第一話『玉響の行き違い』(続)
夏とは言え朝の散歩は少し体が冷えたらしい。民宿の中に入るとふんわりと温かさを感じてホッとした。それと同時に香るご飯の炊けた匂い。あれだけ朝早く起きたのにもうできているのだろうか。
もしかして、ルナちゃんを起こしたことによってロロさんも起きてしまったのかもしれない。それだったら申し訳ないな。
「あら、もう帰って来たの? まだ少し時間かかるからシャワーでも浴びて来たらどうかしら?」
「い、いいんですか?」
「いいわよぉ。ゆっくりして来てね!」
パチンとウインクをしている姿が目に浮かぶ。声だけ聞こえるロロさんは忙しそうに準備しているようだ。ジュージューと香ばしい香りが漂っている。今日はウインナーでも焼いているのだろうか。ぐぅとお腹が鳴る。先にシャワーを浴びないと。
二階に置いてあるタオルを取りに行き、一回のお風呂場へと向かった。そこまで広くはないけれど、二、三人ほどなら入ることができる立派なお風呂場だ。身にまとっている服を脱ぎ、脱衣所のカゴに入れる。フェイスタオルを持ってドアを開けようとすると、自動的に開いた……わけがなく、そこにはルナちゃんがいた。
「すみません、先に入っちゃいました」
「あ、大丈夫、よ……って何その傷!?」
「……? あぁ、これですか? もう治っているので大丈夫ですよ」
「そ、そう?」
「はい。では、私も朝ご飯の準備をしてきますね」
私の横を通り過ぎ、先ほどとは異なる服を順番に着ていく。昨日出会った時と同じ服を着終わった後、すぐに出て行った。裸になった私は閉まった扉を見つめる。あの傷、どう見ても無事では済まされないもののような。
右肩から肘にかけてできた大きな傷。縫われたあとがくっきりと見えた。それだけではない。背中にも細かい傷がいくつもあった。どこかで引っ掻かれたような、そしてそれに抵抗して切れたもの。普通に生きていてはできない傷の数。
「どう、見ても……っくしゅ」
ぶるりと震える体に冷え切っていることを無理やり知らせたいらしい。夏とは言え、風邪を引いたら大変だ。彼女のことが気になって仕方なかったが、まだ知り合って二日目。少し話をしたとは言え、失礼だろう。
頭の中に思い浮かぶ想像を遥かに上回る理由だなんて、知る由もない。
「あら、ちゃーんと温まってきたかしら?」
「はい! すみません、ありがとうございます」
「いいのよ。女の子が体を冷やしちゃ悪いからね。あ、ルナ! またつまみ食いしようとして!」
ぺちっと叩かれているのはホカホカに温まったのが分かるルナちゃん。ほんのり頬が赤らんでいるのはその証拠なのだろう。長めの袖に下は少し余裕のあるパンツ。ガウチョまでとはいかないが、足元が少し開いているのでチラチラと絹の肌が見える。
ロロさんに手を叩かれた彼女はむぅと頬を少々膨らませていた。昨日はそんな姿を見なかったけど、意外と表情豊かなのかも。可愛らしい場面もあるんだな、と年相応であることに安心した。
私が椅子に座り目の前に置かれる朝食を見つめる。昨日より品数は少ないが、私からしては豪華な内容だ。
「これ、今日もロロさんが?」
「えぇ。栄養が偏らないようにちゃんと勉強したのよ?」
「へー……そこまでしてるいんですか」
「そりゃそうよ。私は食べなくていいけど、あなた達は違うんだから」
カタっと置かれたのは味噌汁。でも、昨日とは違う具沢山の味噌汁。ゴロゴロに入っているのを見て、口の中に唾液が溜まった。ロロさんの話を聞いていると、見た目は変わっているけど中身は人間と一緒。
ただ一つ違うのは、食べ物を必要としてない。
飲み物は飲んでいるので味覚はあるのだろう。ただ固形のものが食べられないだけ。自分は必要ないことを勉強して他人のために努力ができるなんて。
「素敵ですね」
「え?」
「あっいや、その」
「ふふっ ありがとう」
ピタッと止まった彼の腕はちょうどルナちゃんのお味噌汁を置いたところで。タイミングが悪かったなとか、変なこと言っちゃったかな、など思ったけど。それらを全て吹っ飛ばすような感謝の言葉に心が素直に喜んでいた。
でもロロさんの笑いは、嬉しそうだったけど、少し悲しみも含んでいるような。なんというか、言葉にはできないけれどきっと色々あったんだろうなって。私には深く突っ込むことはできない。
つられるように私も笑って、「ほら、食べるわよ!」と小さい鍋を置いた彼が座った。
「せーの! いただきます!」
「いただきます!」
元気よく挨拶をして、具沢山味噌汁に手をつける。昨日も同じことをしたような。どこでもいつでも食べられるのになぜかロロさんのスープが恋しいと感じるのだ。不思議な感覚、といえばそれで終わるけれど、きっと人を想って作っているからなんだろうなぁ。
味噌以外にも野菜の甘みが口の中に広がり、ふぅと一息つく。シャワーで体を温めても体の中心はそう簡単には変わらないらしい。足りない部分が満たされていく感覚で思わずため息が出るのだ。
「それで? 二人で何を話していたのかしら?」
「へ?」
意気揚々と焼きたてのウインナーを口に運ぶ最中だった。唐突に聞かれたので口が開いたままになっている私。「あ、ごめんなさい。食べてからでいいわよ」と促してくれたおかげでなんとか食べることができた。
