事をした。
そのあとはささやかな食事会となったのだが、終始、和やかな雰囲気の中でヘンリエッタだけはずっとむくれていた。
「しっかりやるんだぞ、セスト」
「はい、頑張ります」
子爵が息子に激励の言葉を送っている隣で子爵夫人はティーナに頭を下げている。
「ティーナ様、どうぞ息子をよろしくお願いします」
男性であれば、幸せにします、とでも言うところだろうが、あいにくティーナは女性だ。
「こちらこそよろしくお願いします」
ティーナは何とか絞り出した言葉で返事をし、セストと並んでモルガリー子爵夫妻の乗った馬車を見送ったのであった。
波乱の話し合いからわずか三日後、セストはティーナの夫となり、ヒクソン伯爵となった。
夫になったのだから彼の住まいは伯爵邸へと移る。
しかし急な引っ越しとなった為、ラネッタが使っていた当主夫妻の部屋はまだ改装が済んでいない。
ひとまず、セストには内扉のある客間を用意した。もちろん扉の先はティーナの新しい部屋だ。
これなら新当主の初夜も問題なく済むだろうと家令は安心していたのだが、ヘンリエッタが見事にその邪魔をしたのだった。
「お母様、何故、ティーナとセスト様の結婚に賛成なさったのですか!」
執務室での話し合いの後、ヘンリエッタは自らの母であるラネッタに詰め寄っていた。
当主代理としてラネッタが何の役にも立っていないことはヘンリエッタにもよく分かっていたが、セストの案に賛成をしてしまったら彼はそれを利用するに決まっている。
なぜなら、セストが恋をしているのはティーナだからだ。
まだ伯爵が存命だった頃、セストと初めて対面したヘンリエッタはすぐに、彼がティーナに心を奪われていることに気づいたのだった。
ラネッタが伯爵の後妻となり、ヘンリエッタの住まいが伯爵邸になった頃には、ティーナが伯爵の商談に同行するのは当たり前のことになっていた。
その関係でティーナとセストはヘンリエッタよりも早く出会っており、ヘンリエッタが彼との初対面を果たした頃にはもう彼の心はティーナに傾いていた。
色恋よりも商売に明け暮れている伯爵やティーナは気づいていないようだったが、ラネッタもそれに感づいていた。
だから彼女はティーナが彼より二歳年上であることを理由にして、セストと婚約するのはヘンリエッタにしたらどうか、と伯爵に提案したのだった。
「そうだね、でも婿に来てくれるのはセスト君だ。どうせなら彼が良いと思うほうにしてもらおう」
「それではあんまりです、選ばれなかった娘はどうなるんですか?」
ラネッタの抗議に伯爵は笑った。
「もちろん別の男性を探しておくさ、ふたりともわたしの可愛い娘だからね」
しかし彼はその約束を果たすことなく逝ってしまった。
伯爵が亡くなってしばらくして、ラネッタの部屋に呼ばれたヘンリエッタは彼女に言われたのだ。
「何としてもセスト様を振り向かせなさい、伯爵夫人になれば何不自由ない暮らしができるもの」
その為の仕掛けとしてラネッタはティーナを仕事漬けにし、セストとの時間が持てないようにしてくれた。(もっとも、ヒクソン家の仕事はラネッタの手におえるものではなく、ラネッタが仕掛けるまでもなくティーナがやるしかなかったのだが。)
最初のうちはヘンリエッタとふたりで出かけることもあったセストだったが、いつからか彼は、ティーナが行けないとなると外出そのものを取りやめにするようになった。
「別にお姉様がいなくてもいいじゃないですか」
「わたしはティーナ嬢とヘンリエッタ嬢のどちらかを選ばねばなりませんので、機会は平等に持ちたいのです」
文句を言うヘンリエッタにセストはそう言ったが、ティーナとセストはヘンリエッタより先に知り合っている。
その時点ですでに平等ではないじゃないかと言ってやりたかった。
そして今日、ラネッタがセストとティーナの婚姻を認めてしまった。
ティーナはともかくセストは喜んで彼女と結婚するだろう。
こうなってしまってはもうヘンリエッタが伯爵夫人になることはできないし、社交をしていない自分では結婚相手を見つけることもできない。
「お母様はわたしに伯爵夫人になれとおっしゃったのに」
ヘンリエッタの非難にもラネッタは悠々と微笑んで言った。
「エッタ、よく考えてみて。セスト様は確かにティーナを気に入っているようだけど彼女はどうかしら?
あの娘はヘンリエッタとセスト様が結婚すべきだと考えてたのよ、たった二歳の年齢差を気にしてね。
そんなティーナがセスト様の気持ちに応えるなんてあるかしら?」
「でもセスト様はきっともう気持ちを隠さないわ」
「ふたりきりにしなければいいのよ、そういう雰囲気にならなければ想いを告げることもできないでしょう?」
「そんなこと、できやしないわよ」
怒ったような顔で言うヘンリエッタとは対照的にラネッタは声を上げて笑った。
「馬鹿ねぇ、あのふたりは結婚したらどこに住むの?」
「それはもちろんこの屋敷でしょ」
「じゃぁわたしたちは?」
「え?それはもちろんこの屋敷で」
そこまで言われてヘンリエッタはやっとラネッタの考えていることがわかった。
つまり彼女は同じ屋敷に住んでいるのだから、常に二人の邪魔をしろと言っているのだ。
「すごい、お母様!そうね、わたし、徹底的に邪魔してやるわ」
「セスト様も気持ちが届かないとわかったら他に癒しを求めるはずよ」
「そのときこそ、わたしの出番というわけね」
ヘンリエッタのやる気に満ちた笑顔にラネッタも微笑んだ。
「伯爵夫人はティーナにやらせておけばいいわ。社交界というところがどんなところか、貴女にもわかったでしょう?
