1.ティーナの婚約事情
よろしくおねがいします。
ヒクソン伯爵令嬢ことティーナ・ヒクソンが商談を終えて急いで帰宅してみると、出迎えた家令から、すでに客は到着しており、今はサロンで茶の席を楽しんでいる、と非難めいた眼を向けられた。
「ごめんなさい。偶然、ユール商会の会頭がいらしたからつい、話し込んでしまったの」
「お嬢様、商売に励まれることは大変結構ですが、婚約者様との茶会をすっぽかすなどと」
「すっぽかしてなんかないわ、急いで帰ってきたじゃない。それに彼はまだ婚約者ではないわ」
家令はまだなにか言いたそうな顔をしていたが、ティーナが早足でサロンに向かった為、口を閉じた。
「お待たせして申し訳ございません」
ティーナがサロンに入るとソファに座っていた男性はさっと立ち上がり、彼女の訪れを歓迎した。
「ティーナ嬢、お会いできて良かった」
彼はそう言ってティーナの手に唇を寄せ挨拶をし、彼女を空いている席へとエスコートした。
ティーナが座ろうと腰をかがめたところでキンキンと響く声がサロンに響き渡る。
「お姉様、お客様を待たせるなんて失礼ですわ!」
そう叫んだのはティーナの血のつながらない妹のヘンリエッタだった。
彼女は故ヒクソン伯爵の後妻であるラネッタ夫人の前の夫との間にできた子供だ。
ヒクソン伯爵夫人はティーナを産んで間もなくして亡くなっており、後妻として迎えられたのが大商家の娘であるラネッタだった。
ヒクソン家は領地を持たない貴族で、外国との貿易を生業としている。
ラネッタの実家とは昔から商売上の付き合いがあり、夫を亡くして未亡人となったラネッタを後妻に据えてはくれないか、と当時の会頭に頼まれたのがきっかけだった。
娘には母親が必要だろうし、なにより掲示された持参金がかなりの額で、ちょうど新たな商隊を編成したいと考えていた伯爵はその話を受けることにしたのだ。
しかしその後、ヒクソン伯爵も亡くなってしまった。
後に残されたのは、伯爵の実子であるティーナと後妻のラネッタ、そして彼女の連れ子でありヒクソン伯爵が養子としたヘンリエッタであった。
この国では女性に爵位の継承権はない。
継承可能な成人男性が不在の場合は、残された妻がその代理として決裁権を行使できる。
しかし残念ながらラネッタは全くと言っていいほど商売に興味がなかった。
それどころか生家が商家であることを棚に上げ、扇を広げてパタパタと仰ぎながら、
「お金を稼ぐだなんて卑しいことだわ」
と貴族婦人のように眉をひそめるような女性だった。
もともと算術の本よりも新作ドレスのカタログを熱心に眺めるようなところはあったのだが、思いがけず伯爵夫人となり社交界に出入りするようになった。
後妻だとしても彼女の持つ伯爵夫人という肩書にすり寄ってくる貴族は多く、誘われるままに彼らの茶会に参加していた結果、ラネッタは金儲けが下賤なことであるという偏った考えに染まってしまった。
ヒクソン伯爵代理を務めるべき彼女は、自身が卑下する金儲けをしなければならないのだが、そんなことを彼女がするわけもないしできるわけもない。
従って彼女の代わりにティーナがその任を果たすことになったのだ。
ティーナは今日も彼女の代わりに商談に行っていた。
小一時間ほどで帰ってくるはずだったのに、偶然、新しい事業の共同経営者を見かけて弾んでしまった。
その結果、約束の時間に間に合わなかったというわけである。
ヘンリエッタの大声にティーナは眉をひそめながらも注意はしなかった。
貴族令嬢が大声を出すなどマナー違反もいいところだ。
ラネッタがどう考えているかはわからないが、彼女はヘンリエッタにマナーを教えることも、講師を雇うこともしない。
ヘンリエッタはヒクソン家の血を継いではいないが、伯爵が養子にしたのだから紛れもなく伯爵令嬢だ。
貴族令嬢がこのマナーでは頭が痛くなるというもの。
とはいえ、遅刻をした自分も褒められたものではなく、ティーナはなにも言い返せなかった。
「ヘンリエッタ嬢、貴女の姉君は忙しくされておいでなのですから、そのように責めてはいけません」
「まぁ、セスト様は本当にお優しいのね」