一口で食べるのは女性的にどうかとよく言われるが、そんなことは気にしなくていいのが楽だ。少しだけある空間にポツンと置いてある野菜ジュースらしきものをチラッと見た。
「まぁ、世間話ですよ。主に私の相談でしたけど」
「そうだったの。この子に相談して何か変わったかしら?」
「変わった、というか。何か大切なものを教えてもらえたような」
「曖昧ねぇ。それ、本当に変わったの?」
チラッとルナちゃんを見るロロさん。黙々と口にご飯とウインナーを交互に運んでいる姿は機械のよう。お腹空いているのとご飯が美味しいのと両方だろう。私たちの話を聞いているのか聞いていないのか分からないが、頭を大人しく撫でられている。
「変わりましたよ! 少なくとも私は、そう思っているので」
「そう? それなら良かったわ」
ズズッと最後の一口を飲み干してその後は私のことについて色々質問された。ここに来た経緯を聞かれるかと思ったが、そうではないらしい。どこに住んでいたのかとか、東京はどんな所なのかとか、家族はいるのか、とか。本当にたわいもないことで、普段友達ともしない話なので新鮮だった。
お茶碗に入ったご飯と味噌汁がなくなっていくと同時に私の食欲が満たされていく。最後の一粒まで食べ終わった後、「ごちそうさまでした」と手を合わせた。
「はーい、お粗末さま。今日は予定あるのかしら?」
「うーん、そうですね。お昼から一応、あります」
「そう。お昼ご飯はどうするの?」
「あ、それは外で食べるので大丈夫です」
「了解。気をつけて出かけるのよ。それまで部屋でゆっくりしてたら?」
「そうします」
かちゃかちゃと食器の音を立てながら下げてくれるロロさん。どこまでも気にかけてくれる人で温かさが滲み出ている。少し泣きそうになるのは、誰かを思い出しているからなのだろうか。
ふと頭によぎるのは一人の女の子。いつだって私のことを気にかけてくれた、優しい女の子。少しだけ浮いている足をぶらぶらさせながら、ぼーっと天井を見つめた。
「元気に、しているかなぁ」
「誰がですか?」
「うぇ!? い、いつの間に……」
私の独り言にツッコミが入るのは今日で二度目。先ほど視界に入っていた彼女は片付けの手伝いをしていたはず。なんなら食器洗いを手伝っていたのにいつからここにいたのか。視線を下ろすと手には一枚の布。食器が全てなくなった机を拭きに来たようだ。
「あー……ほら、さっきの友達だよ」
「お友達」
「うん。昔のことを思い出していてねぇ。今日、会いに行く予定なんだけどね」
会いに行く、と自分で言葉にすると心臓が速くなる。元々の目的を忘れていたわけではない。今まで誰にも話すことがなかったことを、少しだけルナちゃんに話したことにより楽になった。ほんの少しだけ。
息を止めたまま動いているような感覚にいつの間にか慣れていたらしい。やっと呼吸ができるようになったことにより、気づいてしまったのだ。
「大丈夫なのでしょうか」
「えっ な、何が?」
「ロロが重そうに鍋を持っているので」
ルナちゃんの言葉に思わずドキリと胸が鳴る。ぼうっとしていた私は彼女の視線の先をみると、厨房で重そうに運んでいるロロさん。ハッキリとは見えないが、寸胴鍋でも運んでいるのだろうか。
じーっと見つめてから、「手伝って来ます」と去って行く少女。見抜かれている気持ちになった私はホッとして自分の部屋へと向かおうとした。
「あの」
「は、はい!」
「頑張ってください」
「へ?」
それでは、と軽く一礼して去って行く彼女の後ろ姿を見つめた。さらさらと動く黒髪はすでに一つに結ばれている。特別な装飾品があるわけではないが、艶のある絹はいつまでも見つめてしまう。
変な返事をしてしまったことに気が付いたのは数秒後のことで、ハッとした時には重そうに持っていた鍋を軽々と運んでいるルナちゃんの姿が。やっぱり、力持ちなんだなぁ。小柄のどこにそんな力があるのだか。
「頑張る、か……」
まだここに戻って来て半日程度。ノスタルジックを感じていたが、それだけではダメなのだ。やっとの思いで足を動かして二階へと上がる。ポケットに入れっぱなしにしていたスマホを見ると、まだ午前八時前。どうあがいても時間が余っている。
「ふぁ……もう一眠り、しようかな」
部屋に入ると大きなあくびが出て来た。敷きっぱなしの布団は綺麗に畳まれて端っこに置いてある。きっとロロさんが畳んでくれたのだろう。彼も彼で一生懸命に働いている。働いている、というよりも楽しそうにお世話を焼いている気もするけど。
自分のことはあまり話したがらない人だったけど、どんな人なのだろうか。畳の上に座り、窓から見える水平線を見つめた。気温が少しずつ上がって来ているようで、上着はもう要らなさそうだ。
「ちょっとだけ……」
重くなってくる瞼と体を重力に任せた。疲れているのだろうか。こんなにも眠たくなることなんてなかったのに。脱いだ上着を頭に持って来て枕がわりにする。潮の匂いが私の鼻をくすぐった。
少しだけ、少しだけ。誰に言われることもなく言い聞かせながら深い眠りへと沈んで行った。