面倒なことはあの娘に任せて、貴女はセスト様をお慰めすることだけに専念なさい」
ラネッタはその下準備として、話し合いのあった日の夜、ティーナの執務室を訪れていた。
婚姻関連で手伝えることはないか、と押し掛けたのだが、彼女が準備した書類を確認しながらわざとらしいため息をついてみせた。
こうすればティーナは絶対引っかかってくれる。
案の定、彼女は書類を書いていた手をとめ、ラネッタに声をかけてきた。
「どうかなさいましたか?」
「いえね、あなたにはこれからも苦労をかけて申し訳ないと思って」
「苦労だなんて、そんなことは」
「でもこれはヒクソン伯爵家の為の政略結婚よ?セスト様もあなたも、意にそぐわぬ相手を押し付けられて。本当に申し訳なく思っているの」
ラネッタの言葉にティーナの顔色が変わったのを見逃す彼女ではなく、更なる追い打ちを掛けた。
「セスト様には誰か想う方がいらっしゃったのではないかしら。ティーナに心当たりはない?」
「どうでしょうか、彼の交友関係はよく知りませんので」
「そうだったわね、セスト様のおそばにはあなたとヘンリエッタしかいなかったものね」
そこまで言ってラネッタは、余計なことをごめんなさいね、と話を終え、書類を確認する作業に戻った。
書類の隙間からちらりとティーナの様子をうかがってみれば、彼女はなにやら考え込んでいる。
セストのそばにはティーナとヘンリエッタのふたりしかいなかった、そしてティーナが政略結婚の相手ならば、意中の娘はヘンリエッタということになる。
あの男は分かりやすくティーナに好意を示していた、それに気付かなかったのは故伯爵とティーナ本人くらいだろう。
だが、この鈍感さにラネッタとヘンリエッタは救われたのだ。
これからもティーナにはせいぜい商売を続けてもらい、自分たちが遊んで暮らせるだけの金を稼いでもらわねばならない。
ヘンリエッタはセストの愛人という立場のほうが幸せになれるだろう。
とかく貴族社会は面倒くさい、マナーをマスターするよりはセストとティーナに養ってもらって一生働かずにすむほうが彼女にとってもいいはずだ。
種は撒いた、あとはそれが芽吹くのを待てばいい。
「さて、わたくしはお先に失礼するわね」
言いたいことだけを言ってラネッタはさっさと執務室を出る。
「おやすみなさい、ティーナ」
「おやすみなさい、ラネッタ様」
可哀そうなほど顔色を悪くしたティーナにラネッタは満面の笑みを向けて就寝の挨拶をしたのだった。
初夜の夜、新婚夫婦の部屋に突撃してきたヘンリエッタを、セストはともかく、ティーナは叱るようなことはしなかった。
ラネッタの種はしっかりと芽吹き、彼女の中ではふたりの恋路を邪魔したのは自分だということになっているのだ。
そんなティーナに、セストの真実の相手であるヘンリエッタを押しのけるようなことができるわけがない。
「お姉様、セスト様。今日は夜通しお話しましょうよ」
大好きなセストが同じ屋敷に住むようになり、ヘンリエッタははしゃいでいるのだろうとティーナは受け取った。
おしゃべりをしたがるなんてまだまだ子供なのだとティーナは微笑んでいるが、あいにくヘンリエッタはそこまで幼稚ではない。
いつか必ずセストを寝取ってやると考えているのだが、もちろん、今はそのときでないこともちゃんとわかっている。
「こんな日に寝室に押しかけてくるなんて非常識だ」
セストの荒げた声にもヘンリエッタは無邪気に返事をしてみせる。
「今日はお引越しで疲れていらっしゃいますよね?わたしったら考えなしでごめんなさい」
謝罪するヘンリエッタの隣でティーナも頭を下げる。
「お疲れのところ申し訳ございません。ヘンリエッタ、わたしの部屋でおしゃべりしましょう。部屋に明かりをつけてくるから待っていなさいね」
ティーナはそう言って内扉から隣室へと行ってしまった。
あとに残されたふたりは険悪ににらみ合う。
「いったいどういうつもりだ」
「可哀そうなお姉様、政略結婚を押し付けられるなんて」
ヘンリエッタはラネッタから教わった通りのセリフを口にしただけだが、思った以上に効果があり、顔色を悪くしたセストはそれ以上の反論をしなかった。
やがてティーナが内扉を開けヘンリエッタを呼び寄せると、
「おやすみなさいませ」
と礼儀正しく挨拶をし、扉を閉めると鍵をかけてしまった。
隣室から漏れ聞こえてくるヘンリエッタのはしゃぎ声にセストは苛立つことしかできなかったのだった。
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