第一話『玉響の行き違い』(続)
「……っと……ねぇ……て!」
ふわふわとした感覚がまた戻って来た。夢の中で聞いていた声とは全然違う声色。少し低めの、テノールくらいの声。少しずつ大きくなっていくその声に頭が冴えて来た。
「ちょっと! 大丈夫?」
「……? ロロ、さん?」
重い瞼を無理やり開けようとすると、キラッと眩しい光が目の中に刺さってくる。二度ほど瞬きをすると、ぼんやりと見える時計の頭。少しずつ合っていく焦点によって、くっきりと見えるようになった時には慌てた様子のロロさんがいた。何とかして体を起こすと、隣にはルナちゃんが眉尻を下げて見つめていた。
「えっと、ど、どうされたんですか?」
「どうって、ルナが半泣きになりながら私を呼びに来たのよ! そしたら、苦しそうに唸っているからびっくりしちゃって!」
ウンウンと首を縦に振るルナちゃんは確かに泣きそうな顔をしている。あまり感情が顔に出ない子だと思っていたからこそ、罪悪感が出てくる。そうか、私うなされていたんだ。しかも二人がここまで焦るってことは、またあの夢を見ていたのか。
「すみません、ご迷惑おかけして」
「そんなこと気にしなくていいのよ。それより、今日の予定やめておいたら? ゆっくり休むのも大事よ」
「それは……」
あの夢を見てから行こうとするなんて、無謀だろうか。鉛のように重い体は外出することを拒否しているよう。せっかく決断したのにも関わらず、こうして嫌な記憶が私の足を引っ張ってくる。何度これを繰り返したことか。
チラッと少女を見ると、変わらず心配そうな顔をして綺麗な緑色の目に涙をためていた。
「ごめんなさい。今日、行かないとダメなんです」
「それは本当に? 今じゃないとダメなの?」
「はい。そうしないと、絶対後悔するから」
じっと私の顔を見つめる時計人。見つめているか分からないけれど、私を止めようとしているのは確実だ。心配性なのだろう。ロロさんはきっと心の底から優しい人だ。
だって、どこの人間かはっきりと分かっていない私にここまで気にかけてくれるのだから。キュッと手を握りしめていると、その上から白い手が握ってくれた。
「大丈夫。璃菜ならできるよ。ね?」
問いかけるルナちゃん。その視線の先にはロロさんがいて、口元を少し緩ませる彼女を見つめた。花がほころぶような笑顔は絵画のようで、私もつられて笑いながら頷いた。「はぁ」とため息ついた彼は「分かったわよ」と渋々許可をしてくれたようだ。
「でも、無理は禁物。ちゃんと夕飯までには帰ってくるのよ。いいわね?」
「はい、ありがとうございます」
頭を下げると、「ほらほら、準備する!」と手をパンパンと叩きながら立った。急かしているようだが、どこまでも世話をかけてしまう私に呆れを見せない彼は優しすぎる。その横に座っている彼女も「よかったね」と言ってくれたので、感謝の言葉を伝えた。
「さて、準備しようかな」
近くに置いていたスマホで時間を確認すると、もうそろそろお昼を過ぎそうだ。わざわざこの時間に設定したのだから、遅れるわけにはいかない。二人と話したことにより少しずつ頭が冴えて来たので布団から出ることに。ロロさんはあのまま下に降りて行ったようで布団を畳んでいる時に階段を降りる音が聞こえた。
「ルナちゃんはこれからどうするの?」
「あと一時間後くらいに夕飯の買い物に行く予定です」
「そうなんだ。そういえばルナちゃんってすごい力持ちだよね。何か運動とかやってたの?」
「いえ、鍛えられただけです」
さりげなく片付けの手伝いをしてくれる彼女はいつの間にかもとの表情に戻っていた。鍛えられた、とは言っているけどあんな細いのに鍛えていたと考えると私もまだまだだなぁ。
中学から長い間バスケットボール部に所属していたから筋トレはかなりしてきたつもり。普通の女の子よりも力はあるが、彼女ほどではない。お風呂では傷にしか目がいかなかったけど、綺麗に引き締まっている筋肉であろうことを想像した。
「では、私はロロの手伝いに行ってくるので。璃菜も気をつけてください」
「うん、ありがとう」
ぺこりと頭を下げてパタパタと去って行った。艶のある黒髪がしなやかに動いて行くのを見送った後、「よし」と一人で気合いを入れる。キャリーケースの中に入れてある小さめのカバンを取り出し、必要最低限の物を突っ込んだ。
急いでいるのもあり扱いが雑になってしまったのだが、仕方ない。スマホを手に取り、以前から聞いていた彼女の居場所を確認する。
「これって、ストーカー……いやいや、そんなことないし。うん」
一瞬、嫌なことが頭の中に浮かんだがすぐに否定する。中学からの友達と話していた時に流れで聞いただけだから。カバンを肩にかけて目的の場所を目指すために急いで階段を降りる。
玄関で靴を履いていると、「転ぶんじゃないわよ!」とロロさんの声が聞こえた。
「はーい! じゃ、行って来ます!」
元気よく叫んですっかり日が昇っている明るい外へと向かって行った。