ヘンリエッタはティーナをエスコートする男性をセストと呼び、ほんのりと頬を染めている。
このセスト・モルガリーという人物は子爵家の三男で、彼はいずれティーナかヘンリエッタのどちらかと結婚し、ヒクソン伯爵位を継ぐことになっている。
これはヒクソン伯爵が生きていた頃に締結された契約だ。
本来なら実子のティーナが彼の相手に選ばれるべきではあるが、伯爵はヘンリエッタを養子としている為、彼女と婚姻したセストが爵位を継いでもおかしくはない。
そこで、セストは男児に恵まれなかったヒクソン家を助けてくれるのだから、せめて姉妹のどちらかくらいの選択肢は彼に与えるべきだ、ということになったのだ。
そして、選ばれなかった方に別の相手を、と探し始めた矢先に伯爵は亡くなってしまった。
つまりセストに選ばれなかったほうは自力で相手を見つけなければならなくなった。
ヘンリエッタは母親のラネッタに似て着飾ることは大好きだが、貴族の社交はマナーが厳しく、理解しきれていない為、積極的に参加することはしていない。
相手を探すなら社交をしなければならず、それが嫌なヘンリエッタは見目も悪くないセストと結婚したいと思っているようだ。
ティーナとしてはセスト以外の男性とも知り合ってみたほうがいいとは思っているが、気乗りしないヘンリエッタに無理強いしても面倒なことになるとわかっているので黙っている。
それにティーナは彼より二歳年上だ。この国では女性のほうが年齢が上の夫婦はあまり歓迎されていないと聞いた。
もちろん彼から結婚を申し込まれたら妻として誠実に向き合っていくつもりではあるが、ヘンリエッタがセストを望んでいるのだから義姉としても、是非、お願いします、と言いたいところではあった。
そして肝心のセストはというと、誰になにを聞かれてものらりくらりとかわすばかりで、彼の心のうちは未だに見えないままだった。
その証拠に、彼は今日、観劇に誘いに来たのだが、用意したチケットはきっちり三人分だった。
「席が確保できましたので、お誘いにまいりました」
「素敵!何を着ていこうかしら、楽しみだわ」
はしゃいだ声を上げるヘンリエッタとは裏腹にティーナは難しい顔をしている。
「ティーナ嬢はお時間が取れませんか?」
「ええと」
チケットに書かれている日は午前も午後も会合が入っている。
開演は夕方の為、時間には間に合うが、貴族令嬢なら午後まるまるを使って支度をすべきところだ。
どうしようか迷っているティーナに鋭い視線が飛んできた。
ちらりとそちらを見れば、それは鬼の形相でティーナを睨みつけているヘンリエッタだった。
以前、仕事を理由にセストの誘いを断ったことがあった。
「わたくしは行けませんが、ヘンリエッタがご一緒しますのでふたりで楽しんできてください」
ティーナがそう断ると彼は外出そのものを取りやめにしてしまったのだ。
「ティーナ嬢のご都合が悪いのでしたら別の日に改めましょう。あぁ、お気になさらず、美術館などいつでも行けますからね」
その日の夕食でティーナはヘンリエッタから散々なじられた。
「ひどいわ、セスト様とのデートがなくなっちゃったじゃない!」
「わたしはあなたとふたりで行ってきたらいいとお勧めしたわ」
ティーナの言い分が気に入らなかったのか、ラネッタまで文句を言いだした。
「セスト様はお優しいもの、貴女が行かないのならご遠慮なさるに決まってるでしょう?」
「それは。申し訳ありませんでした」
ふたりに責められたティーナはしぶしぶ謝罪をしたのだが、それ以降、セストからの誘いは断らないようにしている。
でないと、またヘンリエッタとラネッタのふたりからネチネチ言われてしまうからだ。
今もヘンリエッタはティーナを睨みつけており、その目は断るなと言っている。
こうなったら身支度はほどほどにして出かけるしかない。
ティーナは内心でため息をつきながらも、
「ありがとうございます、是非、ご一緒させていただきます」
と笑顔で答えたのだった。
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